2 喪眼球
アンドーは目を見開いていた。痺れた頭で理解する。
密室には怪物がいる。なんてこった。もうおしまいだ。
壁に投影された怪物の影は、大きく背中をのけぞらせた後、今度は前屈みに背を丸める。
肉食獣の如き姿勢。そして、これから怪物は、動くこともならない獲物を噛みちぎるに違いない。
怪物は背を丸めたまま、異様な鳴き声を上げた。
「ごっぐっぐわはあああ!」
低音に破裂音を混ぜたような、気色の悪い唸りだ。畜生、こいつの問題は一体何だ。
アンドーは思う。逃げることもできない獲物をあざ笑っているのだろうか? それとも、これは怪物流の、食事の前にする祈りの唸りか。
アンドーは息を殺している。身じろぎもしない。どのみち、ほとんど動けない。
食われるその瞬間を待っている。気絶するでも、失禁するでもない。ただ、動かず待っている。
「ぐっぐっげへえええええ!」
怪物の声が大きくなる。
「ぐわはあああっ! うーむ。喉がいがらっぽい」
怪物の唸りが、細い声に変わった。
何だ?
アンドーは目を細める。影がよろよろしながら、身を起こした。しかも、その身の丈を縮小していく。影を作り出している存在が、光源から離れたのだ。
「空気が乾燥しているせいだ。妙だな。加湿器のタイマーを設定し忘れたのだろうか……」
ぶつぶつ言いながら、男がピアノの影から姿を現した。
なるほど。
そういうことか。
アンドーは悟った。自分はブロッケンの怪物に脅されていたらしい。
アンドーは微動だにせず、現れた男を見ていた。男は、こちらに背を向けたまま、ゆらゆらと身を揺すっている。
密室に現れた男……。こいつが、俺をここに閉じこめた監禁犯なのか?
アンドーを、気取られずに誘拐し、どことも知れない密室に入れて、ベッドに繋いで、目を覚ますまで手出ししなかった監禁犯か? 何とも回りくどい行動だ。これも獲物をいたぶるための、シリアル・キラーが行うような儀式だというのか?
だとすると、アンドーの状況は全く好転していない。
監禁犯がこれから自分をどのような拷問にかけるのか、想像することもできない。しかし、それがどのようなものであれ、アンドーに拒むことはできないのだから。
アンドーはただ、待つ。監禁犯がこちらを向くのを。
アンドーに注視されたまま、男はなおもふらついていた。相変わらず、ぶつぶつ呟いている。
何を待ってやがる。早く、こっちを向け……。アンドーは思う。
と、呟き声が大きくなる。
「こ……ここはどこだ?」
不機嫌な声だった。
「ここは、うちの部屋ではないな? ……なんで真っ暗なのだ!?」
男はよろめきながら、手を自分の前方で振るう。
アンドーは目をみはる。
男の動き……。まるで、何も見えていないかのようだ。
これも、監禁犯のデモンストレーションなのだろうか?
