連理の椿
――征司さまが姿を消した。
その電話が鳴り響いたのは翌日のこと、その年初めての雪に、お屋敷が再び閉ざされた翌朝でした。
旦那様は、がくがくと今にも失神しそうな奥様を支え、すぐサナトリウムに向かわれました。奥様の顔色は、水底で凍てついた夜光貝のように青ざめていました。
「先生!」
サナトリウムを囲む森、そのひとかどの人だかりに駆けつけると、お医者様ははっと奥様を振り返り、ゆっくりと首を振りました。その足元に倒れ伏していたのは、
「せい、じ…?」
躊躇い、問いかけるかのような、奥様の声。
雪の上に真っ赤な絨毯のように散った紅椿――いいえ、それは夥しい喀血でした。雪を染める喀血、その中に横たわる征司さま。
その貌に苦悶は既に無く、少し開かれた口元からは、椿が咲きこぼれたように血がほとばしり、また雪を染めて…
幻想的に過ぎて、誰もが現と受け止めきれないほど、冷たく美しい亡骸でした。
唯一生々しかったのは、その蝋細工のような指先。裸足のまま雪の森を彷徨い、一歩でも奥へ、奥へと、木々に縋りつき咳き入ったのか、指先は爪が剥がれかけ、痛々しいまま、二度と動かぬのです。
二度と開かれることのない瞼は青く透けて、夜光貝を埋め込んだかのよう。縁取る長い睫毛は、もう咳に震えることさえなく、まるで、雪になお白く凍てつくばかりの、命のない精緻な人形のようで、
「征司!!」
奥様は血を吐くような叫びとともにくずおれました。
奥様は意識を取り戻された後も、茫然と、征司さまの傍らに座り込んでいらっしゃいました。
喪服に身を包んだ、墨染めの中にぼんやりと照るほどに青白い肌をした奥様。ほつれた髪が力無い咳に揺れ、悲しみに乱れた襟元から覗く鎖骨が、時折ぜぃぜぃと軋みました。
うぅ――、ぅゥ―…!ッごホ…――ッぅゥ…ごほ、ゼィゼィ…、
踏みにじられた白い花が、風に吹き散らされるような咳が、安置室に強く反響します。
征司さまの亡骸は喀血を拭われ、安らかなお顔で眠ってらっしゃいました。
蝋細工のような、透き通る白さの征司さまの亡骸。
凍てついた美しさは、既に命が失われていることをまざまざと感じさせ、奥様は押し寄せる哀しみにはらはらと涙の珠を連ねるのでした。墨染の喪服は、奥様の青く透ける白い肌を際立たせ、より黒く闇に溶けました。
ぜほ、ごほり、涙はすぐさま咳を誘い、奥様はハンケチに顔を伏せます。途端に濁った胸の病がほとばしり、
ッぅぅ――…ゼィゼェェェィ、―うぅゥ…、ゴホ…ッ、
力なくも烈しい咳は嘆きと混ざり合い、うぅ、うぅぅ、と苦しげな嗚咽となってより悲愴に薄闇を切り裂きました。咳に折り曲げられる病い身に、喪服の黒は重く濃くのしかかり、儚げな奥様を今にも幽世に誘いそうに思えました。
ぐ、ッぅゥ―……ッ!ふゼフッ、うゥ―…!ッう…
うッぅゥ…ゼィゼィゼィ――…ッぐ…!うゥゥ……
涙に喉を詰まらせ咽んでは、咳を呼び、また咽び…苦しみより哀しみが勝り、嘆くほどに胸は爆ぜて、ゼィゼェイと鳴り続けます。嘆きと咳が綾を成して、絶え間無く安置所の闇を震わせ続けます。
「奥様…あまり嘆かれては、また」
酷い発作が、と言うより早く、奥様はゆっくりと首を振り
「い、いえ…もう、…ッーー!」
濡れた瞳で、哀しみに喘ぐように私を見上げ、ほとばしる嗚咽のような咳にくずおれました。
ゼッ、、ふ…―ぅッ!ッうぅ…ゼほ、ぜェェ――…っ!
