1 鎖監禁
そして、アンドーは目を開くる。
「知らない……天井」
見たこともない天井が目に映る。
アンドーの部屋の天井にはお洒落な扇風機が取り付けてある。シーリング・ファンだ。何かの映画の真似なのだが、それが何の映画なのか思い出せたことはない。
そして、今見ている天井に扇風機がないのは、どういうことなのだろう。
アンドーは考える。考える。考える。そして、結論にたどり着いた。
「俺は寝相が悪いからベッドから落ちてしまったんだな」
声に出して言ってみて、ふと気付く。ベッドから落ちたとしても、天井が変わるということはない。
すろと、再び疑問が頭をもたげてくる。
ここは、どこだ?
いくら知らない天井を睨んでみても、それと分かる鮮明な答えは浮かんでこない。
起き上がろう。アンドーは心に決める。
だが、起き上がれなかった。圧力のせいだ。両手足を強固な圧力が押さえつけていた。
一体どうなっている?
アンドーは迷惑そうな顔で、天井から目を逸らして、両手へやった。
重たい金属音が手首を取り巻いていた。
「鎖か」
紛うことない鎖だった。
中世時代の地下牢に合いそうな太っい鎖が、アンドーの手首とベッドを繋いでいる。
両手首、両足首がそれぞれベッドの四隅に繋がっていた。起きあがることはおろか、ろくに動くこともできない。
「ピンチじゃん」
アンドーは呟く。
知らない部屋で鎖に縛り付けられている。
こいつはつまり、監禁されているということだ。
「……俺は、こういうことを楽しむには、年をとりすぎているな」
しみじみと言った。
そして、次の瞬間、
「ぎええええええええ!」
アンドーは、喉よ裂けよ、といわんばかりの大声で悲鳴を上げる。
「ええあああああああ!」
悲鳴は長く、熱く、轟き渡る。
自分の悲鳴が耳一杯に反響して、それが正のフィードバックとなり、パニックを増幅する。
アンドーは大きく息を吐き、大きく吸った。次の悲鳴を上げるために。
「たったったったっ助けてくれええええ!」
めちゃめちゃな勢いで手足を振るう。ものすごい勢い。そして、何の変化も起きていない。わずかに鎖が音をたてるだけだ。
つまり、これは主観的なものすごさだった。
悲鳴を上げるというのは大変な運動だった。自分の血管の中を、熱い物が音をたてて流れる。
「ぎえぴいいいい!」
アンドーは全身を戦慄かせ、両手で鎖で掴んで、もう一度悲鳴を上げた。
火事場のバカカという奴で、力はいくらでも湧いてくるとしか思えない。
アンドーは首を猛然と振りながら、次の悲鳴を上げる。その全身の力と熱意を一つの目的に集約する。鎖の呪縛から身を解き放つ、その目的に。
「フリイイイイダアアアアム!」
叫びは、むなしく反響するだけだった。
「はあ……はあ……はあ……」
どうやら、悲鳴を上げるだけではダメらしい。目論見が甘かった。
アンドーは肩で喘ぎながら、悲鳴を用いて事態を解決しようという試みをやめた。
一筋鎖ではいかないようだ。
そもそも、鎖とは自由にしないためにあるのだから、そう簡単に解けたら怖かった。
アンドーは呻いた。
「手も足も出ない」
文字通り、手も足も出ないので、これは自己言及的な呻きであった。
叫び声で声は枯れ果て、渋い感じのディープボイスと化して、アンドーは僅かに満足した。他にもプラス要素はあった。
悲鳴を上げることで、いい感じの有酸素運動をこなせたようで、頭が回っていた。現状を知るのに最適である。
自分は、おかしな場所に監禁さえ、鎖で拘束されている。これは未経験だった。
いや、過去にも見知らぬ場所で目を覚ましたことならあった。電車の中で寝過ごしたのと同じようなことじゃないか。
そうだ。過去から学ぶんだ。
そう思うと、勇気が湧いてくる。
過去の経験と照らし合わせて、今の状態を量化する。解釈可能なデータへと書き換える。
鎖に繋がれていることに関しても同様だ。
昔からよく縛られていたではないか。法律に、世間体に、人様の目に。
さすがに鎖は初めてだが、手錠ぐらいなら……いや、その辺の記憶は思い出したくもない黒歴史に埋もれている。
もちろん、アブノーマルな領域から撤退して、より中庸の人間と化した。太陽の下を歩ける身だ。
「そんな俺が、なんでこんな所にいるんだ!?」
アンドーは呻いた。不条理だった。
「さてさて、どうしたものかな」
脱出の手を考えねば。
その人生を通じて、アンドーは多くを学んでいた。一つか、二つ、こんな監禁下で役に立つ情報もあることだろう。
後は、インスピレーションの飛躍を待つだけだった。
今は、どこにでも情報がある。こういう状況で、いかにそれを生かすかだ。
自己啓発本をバリバリ読んだ。メディテーティング・テープを一万回も聞いた。
アンドーは、いまや、成功者たちの声を自在に想起することができる。耳元で彼らの声が囁きかけてくるようで心強い。
