山桜の頃
それからの私は、奥様を見失わないよう、目を配りました。
儚げで、触れたら弥生の淡雪のように消えてしまうかのような、奥様。
華やいだ談笑の輪に入らず、控えめに佇む奥様。誰の目にも触れぬよう、喘ぐ胸を押さえ、いつの間にか姿を隠してしまわれる奥様。
ひと気のない部屋で、凶暴なまでの咳を押し殺し、病をひた隠す奥様。
きっと、お身体が弱いだけ、余計な心配をかけたくないと、遠慮されているだけ……
そう祈りながらも、息苦しく咳き込み続ける奥様は、私まで苦しくなるほどに酷く痛々しく、不安は結実していったのです。
煙草の煙や強いお香がただよっただけでも、奥様はすっと場を辞してしまわれました。そして、その時の咳き込み様は、尋常ではなかったのです。
ッあ、ゼひゅぅ…うゥッ――…!
ごんごんと胸の底から絶え間なくこみ上げる咳に、奥様は真っ青になってぜほぜほと文机に縋りつきました。震える手で帯揚げを緩め、例の薬を口に含みますが、ぜいぜいと細い背中をしならせて、千の喘鳴と万の咳を繰り返すばかりでした。奥様は再び薬を含まれ、厚手の布で、うぅ、うゥっ、、と咳を押し殺し吐き出すまいとします。次第にぜぃぜぃと喘ぐ時間が長くなっていき、扉越しの私も息をつきます。
そうした酷い咳き込みは、一度収まっても、ふとしたことで再び沸き起こり、日に何度も家事の手を止めねばならず、大奥様の不興を被っていらっしゃいました。
咳き入る度、奥様は紅を濃く引き直していらっしゃいました。
気がつくと、梅の季節は終わり、山桜がほころんでいました。
その日奥様は、二日おきにいらしている征司さまのお見舞いへ、お一人で行かれる予定でした。しかし旦那様が、奥様がお疲れのようなのを心配され、私に付き添うようおっしゃったのです。奥様は断られましたが、旦那様のお言いつけに不承不承、私をお連れになりました。車の揺れに紛れ、奥様は幾度もびくりと肩を震わせ、くふ、と口元で咳を逃がしてらっしゃいました。それは些細な仕草でしたが、隣に座る私には、ぜひぅ、ぜひぅ、と言う胸の鳴る音も、わなわなと胸内でくすぶる咳の気配も伝わってまいりました。
最早、奥様が病を隠すのは無理なことでした。
どんなに鮮やかな紅を引いても、却って青いほどに白い顔色が映えてしまう……紅を差した奥様は、その美しさが病的な艶やかさをお持ちでした。それは、肺病の弟、征司さまにとてもよく似た美しさ。
病院は、饐えた病の匂いと、それを消毒するかのような冷たい薬品の匂いが混ざり合っていました。たどり着いた政司さまの病室からは、戸を内側から引っかくような、小刻みなくぐもった音。奥様ははっと打たれたかのように病室へ駆け込まれました。
「征司!」
――ごほ、ゴホ…っ、、っごほ…!
征司さまは咳に薄い身体を震わせながら、キャンパスに噛り付いていらっしゃいました。薄手の白い寝巻きから除く、透き通るような白さの鎖骨が震えます。その微かに高く、胸の虚の中で蝶がはばたくような咳に、私はほっと安堵の息をつきました。
奥様の咳とは違う、奥様は労咳ではない……
奥様は、ご自分の肩掛けを征司さまの痩せた肩にかけ、寝台へいざなおうとして振り払われました。
「こんなに、足しげく来られても、良くなってなぞいませ、んよ……姉さん、、」
ごほ、ごほり、
口元に押し当てた懐紙に、野苺を潰したような血痰が散ります。
征司さまのあざけりには、咳だけでなく自嘲をも混ざっていました。
「貴方が無理ばかりするからではありませんか…!」
「肺病だからと寝台に縛られて、何も描きあげずに死んだら、死にきれませんよ」
「そんなこと…ッ、ッく――、、」
そんなことはない、必ず治る…そう嘯くことは奥様にはできませんでした。傷ついて打ち震えるように見えたなか、咳が零れかけるのを、私は見逃しませんでした。征司さんは物憂げなため息を付いて、無造作に伸びた髪の狭間から、奥様を挑むように見上げます。
「姉さん、もう御大家の奥様なのだから、こんな肺病の巣に来てはいけませんよ。僕は野垂れ死にしないだけでありがたいのだから……」
「ッ、そんな…――っ、」
奥様はわなわなとハンケチを握り締め、顔を伏せ――、か細い肩をぜぃぜぃと震わせました。政司さまが、少し眉をひそめたように思えたのは気のせいだったでしょうか。
「そんな風だから、身売りした女郎のように扱われるんです」
その言葉は、何処か哀れみを帯びて響きました。
奥様はうぅ、と嘆き声をあげ、駆け出してしまわれました。
こほ、ごほり、ごほ、ゴホ…
政司さまも咳き入り始め、私はおろおろと奥様の去った扉の向こうと、征司さまを交互に見やります。征司さまはくすり、と微笑んで
「姉さんを、頼むよ」
そうおっしゃったのです。