曼珠沙華の開く夜
あれは、征司さまの思い過ごしだと、私は自分を納得させようとしました。
征司さまが喀血されてから、奥様は毎日のようにお見舞いにうかがっては、すげなく帰されていらっしゃいました。
「熱があるのに、絵筆を離さないのです。私の方を振り向きもしないで……」
征司さまの頑な態度に打ちのめされた奥様は、ご心痛からか、日に三度も四度も発作を起こされるようになりました。薬を飲まれても、一刻もすると再びきうきうと胸から軋むような音が鳴り始めるのです。
発作が度重なると、治まっていた咳が再び鎌首をもたげてきました。
旦那様や大奥様、他の使用人の前でくずおれるわけには、否、咳をすることさえ…
「御免、なさ…ッ、」
「奥様、喋らないで下さい、」
込み上げる咳に打ち震える背中を摩りながら、私は奥様の帯を緩めるのです。
――ッうゥ…ゼェ、っエッ、ぅうゥ・・!
ぜひゅッ、ぜひゅうゥゥゥ、
ゼィゼィと胸の奥から尾を引くような咳が、途切れなく溢れます。
あまりにも痛々しい咳、絶え間ない嘔吐のような咳。
っぐ…カはッ、うゥ、ぁ…ッ――!
奥様は首筋まで真っ青に青ざめ、私は窒息するのではと怯えました。厚手の布で口をきつく押さえ、音を漏らすまいとする奥様。その病の塊は決して外には出ぬまま、あざ笑うように胸や喉を尾で塞ぎ横たわっておりました。
奥様がゼヒィーと胸を鳴らして息を吸うと、二三度薄い胸がわななき、またげほんぜほんと始まるのです。
背骨を折るほどに咳き入ると、胸を裏返すような音と共に、口元を押さえた布には血のもつれた痰が散りました。
ぎやまんに閉じ込められた曼珠沙華のような血痰。
発作を起こすたびに、薬の量は増えていきました。それでも治まらない時は、 代わりに咳止めの薬を飲み、何とか咳き込まぬようにしていらっしゃいました。
けれど、奥様は傍目にも息苦しそうで、長い睫毛を伏せ、濃い紅を塗った唇がわなわなと震えていらっしゃいました。
胸の奥の病が、咳に吐き出されぬまま燻っている……
よろめいたり、思わず胸を押さえたりしそうになると、私が言付けのふりをして、奥様をひと気のない部屋にお連れすることもしばしばでした。頬に差した紅が、ゼイゼイと喘ぐ青ざめた横顔に、ぼんやりと浮いていました。
朝の空気が霧を帯び始めた日、旦那様が出張から戻られる前にと調度を整えていた奥様は、微かに胸を押さえられ、他の使用人に見咎められぬよう、そっと中座されました。その日はもう、三度目の中座でした。
「奥様、」
奥様は、三部屋先のご自分の部屋によろめきながら入って行かれ、私は慌てて後を追いました。
がくり、
毛足の長い絨毯に膝をついた奥様に、私は常に携えている厚手の布を手渡します。
「嗚ぁ…――ッ、、ぅ…――!」
礼を言う間もなく、胸を咳と喘ぎが貫き、奥様は胸を押さえました。口元にきつく布を当て、咳を押し殺そうとする度、う、うぅ、微かな呻きと共に抑えきれない咳が悲鳴のように、薄い胸を裂いて溢れます。
ゼイゼイとしなる肩を抱き、寝台にもたれかけると、奥様は縋りついて
「ぅ、うゥ…――、く、ふッ…ぁ、ぐぅ・・ッ、うゥっ――、」
ゼィィ、ゼィゼィゼィ…
嗚咽のように咳き入りました。征司さまが喀血なさった、あの日のように。
苦しさに虚ろな瞳に涙を滲ませ、ゼイゼイと咳き喘ぐ奥様。
「ッは、はァ、く、ぁ…ッ、うゥゥ…――!」
ぜひぅ、ぜひぅゥゥ、奥様は華奢な肩を上下させ、両手で胸を押さえながら全身で息を吐こうとしていらっしゃいました。まるで胸の奥を岩が塞いでしまったのかのようなお苦しみ。私は慌てて耐えず携えている、お薬を瓶から薬匙に取り、喘ぐ奥様の唇に挿し入れたのです。
ッこ、ほ…っ、
反射的に小さな咳が溢れました。
か、ハッ…ぜひぅ、ぁアッ、、ゼィッゼィゼィゼィ…
喘ぐような濁った笛のような咳が溢れ出し、奥様は袖できつく口を押さえられます。奥様の薄い背から、ぜぉ、ぜぉ、と凶暴な病が身悶える音が、咳と二重になって響きました。
はァ、ゼはッ、ぁッ、ぅゥっーー…!
「奥様!」
ゲホ、ぜひぅ、ゼヒぅゥう、ゼィゼィゼィゼィ…
これまで押し殺して来た咳が堰を切ったようにほとばしり、痙攣のように速く止まらなくなったのです。
ッあ、っぐ、ぅゥ…!
胸が痛むのか、右手で胸を掻き毟るよう押さえる奥様。
窒息と咳に青ざめ、止め処なく涙を流しながらも、右手はきつく袖で口元を押さえ、何とか聞かれまいとする奥様。
聞かないで、知っては駄目、
げほげほ、げほげほぜほ、止まらない咳に奥様の懇願めいた泣き声が混ざり、
ッぅ、ウぅ…!っ――
「奥様!」
泣き叫ぶ悲鳴のような咳とともに、奥様の身体はぐらりとくずおれました。
抱き起こした首はぐったりと仰け反り、白い喉がぜひぅ、と胸から吹き抜ける吐息に震えました。奥様は、意識を失いながらも、ゼィゼィと苦しみに魘されていました。微かに起伏する胸からは、きぅ、きぅ、と軋むような音が響き、その度に顔色は青ざめてゆきました。その貌は秋の初めにぼとりと落ちた、白い夏椿のように痛々しい美しさに満ちていたのです。
私は奥様をソファに横たえると、老教授にお電話で往診を依頼しました。他の使用人には、奥様は風邪を召されたということにし、老教授にもそのように念を押しました。奥様は失神なさったまま、ぜぇひゅうと溺れるような呼吸に魘されておいででしたが、ふとした弾みに胸を裏返す激しい咳に襲われ、再び意識を揺り戻されてお苦しみになりました。
おいでになった老教授は、なるほど、こちらの奥様とは名乗り難いはずだ、とため息をつかれました。アドレナリンの注射、芥子の蒸気の吸入で、奥様はだいぶ落ち着かれたようでした。
夏の間の息切れは、発作が慢性化していたせいで、じりじりと奥様の胸はより蝕まれていたのです。
老教授は、兎に角安静に、大きな発作が起きれば命にも関わる、とため息混じりに言いました。
「そう、ですか」
奥様は、そう呟いたきり、悲しげにまつ毛を伏せてしまわれました。
あくまでも明治・大正時代の医療事情を背景にした病弱萌えフィクションです。喘息の方に咳止め(リン酸コデイン等)をお使いになると、窒息の危険もあるため、真似をしないようお願いいたします。