ゼぃッゼぃッゼぃッゼ…ゼフぅ、うゥ…っ…!!
ハンケチに顔を埋め、嘆き咽ぶように咳き入る奥様。
「奥様!」
抱きとめた喪服の細い肩が、幾度も砕けそうに戦慄きました。涙がいく筋も伝った頬は、青ざめた真珠のように濡れ、黒い喪服に際立って透き通るようでした。二重の苦しみに伏せられた長い睫毛が震え、胸元から覗くくっきりと浮いた鎖骨は、苦しみの汗を滲ませてきぅきぅと蝶番の軋む音とともに起伏しました。
奥様が震える手で袂の薬を含み、微かに咳が治まりかけた、その時でした。
使用人や看護婦とともに遺品を整理していた旦那様が訪れたのは。
奥様は咄嗟に咳を押し殺しましたが、紅を差す間もなく、旦那様は、何て蒼い顔色、と奥様の哀しみを嘆かれました。
「これを、彩乃が持っているのが一番良いだろう」
旦那様は、傍らに携えていた人の腰ほどまである高さのキャンバスを、そっと壁に立てかけ
「――…これ、は…!」
奥様が打たれたように叫び、私もはっと息を呑みます。
それは、奥様の肖像画でした。
生き写しの、いいえ、青白く透きとおって今にも消えてしまいそうな奥様の肌ではなく、椀に満ちた乳に薔薇を浮かべたような、つややかでしっとりと息づいた肌。
吹雪にぜいぜいと震える寒椿のような紅を差した唇ではなく、瑞々しい桜桃のような唇。
伏目がちながら嫋やかな笑みをたたえた瞳…
それは私の知らない、生命の輝きに満ちた奥様でした。
――姉さんを、頼むよ
「わ、私……」
私は、あの言葉をどれだけ守れたのか。本当なら奥様を説き伏せてでも、裏切ってでも旦那様に知らせるべきだったのでは…
後悔が渦を巻いて押し寄せた時、
「征司…征、司…!」
わなわなとその名を呼んだ奥様が、がくりと膝をつきました。
うぅ、うゥぅ…――っ!
胸の奥からぜびゅう、ぜびゅうとこみ上げる咳を袖で必死に押し殺す奥様。
「彩乃?!どうしたんだ、彩乃!」
驚いた旦那様が、慌てて奥様を抱き寄せます。その肩のあまりの細さに、どきりと戦慄して。
ッうゥゥ…、っぐ、ぅゥ…!
こみ上げる痛みに、胸を掻き毟るよう押さえる奥様。
真っ青に青ざめながらも、袖できつく口元を押さえ、少しでも旦那様に聞かれまいとする奥様。
もはや咳というより、胸全体ががほがぼと裏返り、濁った気道からぜひゅうごひゅうと吐息が漏れるばかりの音。
聞かないで、貴方だけには、
うぅゥ…!ッぜほっ、ゼびゅぅうゥゥ…ッ!
ゼホゼホ…っ!ゼはッ、ぁッ、ッゼほゼホゼごッ ぅゥっ――…!
止まらない発作に奥様の悲鳴が混ざり、
ッぅ、ぐぅ……!っ――
ガぼ…っ、
寒椿が、また、咲きました。
ばたっ、ばたばたっ、、
ぴっ、と一筋、血が私の頬をなぞり、
ッゴぼ…ぉッ、、
白い虚空に、赤い華が棚引きました。
病の白と喪の黒を横切る紅は冴えざえとして、一瞬時が止まったかに思え、
ガふ…っ!
喀血と共に溢れた苦しみの涙が、つっと零れ落ちた途端、奥様の瞳はふっと力を失いました。
「彩乃!!」
「奥様ぁぁぁぁぁ!」
ゼほゼほっゼほえほッ…、ヒュ――…ゼホっケホッ…
力無い咳と共に口からこんこんと溢れ続ける血は、奥様の白いおとがいを伝って、鎖骨をなぞり、喪服の胸元を赤く黒く滲ませていきました。