夏椿の散る季節に
それから私は、奥様の、いいえ「姉さま」の妹を名乗り、月に二回、新薬を受け取るために丘を越えた先の病院へ赴くようになったのです。老教授は、できれば本人が来院して診察を、とこぼしながらも、新薬が効いていることを伝えると、安堵したとも仕方ないとも取れる顔で微笑みました。
奥様は以前のように激しく咳き込まれることは少なくなり、だいぶよくおなりに見えました。
夏の間は暑さのせいか、時折胸を押さえて、かは、ひぅひぅ、と息切れによろめいてしまわれることもありましたが、旦那様は
「暑気当たりしやすいのだろう、彩乃は肌が白過ぎるから」
と労わりながらも格段の心配はなさりませんでした。私は奥様を物陰へお連れし、奥様の唇にお薬を挿し入れます。胸を押さえて、ひぅ、ひうゥ、と笛のような吐息を漏らしていた奥様は、数分で穏やかな呼吸を取り戻されます。陽射しの中で浮かぶほど白い、奥様の貌。はぁはぁと虚ろに少し開いた唇。次第にひぅひぅという胸の音も遠退いていき、奥様は安堵の息をつかれました。
それは、本当に良くなられた証に見えたのです。
季節は木々を色褪せさせ、朝の空気が夏椿の上に朝露を遺す頃を迎えました。
「顔色が、良くなったみたいだね、」
征司さまが、俄かにキャンバスから顔を上げられ、呟きました。
お見舞いにいらした奥様は、いつも通り何も話してくれない征司さまにため息をつかれ、先生とお話に行かれていました。その征司さまが奥様のことを……、
奥様は、数日前に少し熱を出されましたが、激しい咳の発作は起きていませんでした。胸を押さえて息苦しい咳を零すことはありましたが、二つ三つで、あとはひぅひぅと胸が鳴るだけになっていました。透けるほど白かった頬には仄かに赤みが差して、以前より艶めいてお美しくおなりだったのです。
「ええ、旦那様が大奥様に強くおっしゃったからでしょうか。薄紅の薔薇のようにおなりです」
私が喜色ばんで応えると、征司さまは褐色の髪を揺らして、知らないのだね、と、哀しげに微笑んだのです。
「薔薇はあんな色ではないよ、あれは、雪行灯のような……胸を病んで熱を帯びた頬の色をしている」
ばさり、
私の手から、取りまとめていた繕い物が滑り落ちました。
「どうして、どうしてそんな意地悪ばかりおっしゃるんです、」
平静を装いながらも、声がわなわなと震えるのを、私は抑えることができませんでした。
くふ、笑ったかのような咳が、征司さまの唇から小さく零れます。
「自分の姉だから、だよ。わからないのかい、」
ごほ、ごほり、
皮肉な笑いが、咳に途切れ始めました。それでもくすくすと、征司さまは笑い続けます。
「征司さま、」
「隠しきれると想っているなんて、莫迦、だな 姉さんは…ッ、」
ごほり、ごほ、ごほ、ごほり、
絵筆を取り落とすほどに咳き入りながらも、征司さまは笑うのをおやめ下さいませんでした。
「おやめ下さい、咳が、」
「そう、胸が詰まってしまえば、、咳さえ、出来ないのに」
がふり、
血の帯が空に棚引いて、ぱっと、キャンパスに血の花弁が散りました。
「征司さま!!」
私の叫び声に、ばたばたと看護婦が駆け寄って来ます。寝台に横たえられ、浴衣を肌蹴て血と咳に喘ぐ政司さま。陽を浴びたことのない青白い薄い胸、くっきりと肋骨が浮いた胸が、窒息に打ち震えていて、私はいつの間にかかたかたと震えていました。
くすり、征司さまの瞳が私をとらえ
「僕のようになる前に、、姉さんを……ッ――!」
ごぼ、ごふ、ごふり、がふり、
激しい咳と共に喀血が再びこみ上げ、言葉を遮りました。
「征司!!」
知らせを受けたのか、駆け込んで来た奥様がなだれ込むように寝台に縋りつきます。嗚咽しながらゼィゼィと青ざめて肩で息をつくお姿に、私は不安を覚えずにはいられませんでした。