紅椿
三日後、旦那様が出張から戻られる日の朝。奥様は念入りに紅を引き、耳かくしをきっちりと結われました。
「奥様、」
「大丈夫…」
その声はか細くひぅひぅと縺れていました。けれど奥様は咲き初めの白い牡丹のような微笑みで、旦那様を迎えられたのです。
あれだけ昼となく夜となく、苦しまれていた奥様が、
私は手品でも見せられているような気がいたしました。奥様の微笑みは時折苦しい息に揺らぎましたが、それは旦那様に疑念を抱かせる程のものではありませんでした。
「ひと月離れていたせいか、また美しくなったように思える。憂いが増したような」
旦那様は、少しお痩せになった奥様の貌に、陶然と見入るばかりでした。
長い睫毛はより濃い影を落とし、咳を押し殺すために、瞳はいつも涙に潤んで、息が出来ない故の何処か気怠げな仕草…
病故に奥様は、より物憂げに美しくおなりでした。
微笑む影で、袖の下にくふ、と咳を逃がしながら、奥様は病の影を押し隠すのでした。
時折、自室に戻ってはゼィゼィと激しく喘ぎ、発作止めや咳止めを含みながら、
「八重さん、もっと紅を濃く…、ッ―― 頬にも、口にも、…ッ」
ぜほ、ごほり、
旦那様に顔色を悟られまいと幾度も紅を重ねるのです。
奥様の穏やかな微笑みは白い牡丹のようなのに、苦しく喘ぎながらも紅を重ねる奥様は、雪の中に凛と咲いた紅椿のようでした。少しでも震えれば血のようにぼたりと落ちてしまう、危うい、艶やかな花。それが今の奥様でした。
奥様は私に休むよう言いつけられ、旦那様の書斎へ向かわれました。独逸側との取引に追われ、机で寝入ってしまうことも多い旦那様。旦那様の寝顔に、奥様は物言いたげに幾度か唇を震わせた、その時、
旦那様が奥様の手を掴み、その場で組み敷いたのです。
奥様は一瞬身を硬くしましたが、
「帯は、解かないで下さい、――、」
長い睫毛を伏せられました。肌に触れられれば胸の絶え間ない喘ぎが聞こえてしまう、知られてしまう、
奥様はきつく袖を噛み、ごほ、ごほり、ごほ、荒げる吐息に込み上げた咳をかみ殺します。
聞かないで、
咳とも喘ぎともつかない吐息、悦びとも苦しみともつかない声、
発作が胸を塞ぎ始め、奥様は空気を求めて身悶えます。
――ぁ、はァッ、はっ、ゴホっ、ンぅ・・ゥ…っ!
その声はあまりに切なく、悩ましく響いて、旦那様は愛おしげに奥様をかき抱きました。肺が裏返らないよう、奥様は咳と喘ぎに声を混じえ、発作と旦那様をやり過ごそうとされます。
――かハッ、あァッ、ゼヒッ、く、うぅ―…っ!
ぎり、奥様の噛み締めた友禅に、紅が移ります。びく、びく、と奥様の薄い胸が、窒息にわななき、奥様は大きく身を反らし、ごふり、と喘いだのです。荒い息遣いと共に、ことが達した時、ぜひぃぃぃっと、奥様の胸を病が貫きました。
奥様は着物の乱れもそのままに書斎をそっと出、自室へ戻られると、その場にがくりと崩れ落ちました。
「奥さま!」
「だ、大丈夫、、」
旦那様にあいされたばかりの胸からは、衣越しに肺を裏返してしまいそうな、ぜひゅう、ぜひゅう、という音が甲高く響いていました。
ッひ…ゼッ…ッうゥーー…!ぜほ、ゴッ…ほ!ぅぁ…ッ、
甲高い笛の様な吐息に、咳が胸底からゼィゼィと溢れ、私は発作止めを咽ぶ奥様の唇に注ぎます。
奥様を愛しながらも、この胸の病に気付くこともなく、慰んだ旦那様への苛立ちがじわりと滲みました。
「奥様、もう隠しおおせません。旦那様に」
「やめてーー…!」
ッーごほ、ゴホゴホゴホ…ーー、
咳き入る奥様の背を摩り、私はその感触にどきりといたしました。骨を辿れるほどに痩せた背中、咳が収まっても、ゼィゼィと喘ぐ細い肩。こんなふとしたことで、息が出来なくなる、吹雪の中の寒椿のような奥様。
奥様は苦しい息の狭間で、ぽつぽつと語られました。
奥様と征司さまのお母様も喘息を患い、手を尽くしたものの二十五にもならずに亡くなられたこと。
元々傾きかけていた実家はお母様の治療のために資産を売り払い零落し、十二の時に遠縁の女中に出されたこと。
慣れぬ奉公で胸を患ったけれど、厄介扱いされぬよう、隠し続けて来たこと。
「それでも…安静になさっていれば、長らえるやも」
命を削るような、奥様の行いは私には理解し難いものでした。
あの方は、私を愛して下さったから、
はら、枕元の秋明菊の花弁が、ひとひら散りました。
「死ぬのでは、次の咳で死ぬのでは、
……そんな思いをあの方に味わわせ続けてまで、長らえたくないのです。
本当は誰にも、八重さん、あなたにも」
ずきり、
華のような横顔は、凍てつくほどに白く、遠くを見つめていらっしゃいました。
あくまでも明治・大正時代の医療事情を背景にした病弱萌えフィクションです。喘息の方に咳止め(リン酸コデイン等)をお使いになると、窒息の危険もあるため、真似をしないようお願いいたします。