夜の軽い思考タイム
シャワーを浴び、空我と別れて部屋に戻った武は、布団の中で思考に耽っていた。頭の中の大半を占めるのは、先ほど行った修練という名の試練と、突然頭の中で流れた奪われたとおぼしき過去の記憶のことについてだ。
武自身、あの映像が流れるまでは間違いなく人を殺すということに躊躇していた。だが、あの映像が流れた途端、たがが外れたように、躊躇いなくあの男を殺していた。そして、そのことに関する後悔や罪悪感は今なお武の心の中に存在していない。映像が流れる前と後でまるで別人のような自分にとまどう反面、どこか安堵している自分がいることに、武は強い違和感を覚える。
「人を殺したことをなんとも思ってないのも気にはなるが、それ以上に気になるのが記憶についてだな」
武は小声でそう呟く。当然、人を殺してもなんとも思っていない自身の心境の変化にも驚いてはいるものの、今の武にとっては記憶のことの方が重要だった。
(そもそも、今の俺に残されている記憶というのは何だ? いや、逆か。俺から消された記憶というのは何なんだ?)
寝返りを打って考え込む。今の段階では、日常生活には支障はない。言語機能や識字能力といった基本的なものを含めた知識に関してもそこまで支障は感じない。自分の名前や生年月日といった個人情報もある程度覚えている。そうなると奪われたのは、あの白い空間で目を覚めるより前にいた世界で起こった出来事に関する記憶だけということになる。その記憶も、ほんのわずかで、なおかつ不明瞭ではあるものの覚えているところもある。
(昼間、空我の姉妹と会ったときも思ったけど、なんとも中途半端なことをしたもんだよな。俺をこんな目に遇わせた奴は一体何がしたかったんだ? この世界に来て、まだ三日ほどしか経ってないのもあるんだろうが、それにしても意図が全然見えない)
今度は逆の方向に寝返りを打つ。武の頭には、男を殺す前に浮かんだ真っ白な映像が浮かんでいた。
(一番気になるのはあの映像だ。何も見えてなかったのに、あの映像が浮かんだ瞬間から、俺の中が何か変わったみたいな感覚に襲われた。何か大切なものを奪われたとかじゃない。むしろ、何か大切なものを取り戻したような感覚だった)
そんなことを考えていると同時に、頭にあの映像の中で鮮明に聞こえてきた声がよみがえる。
『何があっても、俺が正しいと思ったことをつらぬき通す』
あの画像も音声もほとんどなかった映像の中で、唯一得られた情報だ。そして、その声の主は紛れもなく自分自身だった。一体いつあんなことを言ったのだろうか。
(それに、あの映像に関してばかり意識が向いてたけど、俺があの試験みたいなので殺した男……。どこかで……)
おそらくは失われてしまった記憶の中で会ったことがあるのかもしれない。しかし、そう考えたところで思うところは何もなかった。どうやら、あの場面で流れた、たった一つの映像で自分はだいぶ変わってしまったらしい。
(いや、もともと俺はこんなものだったのかもな。でなければ、あんな大して思い入れのない他人を殺したくらいで、共感能力を消せるわけがない)
そして、そう考えていること自体が自分自身がまともじゃないという最大の証だろうと武は思う。たとえ関わりのない人間であっても、人を一人殺した時点で大罪人だ。まともな人間ならば、その罪の呵責に怯えていてもおかしくはない。それなのに、人殺しのことについて、なんとも思っていないということは、つまりはそういうことだ。
そして、気になることはもう一つ。
(どうして、あのタイミングであの映像が頭に流れたか…… だな)
あの映像が武の変貌のきっかけになったことは疑いようがない。おそらくあの映像が武にとって何か特別なものであったのはおそらく間違いないだろう。そして、それがあのタイミングで流れたことはとても偶然とは思えない。
(どう考えても案内人の仕業…… だよな。最初に出会ったときの様子からして、あいつは間違いなく俺の失った過去の記憶について知っている。だが、一方で腑に落ちないところもある。もし、あの映像が奴の仕業なら、なぜ、奴はあの何もないノイズだらけの映像と音を俺の頭に流した? 俺にたがを外させたかったんなら、そのきっかけとなったあの言葉だけを頭の中に流せばいいだけの話だ)
正直、武にとっては蛇足にしか見えなかった。実際、あの映像で得られた情報は武自身の声だけだ。なぜ、あのノイズだらけの映像を武の頭の中に流す必要があったのか。
本当は案内人に聞くのが手っ取り早いのだろうが、案内人が正直に答えるとはとても思えなかった。
「もう別にどうでもいいけどな。明日は早いらしいし、もう寝るか」
武は仰向けになり、目を閉じる。とても人を殺してから初めて迎えた夜とは思えないほど、武はぐっすりと眠った。
○○○○○
三時四十五分。もうすでに武はこの時間に目が覚めるようになってしまっていた。
「確か四時半に迎えにくるって言ってたな。準備だけしたら、部屋でボケッと待ってるか」
武はゆっくりと立ち上がり、昨日渡された祓い師の装束を手に取る。なんとなく装束をまじまじと見てしまう。
白を基調に両肩から下の裾まで灰色のラインが入り、ところどころに収納ポケットが取り付けられたパーカーと、黒を基調にした前後に二つずつポケットが付けられたズボン。一見すると私服に見えてしまいそうなカジュアルなものだった。
祓い師は特権階級を用意されていると聞かされていただけに、こういう装いだったとは武にとっては少し意外だった。
「用意してもらっている身で文句は言えねえからな。それに、ド派手な格好よりは遥かにマシだしな」
それに、こういう格好だと大衆に紛れ込みやすく、いろいろ都合がいいんだろうと武は内心ひとりごちる。
武は白い着物の寝間着を脱ぎ、装束を身に纏う。部屋に備えつけられた鏡を見ると、どこにでもいそうな普通の若者にしか見えない自分の姿が映っていた。武は思わず苦笑してしまう。
「準備はできた。あとは待つだけだな」
武はその場に座り込み、静かに空我の迎えを待つ。その立ち振る舞いは、何よりも揺るぎなく、何よりも不安定で、誰よりも正しく、そして、誰よりも狂っていることを感じさせるものだった。
彼の初出撃まであとわずか……。




