表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
呉藍の雪  作者: 咳集斎
7/10

冬牡丹

 それから奥様は、旦那様とお過ごしの時にしか薬をお使いにならなくなりました。

夜中の発作に使えば、少しでも眠ることができ、僅かずつでも良くおなりになるかもしれないのに……

私は独語ちましたが、奥様の瞳は遠くを見ていらっしゃるままでした。

季節は朝夕の寒さが厳しさを増し、小雪がちらつき始めるようになっていきました。

何も知らない旦那様にあいされる間、奥様は夜着の袖を強く噛みしめ、烈しい咳と喘ぎを押し殺していらっしゃいました。

旦那様が奥様をもとめる度、噛みしめた夜着の袖には――、咳の度に散ったのでしょう、血飛沫が花弁のように痕を遺していました。奥様は、季節はずれの楓や紅梅の袷を夜着に下ろし、袖に綿と布を隠しては、咳を、血飛沫を紛らわせるようになりました。

ことがなし終え、旦那様が寝入られた夜半過ぎ、奥様はそっと寝室を出て、よろめく足取りで自室へ戻られるのです。

ほつれた髪に乱れた裾、紅の落ちた透けるほどに白い、今にも倒れこみそうな奥様――…

手折られた季節はずれの芍薬のような、触れれば落ちそうな牡丹のような……悩ましく哀しい美しさでした。

「奥様、」

「声を・・立てないで… ッ―…!」

――ぐッ、、ぐぅぅ―…!ッふゼフッぜふゼフゼフ…ゼフ、

 うゥ――…ッ!ゼホゴホゴホゴホ……ッゼひィィ――…

そう告げるが早いか、奥様はがくりと膝を付き、ほとばしる咳の発作が奥様を襲いました。

咳はごんごんと胸の奥から湧き上がり、濁った吐息を絡ませて溢れ続けます。奥様は寝台に縋りついたまま、乱れた胸を押さえ、布を幾重にも口元に押し当てて、明け方まで咳き入り続けるのです。

 ――か…ハッ、あァッ…ゼヒッ、く――、うぅ―…っ!

時折、ほんの数秒、全く無音の時があり、私は奥様がやっと落ち着かれたのかと目をこらします。

ですが、奥様は口元を押さえていた手をわなわなと剥がし、はっはっと唇を震わせ息せききっておられるのです。

 ッあっ、ッが…ハッ・・

見開いた瞳に涙があふれ、思わず胸を掻きむしります。

 息が、吐けないのだわ、

私が背を擦ろうとした瞬間、

 ごふ…ッ、ゴひゅぅぅうゥッ――…!

嵐が吹きぬける音とともに、奥様は身を折り、

 ぜぉォォォ――、ぜぼっ、ゼヒぃぃィィ――、

 ゼぉンゼほゼホゼホゼホ…うゥ、ッぜほっ、ゼひィィぃ…――ゴホンゴホンゼホンゼホゼホ…っ!

肺が裏返るような音が激しくほとばしりました。篤い病が胸の奥で暴れ狂うような咳、咳、咳。絶え間なく続いたかと想うと、ゼひゅうう、奥様はやっとか細い息をつかれますが、途端にまた病に気道を鷲づかみにされ、たちまち青ざめて、

 ――かハッ、あァッ、ヒッ、うぅ―…っ!ぅ、え゛ほっ、ゼほぉッッ!!

 ゼビュぅぅぅぅ――…っ、ッぁぐっ、ゼゴ、ゼビュぅゥゥ――…っゼほっ、、

胸を両手で押さえて喘ぎ、もはや咳とも喘鳴とも付かない喘ぎに、身を折り曲げるのです。

華奢な奥様の身体は鞭打たれんばかりに震え、湖水のような瞳からは生理的な涙が頬を伝います。

その繰り返しで、ようやく奥様は息をつないでおられました。

身も世もなく苦しみながらも、必死で声を殺そうとする姿は、切なく、艶かしくさえありました。

寝台にもたれ、ぜぃぜぃと荒い息を吐く奥様のおとがいから、胸元までの肌が白く汗に照り、憔悴した顔はいっそう夜光貝のように青白く、長く濃い睫毛が影を落としていました。

夜も白む明け方にようやく薬を飲まれ、少し落ち着かれると

「八重さん、化粧を…紅を、差して――、」

どんなに苦しく喘ぎ、一睡もできずに咳き入り続けて迎えた朝にも、奥様はきちりと居住まいを正すのです。

胸が喘がぬように帯をきつく巻き、紅を引いて旦那様を起こしに行かれます。

あんな酷い発作が続いているのに到底奥様の身体が持つ訳がない……何時かはわかってしまうだろうことは明らかでした。

青褪めて透けるような奥様の横顔に、ぼんやりと浮かぶ紅。それは、雪行灯の火のように揺らいで、長い睫毛の影を色濃く映しました。触れればはらりと散ってしまいそうな冬牡丹。息苦しさを隠す気だるげな仕草は、旦那様には昨夜かき抱いた、あでやかで儚く悩ましい奥様の名残を見るようで、眩いものでした。


それはつかの間の、半刻も持たないお芝居。

青いほど白い頬に紅を差し、胸の中の緋色を押し隠して。


玄関で旦那様を見送ると、

…ッ、ゴほ…っ、、ッは、ぐ…ぅうウ…!

ぜひぅ、病んだ胸を風が通り抜ける音が響き、奥様はがくりと膝を付いて咳き入ったのです。

今にも血を吐きそうな咳が、がぼがぼと荒れ狂うのを、奥様はゼィゼィと必死で押し殺していらっしゃいました。

「奥様!」

ぱた、ぱた、

椿が、ほとばしる咳が胸を傷つけ、血痰が奥様の袖に散りました。

背を擦るたび、日に日にか細く、透けるほどに青褪めていく奥様の身体。

 ッは、ゼはあァッ、ぁあッ、ぅゥっーー…!

掻き毟るように押さえた胸からは、ゼビュぅぅ、ゼビュぅぅ、と吐息が嵐のようにもつれ、咳さえも押し出せないほどに病に塞がれているかのようでした。

「い、いの…、大丈夫…それより、征司を…」

ぜぃぜぃと喘ぎ、発作を押し殺してその名を呼ぶ奥様、

その姿に私は、胸の奥が焦げ付くような思いを抱きました。

「奥様、今日はもうお休みに、」

止める私に哀しげに首を振ると、奥様はいつもどおり征司さまを見舞うため、もう一度紅を引きなおすのです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