競泳水着を買うこと、それは自由の象徴
「ねぇ、今度駅前に新しくスポーツクラブできるらしいわよ」
夫はレンジで温め直してあげたギョーザをつついていた箸を一瞬休め、ちらっと目をあげた。
「ふうん」
夫は興味なさそうに相槌を打ち、再びギョーザをつつき出した。
はいはい、おあいそでお返事してくれたのね。私はそんな夫にちょっとイラッとしたが、いつものことよね、と一人納得する。
「あたし、スポーツクラブ通ってみようかなぁ」
私はテレビをつけて、何気ない様子で言って、プレミアムモルツを夫のグラスに注いだ。
実はもう「通ってみようかな」ではなく「通うからよろしく」なのだ。
娘が小学校の頃からのママ友のヨウコさんに誘われている。最初の二ヶ月はタダなんだって。行こうよユキちゃん。
「ふむ」
夫はミニトマトをつまむのに苦戦しながら、賛成とも反対ともつかぬような返事をした。
ま、あたしのことなんか興味ないもんね。私はつかみどころの無い夫にウンザリしながら、見るつもりもなくテレビを眺めた。
まぁ平均点より上だ、と思う。夫はたまにテレビのコマーシャルで見かけるような会社の、なんだかよくわからない部だか課だかの、これまたなんだかわからない名前の役職でせっせとお給料を稼いでくれる。おかげさまで、治安がいいほうの川崎の駅から徒歩で帰れる距離の、丘の上のマンションを買った。ローンはあるけど夫が死んでも私が働いて両親に助けてもらえばなんとかなるくらい。娘は学区で中の上の高校で、反抗期にもならず私とはよくしゃべる。
欲を言えば、多摩川の向こう側のほうの丘の上の戸建てに住んでみたいとか、おっきい水槽にアロワナを飼ってみたいとか、カッコよくBMWのオープンカーを乗り回してみたいとか、いろいろ言うとキリはないけど、まぁ絶望するほど悪くはない。
でも、もしも幸せ指数で言うなら。私は幸せなのかしら。
私はつかみどころのない夫を見ると、いつもそう感じてしまうのだ。
久しぶりのプールは、塩素の匂いと気持ちよいあたたかさ、適度な湿度が心地よかった。
「プールなんて娘と世田谷のプールに行って以来かなぁ?」
ヨウコさんは今回新しく買ったというナイキの水着の胸元を気にしながらも、ちょっとはしゃいでいるようだった。
私はヨウコさんほど気合が入っていないのが見え見えな、十年前に買ったアリーナのフィットネス水着を着ていた。お腹とお尻が隠れているにも関わらず、お腹の前に腕を組んでプールサイドを歩いた。
「あらいやだ、あのコーチ若くてムキムキ」
「やめなよヨウコさん、品がないよ」
「いいじゃない、減るもんじゃなし。見てるだけ」
私はムキムキはそんなに好きじゃない。ヨウコさんはムキムキ好きなのだろうか。
私たちは髪の毛を濡らさないようにウォーキングコースでぶらぶらと歩きながら、他愛もない話をした。そのあとヨウコさんに誘われるまま、ムキムキくんのアクアビクスに参加して、私はコツが掴めないままぴょんぴょんして終わった。
「ユキちゃん、このあとはスタジオでヨガだよヨガ。急いで着替えてなきゃ」
「えー、いいよ。ヨウコさんヨガ行ってきて。私少し泳ぐよ」
ヨウコさんは私をじぃーっと見た。
「まさか、ムキムキコーチを」
「私ムキムキは興味ないよ。ちょっと泳ぐ」
「髪の毛濡れたら乾かすの大変だよぉ」
「いいの。今日はプールとジャグジーだけにする」
「ふぅん、じゃあ後でジャグジー集合ね。十二時ね」
私はヨウコさんにバイバイと手を振って、再びプールに入った。
プールはウォーキングコース、初心者コース、一方通行の行き、帰り、それからターンができる人のコースに分かれていた。
私は一方通行コースの様子を見て、これなら私もここで泳いでもいいだろうと判断した。
私は数年ぶりにクロールを泳いだ。ヨウコさんと同様、娘と市営プールに行って以来だろう。意外に腕が絡まったり脚がほつれたりすることはなく、それなりに泳ぐことができた。
