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哲学の論理学的叙述について(プロクロス。スピノザ。ウイトゲンシュタイン)考察

作者: 舜風人

哲学・思想の叙述法にはどんな方法があるだろうか?

もちろんコトバで叙述するしかないのであるが、

コトバ以外でおのれの思想を述べることは人間には今のところ不可能です。

霊感でハートトウーハートで以心伝心?という方法がないわけじゃないけど、、

それはあくまで、例外?ですものね。


さて今考えられる方法として、、、

その方法としては大きく分けて二つある。(と私は思う)

そのどっちの方法が良いという問題ではなくて、

ざっくり言えばどっちもよいのであるが、

まずは、


極端に詩的に、叙述する方法が、一つある。


これは、物語風に、あるいは逸話や、例えばなし、を、交えていわば

師匠が弟子に説き語る、、ような方法である。

例をあげれば、ストア派のエピクテートスの「語録」とか、中世神秘主義者のその文献とか

ヤコプベーメの書籍とか、キルケゴールとかニーチェも、まあアフォリズムを多用していますよね。

まとまった体系とか、論理的整合性などは全くありません。

が、その寸鉄人を穿つような、気の利いた一語が強烈な印象を与えるものですね。



そしてもうひとつの方法は、論理的に述べる方法である。

あくまでも客観的に、論理的に述べる、くだらない?逸話などはもちろん述べないし、

詩的に述べたりもしない。

そういう例としては、おそらくその元祖はプロクロスの「神学綱要」が嚆矢ではないだろうか?

プロクロスは、幾何学的方法で自らの哲学を論理的に述べている。

まず命題を立てる。そしてその証明が続くというスタイルである、


例えばこんな風に、、、。



命題1

多はすべて、何らかの様相で1を分有する。


証明

もしも多がどのようにしてみても1を含まないとしたら、多の全体も、多の諸部分も1ではなくなり、、、、云々、、。


というような叙述法である。


これが200命題、、ずっと続く、そしてこの叙述を通じて、面白おかしい逸話や物語などが語られることはゼロである。つまり無味乾燥。読んでいても全く面白くはないということである。

もちろんここで述べられている内容は、プロティノス哲学の、、神なるものへの階梯、一者への回帰なのであるが、それにしても、あのプロティノスの語り口とはなんという差だろう。


この叙述法はのちの、あのスピノザなども援用しているわけだが、スピノザの場合は


まず定理を立てる。そして証明と続く。


例えば、、こんな風に、、。



定理1


実体はその本性は実体の変容に先立つ。


証明


これは定義1から明らかである。云々、、。



これが延々と続くのである。


正直、読むのが嫌になる。面白おかしい小話があるわけでもなし。

こういう、無味乾燥な論議が延々と続くのであるから。


こういう叙述法は東洋にもあるもので

例えば「阿毘達磨倶舎論」などの叙述法がまさにこれである。


まさに哲学や思想を論理的に述べようとしたら、これしかないという公理?なのであろう。


まあニーチェの「ツアラストラ」でも読んでたほうが、まるで神話か、叙事詩でも読んでるようで100倍面白いことは確かでしょうね。


でもどっちの叙述法が良いというような次元の話でないことは最前述べたとおりです。


でも?仮に、スピノザのあの無味乾燥な?「エティカ}をニーチェ風に、叙事詩みたいに

リライト(書き換え)したとしたら?

そりゃあ面白くってわかりやすいでしょうね。


「神に酔える無神論者」。スピノザのその思想がまるで「ツアラストラ」のように

叙事詩で再読み込みされ、再叙述されるなんて、夢のようなオハナシですものね?


ところでこの、論理的叙述不法は、最近でも

ウイトゲンシュタインの「トラクタートスロジカフィロソフィカ」「論理哲学論考」で採用されていますよね。


ウイトゲンシュタインのそれはスピノザ以上に、まさに「紋切型」であり、

「断定的」の極みですよね。


ただしその紋切り型に断定してる「命題」は



なんか禅の公案みたいな、警句みたいな奥深い味わいがあると思うのは私だけでしょうか?


例えば、、こんな命題。


「世界と生とは同一である」


「語ることができないことについては沈黙するしかない」



「世界とは事態の全体である」


「様々な事態の論理的な像が思想である」



「私が対象を知るとき、私は諸事態のすべての可能性をも知る」



これって

神託?

それとも


啓示?


それとも禅の公案ですか?


だとしたらまさに神秘主義の極みですよね。

一見論理風に述べていて

その中身は


もしかしたら?

神秘学の神託?だったなんて


なんというパラドックスでしょうか。


まあそれもまた


楽しからずや?


ですよね?




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