そうだ。成功のルーチンに従うのだ。密室監禁ごときで取り乱しちゃ、先達に笑われてしまう。
まずは、深く深呼吸だ。アンドーは下顎を突き出すようにして息を吸い、下腹を膨らます。安定の腹式呼吸だ。
続いて、周囲の状況を確認する。
何を見ようと、聞こうと、動じてはダメだ。
よし、自分は動じていない。……っていうか動けない。
アンドーは鎖に怨みがましい視線を向ける。
いや、金属は腐食する。適切な化学的刺激さえあればいい。
鎖には味噌汁をかけると、腐食が早まるらしい。どこかの脱獄王の手記に書いてあった。
味噌汁か。アンドーは味噌汁が好きだった。
「一日一杯の味噌汁に、メタボ近づかず」
アンドーは呟いた。誘拐犯が誰であれ、昨今の味噌汁ブームに乗ってくれていればいいのだが。
とりあえず、食事の時間はまだらしい。味噌汁は見当たらなかった。
それから、自分のいる部屋を確認だ。
高所からの視点が欲しかった。起き上がることができれば最高なのだが。
せめて、両足だけでも自由なら、はずみをつけてベッドを縦に起こし、より高い視線を得ることができただろう。
だが、両手両足を伸ばした状態で鎖に繋がれていては、望むべくもない。
それにも関わらず、アンドーはベストを尽くした。
両手両足を動かせないまま、首を上方向に伸ばす。脊椎の間接一つ一つを開いていくイメージである。ヨガで言うところの、『魚のポーズ』だ。
自分の姿を客観的に見えるようになる。
見れば見るほど、完全に拘束されている。
両腕と両足は鈍く光る枷をかけられ、そえぞれベッドの脚へと伸びる鎖に接続されている。全く動かすことは出来ない。
幸い、自分自身の身体は見たところ、無傷だった。靴はつけていなかったが、体は見慣れた自分の服を纏っている。
Tシャツにスローガン『刮目せよ。これがアンドーのAwesomeなライフだ』が、パンクな書体で描かれている。
我ながら酷いセンスだ。アンドーは呆れ果てる。
拘束されていることを除けば、体は五体満足のようで傷はない。身体を悪戯されたり、いじくられたり、ちょっかいかけられた形跡もない。
だが、これからも、ずっと無傷のままでいられるかは分からない。
ベッドの上で仰向けのまま、何一つできない自分。経験したことのない無力感に襲われる。
「こうなってしまっては、まな板の上の鯉だな。ははは……」
アンドーは笑った。
自分でもぞっとするような、虚ろな笑い声だった。
くそ、自分の声ごときにうろたえてどうする。
アンドーは部屋を見渡した。
さして広くもない部屋だった。光源のはっきりしない間接照明で、空気中を舞う埃が浮かび上がっている。空気の色はセピアっぽかった。
無造作に食器戸棚や、誰とも分からない石膏の胸像、脚が折れて傾いたピアノが転がっている。
だが、人が生活しているうちに染み着く匂いというか、生活感という物がない。誰かさんが投機用に購入したマンションの一室や、使う機会の訪れていないセカンドハウスという奴にいる可能性がある。
壁は四方とものっぺりしていた。窓はなかった。
そして、戸口もなかった。
……じゃあ、どこから俺は入って来たんだよ。アンドーは憮然とした顔で思った。
ここは密室か。
うん、密室だ。
アンドーは密室という、邪悪な響きに総毛立った。
密室というのは嫌だった。密室ではいつも悪いことが起こる。
密室殺人事件しかり。知人に、人には言えない病気を持つ男がいるが、彼もきっと、暗い密室で悪いことをやったのだろう。そして、自分はこれだ。
アンドーは早い呼吸を繰り返しながら、密室の隅々に目を走らせた。
やがて、大きく身震いした。
生き延びてやる。何としても脱出してやる。
いままで、ただ、なんとなく、同じことの繰り返しの毎日を生きてきた。
マズローの欲求階層の下の方など気にも止めずに、ただ息をしてきた。
そして、それが突然、密室の中で生き残る気構えを試されている。
ああ、それでも、アンドーはいろいろ読んで、学んできた。ずっと緊急事態に備えてきた。
それを役立ててやる。俺の力を証明する。
生き延びるのだ。決定的に思った。
スマートに乗り切らねば。
俺ならやれる。
アンドーは鋭い顔つきになる。戦う者の顔だった。
アンドーが心を決した、その時だった。
ぬうっ、と影が立ち上がる。誰かが照明の光源の前で立ち上がったのだ。
ビッグ・フットもかくやという、巨大な影が、部屋の壁面で背中をのけぞらせた。 ぼきぼきと骨が鳴る、乾いた音が密室に響く。
「んぬぅわああん!」
文字にすると、こうする他ない、奇っ怪な咆哮が轟き渡る。
アンドーの顔から鋭い顔つきなど消え失せていた。今は、眼と口を丸くした阿呆面で影を見つめていた。ショックとパニックに縁取られた顔色だった。
アンドーは今や知ってしまった。この密室には怪物がいることを。