別に息が上がるわけではないのだけど、思い描いていたイメージとは何か違う気がした。オリンピックスイマーのようにバシャバシャと物凄いスピードで泳ぐつもりもないし、泳げるつもりもないのだけれど、もっと軽く、楽に、すいーっと泳げるつもりだった。なんとなくもがいている感じがあって、もっと軽く、楽に、すいーっと泳げるといいのにな、と思った。
それでも、重力の束縛からちょっと逃れ、毛細血管に圧力がかかって全身を血液が駆け巡るのはとても気持ちがいい。長年悩んでいる肩凝りも、最初のごりごりした痛みを乗り越えると、楽になった気がした。
何往復か立て続けに泳いで、コースの端で一息ついた。ゴーグルを外して、ちょっとぼんやりする。時計を見る。思ったより時間が経っていない。ヨウコさんとの待ち合わせにはまだまだ時間がある。私はウォーキングコースで気分転換して、そのあとまた泳ごうと思った。
往復コースに中年男性が来た。コースの上でストレッチをしている。肩まわりをいろいろと動かしているが、なんだかとても柔らかいようだ。肩をぐいっと引っ張ると、脇毛の下から肩甲骨がごにょっと飛び出るのが見えた。
ちょっと常人とは違う様子を感じて、私は彼に興味を持った。なんとなく普通の勤め人のようだ。今日は代休だろうか。太い眉に細い目、高い鼻にカールおじさんのような無精髭。頭頂部は薄くなり始めている。ヨウコさんなら頭部が薄いのは男性ホルモンがよく分泌されている証拠だと鼻を膨らませるだろう。
私は彼にひとまずカールさん(カールおじさん)とあだ名をつけた。彼はしゅぽんと(ざぶんというか、しゅぽんとだった)水に入り、ゴーグルをつけて六十秒で一周する時計に一瞥をくれ、すうっと息を吸って肩をすぼめ、しゅぽんと泳ぎ出した。
彼はすぅーっと水の中を進み、五メートルのラインを楽々と越えてゆったりと、大きく、イルカかクジラを思わせる様子でクロールを泳いだ。
私は目を見張った。私のイメージしていた泳ぎはこれだ。軽く、楽々と、大きく、ゆったりと泳ぐ。私は歩くのも忘れてカールさんの泳ぎを見続けた。
水中はどうなってるのかしら?数往復したカールさんを見ているうちに、興味がむくむくと湧いてきた。
私は往復コースに入り、彼とタイミングを合わせてスタートした。
あっというまだった。私が水中で彼を探すと、既に数メートル前方をバンザイのポーズを細くした姿勢ですぅーっと泳いでいる、というか滑空しているところだった。そのまますぐにカールさんは見えなくなった。
私はなんだか愉快になってきた。同じ人間で、こんなに違うなんて。私がバシャバシャやっているうちに、カールさんは何回も私を抜き去り、あっというまに見えなくなった。
そのうち、私は彼のクイックターンを水中で見てみたくなった。見ず知らずの中年男性の様子をじろじろ見るのは褒められた行為でないのはわかっていたが、すいすいと気持ちよく泳ぎ、すぱーんとターンをする彼の様子を見ていて、どうしても水の中でどんなことになっているのが見たくてたまらなくなった。
私はぶくぶくとコースロープにつかまって、浮かび上がらないようにして潜った。カールさんがすいーっと泳いでくる。ちらっと私を見たような気がした。何が起きているのかよくわからないくらいの速さでぐいんと身体を入れ替えて、彼は壁を蹴る体勢になった。ゴーグル越しに目が合った。
「ユキちゃん、どうだった?」
「うん。誘ってくれてありがとう。なんか、楽しくなっちゃった」
私たちは女性用ジャグジーにゆったりと浸かりながら、ぺちゃくちゃとおしゃべりをしていた。
「駅前のお寿司屋さんでさ、ランチ食べよ。お腹すいちゃった」
ヨウコさんと別れて、私は颯爽とうちへ帰った。
私はネットで水着を探し始めた。かっこよく、ぴちっとしていて、上下で分かれていなくて、fina公認、と書いてある、競泳水着。
よし、これにしよう。
一瞬、夫の顔が浮かんだが、迷わず購入ボタンをクリックした。