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呉藍の雪  作者: 咳集斎
8/10

二藍の闇

 征司さまは日に日におやつれになり、少女のようだった面差しは険しく頬骨を尖らせ、瞳は鬼気迫った輝きを増していらっしゃいました。その日も相変わらず、始終寝台で半身を起こしたまま、絵筆を走らせていらっしゃいました。

唯一違ったのは、咄嗟にキャンバスを寝具に隠したこと。

飛び込んで来た咳の音に、私が慌てて扉を開けると、征司さまははっと打たれたように、絵を隠されたのです。それまで奥様を意に介さずに、黙々と絵を描いてらした征司様が……

奥様は嗚呼、と悲痛なため息をつかれました。

「どうして貴方は…今は安静にしていないと、」

政司さまがまるで奥様をあざけるように、唇の端で微笑みましたが、

 コホっ、、ゴホゴホゴホ…ゴホン・・ゴほ…ッ、、

力無い、くぐもった咳が征司さまの骨ばった肩を揺らしました。

「征司!」

背を擦ろうとした奥様の手を、征司さまは咳き入りながら、ぞんざいに振り払いました。

 ッヒィ――…っゴホゴボゴホ……

口元に袖を宛がい、咳を押し殺そうとする征司さまの眉間には、強く苦しみが刻まれては震えました。

「こう、なってしまえば、今日死ぬか明日死ぬかの違いしか…ありませんよ」

吐き捨てた言葉は諦念に満ちて、コン、と血痰を切る甲高い咳に、長い睫毛が伏せられます。

 やっと口を聞いてくれたと思ったのに、

奥様は悲嘆に暮れ、ハンケチで口元を覆われて、ぜぃ、と苦しい息をつきました。

「何故そうも生き急ぐのです、」

悲しげに、いえ、苦しげに伏せられた奥様の睫毛が、喘ぐ胸の痛みに震えた時。

「姉さんだって同じではないですか、」

ごほ、ごほり、

征司さまが咳入りながら嘲笑したのです。

はっ、と奥様の瞳が見開かれました。

「そんなに紅を濃く塗って、まるで胸を病んだ遊女の様だ。いや、その物ですよ、」

 こほり、

血の気の薄い、梔子の花のような征司さまの唇から、行き場を失くした蝶の羽ばたきの様な咳がもつれ出ました。

「何てことを…!」

奥様の白い顔は、透けるほどに見る見る青ざめてゆき、わなわなと震えました。

ぜぃぜぃと吐息がもつれ出し、奥様はとっさにハンケチで口元を、喘鳴を抑えようとしました。

青褪めて震える奥様に、征司さまは冷笑を浮かべます。まるで水晶の人形のように、血の気のない征司さまの面差し。

「同じことではないですか、遊女と言えど、金で買われれば懸命に尽くすものですよ。まして、胸の病では」

ぎくり、奥様が小さく身じろぎ、よりきつく、喘ぐ唇を押さえられました。

「わ、私は、病など…」

青ざめて震える声で否定する奥様に、征司さまはふっと苦笑して

「ほら、爛れた息が風琴のように鳴るのが聞こえていますよ、姉さん」

そう奥様の胸を指しました。

はた、と奥様が胸を押さえましたが、それは吹き荒び始めた胸の病を押し隠すには足りませんでした。ぜひぅ、ぜひぅ、息を吐く度に、発作の足音が近づいて来るのです。

「咳を殺し、喀血を隠して紅を引き、旦那に抱かれ続ける。 貴女は遊女ですよ、姉さん ッーー、」

 ごふ、ゴホ、ごほり

先ほどより強い咳が、征司さまの身体を折り曲げました。

「征司!」

怒りと悲しみに引き裂かれる思いで、奥様が叫んだ途端、

 ッ――ゼ、ゴホ…! ッうゥ―…ッは、ぅ,ぐぅゥ……―っ!

ぜひゅうゥゥゥ――…、

押し殺していた病が胸を裂きました。奥様は必死で咳を抑えようとなさいましたが、胸は柘榴のようにがぼりと爆ぜ、奥様はその場に倒れこみました。

「奥様!」

 ッぜほ、ゼぇェェ…ッ!ぅゥ…!ぁ―…ッ、

ゼィゼィ、ゼェェェィゼィゼィゼィゼィ…

病が幾重にも綾を成した、絡みつく咳が、奥様の虚弱な身体を打ち据えました。私は慌てて薬を奥様に手渡します。奥様はわなわなと震える手でそれを口に含み、うぅ、うぅゥッ、と嗚咽のように押し殺した咳を、百も千も繰り返しました。

絶え絶えの息の中、奥様は

「ッい、つ…から、知って…ーーっ、…ッ――!」

それだけを問い返すのがやっとでした。

「サナトリウムにも、姉さんほど青ざめて肩で息をしている者はいませんよ」

ごほ、ごふり、と笑いながら征司さまは息を整えるように咳き込まれました。もはや、肺病の征司さまよりも、奥様の方が窒息の汗に濡れ、青ざめていらっしゃったのです。

ゼィゼィと咳き止むことが出来ぬまま、震える手で薬を含む奥様。膝を付いて咳き入る奥様を見下ろす征司さまの瞳は、怒りとも悲しみともつかない色に濡れていました。

「一刻も早く、遊女稼業を終えられるよう、足枷の僕はもうすぐいなくなってみせますよ

 だから ッ――……!」

言いかけた征司さまは、びくりと薄い身体をわななかせ、胸の底から込み上げる咳にうつ伏せました。褐色の髪がばさりと広がり、着物の上からでも骨の在処がわかるほどに痩せた背中が、ごふごふと咳に震えます。まるで胸を針で穿たれた蝶が羽ばたくような、力なく血に染まった咳が。

「征司!」

奥様はぜいぜいと苦しい息を繰り返しながらも、征司さまに駆け寄りましたが、

「来るな!」

ッヒーーー…ゲホ、ゴホゴホゴホゴボ…

切るような叫び声に阻まれました。征司さまの白い喉が、ごぼり、せり上がる何かに震えた途端、

 ガ、ふッ――……!

虚空に血の帯がたなびき、征司さまの身体が弧を描いてくずおれたのです。

ばたばたと、鮮血が雪色の敷布に降り注ぎました。

「征司!」

「征司さま!!」

倒れこむ征司さまに、駆け寄る奥様。込み上げる血に喘ぎながら、征司さまは自分を抱きとめようとする奥様の袖を、しっかりと掴み、焼き付けるように奥様を見上げて、おっしゃったのです。

「だ、から…ッ、もう―…、隠さ、、ない…で……」

がほり、

血の手形が奥様の友禅にたなびき、ずる、と征司さまの身体が力を失い

「せ、いじ…――征司!!」

血を吐くような奥様の悲鳴が、時を裂いたのです。

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