冬牡丹
それから奥様は、旦那様とお過ごしの時にしか薬をお使いにならなくなりました。
夜中の発作に使えば、少しでも眠ることができ、僅かずつでも良くおなりになるかもしれないのに……
私は独語ちましたが、奥様の瞳は遠くを見ていらっしゃるままでした。
季節は朝夕の寒さが厳しさを増し、小雪がちらつき始めるようになっていきました。
何も知らない旦那様にあいされる間、奥様は夜着の袖を強く噛みしめ、烈しい咳と喘ぎを押し殺していらっしゃいました。
旦那様が奥様をもとめる度、噛みしめた夜着の袖には――、咳の度に散ったのでしょう、血飛沫が花弁のように痕を遺していました。奥様は、季節はずれの楓や紅梅の袷を夜着に下ろし、袖に綿と布を隠しては、咳を、血飛沫を紛らわせるようになりました。
ことがなし終え、旦那様が寝入られた夜半過ぎ、奥様はそっと寝室を出て、よろめく足取りで自室へ戻られるのです。
ほつれた髪に乱れた裾、紅の落ちた透けるほどに白い、今にも倒れこみそうな奥様――…
手折られた季節はずれの芍薬のような、触れれば落ちそうな牡丹のような……悩ましく哀しい美しさでした。
「奥様、」
「声を・・立てないで… ッ―…!」
――ぐッ、、ぐぅぅ―…!ッふゼフッぜふゼフゼフ…ゼフ、
うゥ――…ッ!ゼホゴホゴホゴホ……ッゼひィィ――…
そう告げるが早いか、奥様はがくりと膝を付き、ほとばしる咳の発作が奥様を襲いました。
咳はごんごんと胸の奥から湧き上がり、濁った吐息を絡ませて溢れ続けます。奥様は寝台に縋りついたまま、乱れた胸を押さえ、布を幾重にも口元に押し当てて、明け方まで咳き入り続けるのです。
――か…ハッ、あァッ…ゼヒッ、く――、うぅ―…っ!
時折、ほんの数秒、全く無音の時があり、私は奥様がやっと落ち着かれたのかと目をこらします。
ですが、奥様は口元を押さえていた手をわなわなと剥がし、はっはっと唇を震わせ息せききっておられるのです。
ッあっ、ッが…ハッ・・
見開いた瞳に涙があふれ、思わず胸を掻きむしります。
息が、吐けないのだわ、
私が背を擦ろうとした瞬間、
ごふ…ッ、ゴひゅぅぅうゥッ――…!
嵐が吹きぬける音とともに、奥様は身を折り、
ぜぉォォォ――、ぜぼっ、ゼヒぃぃィィ――、
ゼぉンゼほゼホゼホゼホ…うゥ、ッぜほっ、ゼひィィぃ…――ゴホンゴホンゼホンゼホゼホ…っ!
肺が裏返るような音が激しくほとばしりました。篤い病が胸の奥で暴れ狂うような咳、咳、咳。絶え間なく続いたかと想うと、ゼひゅうう、奥様はやっとか細い息をつかれますが、途端にまた病に気道を鷲づかみにされ、たちまち青ざめて、
――かハッ、あァッ、ヒッ、うぅ―…っ!ぅ、え゛ほっ、ゼほぉッッ!!
ゼビュぅぅぅぅ――…っ、ッぁぐっ、ゼゴ、ゼビュぅゥゥ――…っゼほっ、、
胸を両手で押さえて喘ぎ、もはや咳とも喘鳴とも付かない喘ぎに、身を折り曲げるのです。
華奢な奥様の身体は鞭打たれんばかりに震え、湖水のような瞳からは生理的な涙が頬を伝います。
その繰り返しで、ようやく奥様は息をつないでおられました。
身も世もなく苦しみながらも、必死で声を殺そうとする姿は、切なく、艶かしくさえありました。
寝台にもたれ、ぜぃぜぃと荒い息を吐く奥様のおとがいから、胸元までの肌が白く汗に照り、憔悴した顔はいっそう夜光貝のように青白く、長く濃い睫毛が影を落としていました。
夜も白む明け方にようやく薬を飲まれ、少し落ち着かれると
「八重さん、化粧を…紅を、差して――、」
どんなに苦しく喘ぎ、一睡もできずに咳き入り続けて迎えた朝にも、奥様はきちりと居住まいを正すのです。
胸が喘がぬように帯をきつく巻き、紅を引いて旦那様を起こしに行かれます。
あんな酷い発作が続いているのに到底奥様の身体が持つ訳がない……何時かはわかってしまうだろうことは明らかでした。
青褪めて透けるような奥様の横顔に、ぼんやりと浮かぶ紅。それは、雪行灯の火のように揺らいで、長い睫毛の影を色濃く映しました。触れればはらりと散ってしまいそうな冬牡丹。息苦しさを隠す気だるげな仕草は、旦那様には昨夜かき抱いた、あでやかで儚く悩ましい奥様の名残を見るようで、眩いものでした。
それはつかの間の、半刻も持たないお芝居。
青いほど白い頬に紅を差し、胸の中の緋色を押し隠して。
玄関で旦那様を見送ると、
…ッ、ゴほ…っ、、ッは、ぐ…ぅうウ…!
ぜひぅ、病んだ胸を風が通り抜ける音が響き、奥様はがくりと膝を付いて咳き入ったのです。
今にも血を吐きそうな咳が、がぼがぼと荒れ狂うのを、奥様はゼィゼィと必死で押し殺していらっしゃいました。
「奥様!」
ぱた、ぱた、
椿が、ほとばしる咳が胸を傷つけ、血痰が奥様の袖に散りました。
背を擦るたび、日に日にか細く、透けるほどに青褪めていく奥様の身体。
ッは、ゼはあァッ、ぁあッ、ぅゥっーー…!
掻き毟るように押さえた胸からは、ゼビュぅぅ、ゼビュぅぅ、と吐息が嵐のようにもつれ、咳さえも押し出せないほどに病に塞がれているかのようでした。
「い、いの…、大丈夫…それより、征司を…」
ぜぃぜぃと喘ぎ、発作を押し殺してその名を呼ぶ奥様、
その姿に私は、胸の奥が焦げ付くような思いを抱きました。
「奥様、今日はもうお休みに、」
止める私に哀しげに首を振ると、奥様はいつもどおり征司さまを見舞うため、もう一度紅を引きなおすのです。