「真っ暗だ! 何も見えん!」
男は苛立った口調で言った。
そして、男がアンドーの方を向く。
アンドーは息をのんだ。
男はメガネをかけていたが、問題はメガネの奥の状況だった。
男の両眼は、ぽっかりとした穴となっている。眼のない男だった。そして、男はそのことに気付いていない。
直感的に理解した。こいつも被害者だ。
監禁犯は、自分を鎖で繋いだ。そして、この男の眼をえぐったのだ。
とどめに監禁犯は、効率を重視して、二人の人間を一つの密室に閉じこめたというわけだ。
「誰かいないのか? おーい!」
男が叫ぶ。
監禁犯の残虐さに、アンドーは呆然としてたが、我に返った。
アンドーは、監禁犯が男になしたことを見て、息をのんだが、男は一人で騒いでいるので、その音を耳にしなかったらしい。
男はアンドーがいることにまだ感ずいていないのだ。
助かる。この男にどうやって対処するのか、考える時間を与えられた。自分が容易に悲鳴を上げる性質の男でなくてよかった。
アンドーは蒼白な顔で、安堵の溜息を吐く。音をたてないように、そろそろと吐ききる。
さっき、アンドーが鎖から脱しようとした際の騒ぎも、男の耳には届いてないらしい。監禁犯は男に麻酔でも投与して昏睡状態に置いていたのだろうか。あるいは、単に男が熟睡していただけなのかもしれない。
とにかく、この男をどうしたものだろうか。男は大変混乱しているようだ。やがては落ち着くだろうから、それまで男の動きを観察して、とるべき策を考えるのが得策だろう。
幸いというか、男は眼をえぐられたことに気づいていない。それに気付けば、男はパニックに陥るだろうが、それまでにアンドーは対策を立てることをできるだろう。
そうだ。重要なのは落ち着くこと、パニックを起こさないことだ。アンドーは心に決める。
だが、次の瞬間、凍り付いた。
男が自分の顔へと手を伸ばしていく。
男は、やがていつまでたっても暗闇に眼が慣れないことに違和感を持ったようだ。
真っ暗である原因は、照明のない環境ではなく、自分の視覚器にあるのではないのか? そう疑問に思ったようだ。
男はゆっくりと、自分の顔に手をやる。
アンドーは来る男のショックを思って、呼吸ができなくなった。
男はメガネを外す。そして、自分の目蓋に触れる。
その向こうにあるべきものを探る。
「……ない」
アンドーは見ていられなかった。かといって、目をそらすのも恐ろしい。
監禁犯に眼をえぐられた男の苦悩を思って、身をおののかせるしかない。
「ない」
男が平板な声で繰り返した。
沈黙。男は無言で立ち、密室は沈黙に包まれる。
狂気という嵐の前の沈黙。耐え難い静けさ。
アンドーは恐怖と不安とパニックの最中、超然とした気分になる。
そんな中、半ば無意識的に囁いてしまった。
「メガネを取ったら眼がねー」
「誰だ!?」
男は文字通り飛び上がる。
「誰かいるな! 監禁犯か? くそったれ!」
男はよろめいて、ピアノに手をついた。ジャーン、と悲しげな不協和音が響きわたる。
男は、その音にも飛び上がって、わめきだした。
「眼をえぐり上がったな! 次は何だ 殺す気か! やってみろよ!」
男は両手を振り回す。怒鳴る。雄叫びを上げて、強がっている。
男は、突然盲目にされ、しかも敵が身近にいると思っている。
恐怖で頭がおかしくなる寸前に違いない。
「抵抗するぞ! 来るなら来て見ろ! ぶっ殺してやる!」
男は歯を剥きだし、こちらを向いた。
眼窩を曝し、歯を剥き出しにして、口の端から涎を垂らした鬼相が、アンドーを睨みつけてくる。アンドーは心臓を握られたような恐怖に襲われる。
さっき漏らした、微かな囁き声を頼りに、男はこちらの位置を把握したのだ。
「来ないなら、こっちからいくぞ! うおお! アイル・ファッキング・キルユー!」
足の爪先で床を探りながら、一歩ずつこちらに近づいてくる。
一歩ずつ、一歩ずつ。
男は盲目のうえ、痩せていて非力そうだが、自分は完全に無力。この戦力差は大きく、決して埋まらない。
一体、どうやったら自分は敵でないと伝えることが出来るのだろう。アンドーは考える。
無理だ。男は自分を監禁犯だと思っている。何を言ったところで、耳を貸さないだろう。男の殺意を増幅させるだけだ。
なぜ、こんな見知らぬ男に殺意を向けられなければならないのだ?
これも、密室のせいか?
密室は人を怪物化するのか?
アンドーを殺そうという意志に燃える、あわれな被害者を見つめながら思った。
密室……恐ろしいところだ。
近づくにつれ、男がアンドーの視野を占めていく。男の伸ばす指がアンドーの身体に迫ってくる。
アンドーは絶望的な眼差しで男を見上げる。
そして、男がついには視野一杯になった。