降るように散る深桜
「奥様、」
病棟の裏、奥様が壁に縋るように、儚げな身体を震わせていらっしゃいました。ハンケチで口を押さえ、うぅ、と嗚咽する奥様。
――ゴ、ほ…ッ、、ぅ――、ッ…ごほッ、っうぅ…
嗚咽? 違います、奥様は咽び泣くように咳き入っておられました。
「奥様、しっかりなさって…」
「八重、さん…っ、――せい、じ、が…」
息苦しい咳の狭間に、悲しみを吐露する奥様。泣いているだけ、そう思って欲しいのか…
うぅ、呻く度に咳がぜぃぃと尾を引き、
ぜほ、ぜほ…ぉッ、ッヒ、ぅゥ……っ、
涙が二重の胸の苦しみに溢れます。押し殺された咳は、咽ぶように奥様のはかなげな肩を震わせ、ごふり、胸からせり上がろうとしました。苦しみに歪む顔を袖とハンケチにうずめ、
うぅゥ・・っうぐゥ…ッ!
悲嘆に暮れるように、咳を逃がす奥様。伏せた長い睫毛の影で、夜闇の湖水のような瞳からはらはらと、苦しい涙が溢れました。
悲愴な美しさに、私はずきりと打たれ、
「無理をせず、咳いて下さいませ」
奥様の肩を抱き留めました。私よりわずかに背の高い奥様の肩は、あまりにも華奢で、ぜぃぜぃと胸の音に青く震えていました。
私の言葉に、奥様ははっと顔を上げられ、
「やえ、さ…違、ぅの、ッ――…」
「いいえ、もう…隠さないで下さいませ、」
いいえ、いい、え、
魘されるように首を振りながら、着物の合せから除く鎖骨がくっきりと、息苦しさに震えました。奥様の背をさすると、ぜぃぜぃという病の音がもつれて震えました。奥様は、ぐっ、と息を詰まらせ、
――ッ、うゥ…ぜフ、ご、ほ…ッ、ゴホゴホゴホゴホ……
ほとばしる咳に、がくりとくずおれたのです。
奥様、
――ぐッ、、ぐぅぅ―…ッ!ふゼフッぜふ…ゼフ、
うゥ――…ゴホゴホゴホゴホ……ッゼひィィ――…
私の腕の中で、奥様は苦しみに身もだえながら、咳いて咳いて咳いて……
骨の在り処が辿れそうな華奢な背中が、胸の病と共鳴してぜいぜいと震えました。
胸の中で薄氷を踏みしめるような不吉な音が響き、またぜほぜほと込み上げる度に、奥様は、うぅ、と苦しみの声を漏らします。黒髪に際立って白い首筋が、ぜひぃぜひぃと慟哭するように震えました。
こんなお苦しみを押し隠していらっしゃったなんて……
ぎり、私ははがゆさと申し訳なさで、奥様の背を必死で擦りました。
僅かずつ、ぜぃぜぃと喘ぐのが長くなり、十五分ほどで激しい咳は治まりました。しかし、ぜひぅぜひぅと喉と胸の間で流れる異音は消えず、奥様は肩で息を繰り返していらっしゃいました。
人を呼ぼうとすると、奥様はかすかに首を振りました。
「ですが、お顔の色が」
苦しみに青く透けるような奥様の端整な貌、喘ぐほどに艶めいているようにさえ思えます。
「旦那様には、いいえ、誰にも言わ、な いで…」
ひぅ、ゼひぅ、
肩で咳を殺しながらの懇願には、胸の奥から戸板が軋むような音が絡みついていました。
「征司さまの先生に、診ていただいた方が」
奥様は苦しげに目を伏せたまま、ゆっくり首を左右に振られました。
「丘を越えた先の…、お医者様で…」
奥様…いいえ、「姉さま」を診た老教授は、怒りを滲ませた声で、安静にしているよう言ったでしょう、出来れば入院を、と勧めました。
奥様は、哀しそうに微笑んでおっしゃいました。
「知られたくないのです、誰にも」
身内に肺病がいる、妻までも胸を病んでいる、その噂が旦那様を危うくすることを、奥様は案じていらっしゃいました。知られることを恐れ、運転手を征司さんのサナトリウムで待たせておき、お一人で俥を拾って、お屋敷から七里も離れた大学病院で診ていただいていたのです。お名前さえも伏せ、もう十年も前に亡くなられたご実家のお母様の名を名乗って…。
私は打たれたような心地になりました。
ごほ…ッ、ぅ、うゥ…、ゴホゴホゴホゴホ……ゼィゼィ、
奥様、
診察中も肌蹴た肩のまま咳き入る奥様を呼び止め、背を擦ろうとする度、奥様はそっと私を潤んだ瞳で制するのでした。
「姉さま」は喘息という胸の病で、何時起こるとも知れぬ発作を、舶来の強い薬で抑えるしか手立てはありませんでした。
胸が酷く弱い体質で、移り病ではない代わりに、良くなるのも難しく、発作を繰り返さないよう安静にしている他はなかったのです。
以前は季節の変わり目だけだった発作が、ご結婚されてからは日増しに悪くなり、薬の効き目も乏しくなっていたのです。
老教授は、とても強い薬だから充分注意して、と前置きした上で、効き目の強い輸入ものの新薬を手渡しました。爪の先ほどの量を舌下に含めば、立ちどころに激しい咳と息苦しさの収まるその薬は、奥様にとってこの上ない僥倖でした。
これで旦那様に心配をかけずに済む、
そう微笑んだ奥様の心から嬉しそうなお顔は、ほころんだ白い牡丹のようでした。