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呉藍の雪  作者: 咳集斎
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ほころぶ蕾

直接の描写はありませんが、ひたすら病弱萌えを追求したナンセンス話のため、R15とさせていただきます。

 哀しいほどに美しい方でした。奥様は――、


 私が奥様と初めて出会ったのは、冬の初め。雪深いこのお屋敷が白く閉ざされ始めた頃。

旦那様が手を取られ、車から降りられたその方は、あ、と声をあげずにいられない、華奢で美しい方でした。

雪の中の咲き初めた梅のような、雪行灯の中でともる蝋燭のような…

凛としているのに儚さを覚えずにはいられない。白い花の化生のような…そんな佇まいの方でした。

雪のように白い肌に、南天の実のような紅を唇に差して、伏目がちな瞳の長い睫毛が、心もとなそうな奥様。

まだ二十歳ばかりの、耳許で編み上げた髪が、白い顔を艶やかに彩っていた奥様。その奥様の小間使いにと言い付けられ、私――八重には夢のような心地でした。

奥様はいつも紅を差していました。雪の上に散った紅椿のように、白い肌に浮かぶ紅の唇。それは、ある秘密を隠すためでした。


「実家が零落して、遠縁の家で女中をしていたんですって、」

旦那様のお母様である大奥様は、はき捨てるように仰いました。

武家華族の家柄で貿易で財を成した御家で、奥様への風当たりは酷いものでした。奥様の煎れた紅茶を床に捨てられたり、見世物のように親類の前であざ笑ったり…

守ってくれるはずの旦那様はお仕事で家を空けることもしばしば、不平の一つも零さず、ただうつむいて、こほり、小さな咳をなさる奥様。

 咳、そう……奥様は、あまり丈夫な方ではありませんでした。

雪のように、蝋燭のように白い顔、

「肺病の弟までいるなんて、母親も胸を病んで若死にしたそうだし。そんな血が混じったら」

大奥様は、奥様の透き通るような肌をねたむように睨みました。

確かに、奥様には労咳を患った弟がおいででした。

旦那様はそのことも承知で、良いサナトリウムで治療させると約束して、奥様をお迎えになったのです。

 奥様の弟、十九歳の征司さまは、奥様に似て少女のように美しいのに、激しさを秘めた瞳の方でした。

首筋まで伸びた髪は、病のためか少し茶色がかり、微熱に濡れた瞳は、何処か遠くを見ておられました。将来を嘱望された画学生だった征司さまは、苦学の果てに胸を患い、

そして、奥様を責めていらっしゃいました。

征司さまは、奥様が自分のために分不相応な結婚をした、と思っていらっしゃったのです。

お見舞いにうかがう度、征司さまは奥様を咎め、奥様は悲しげにうつむき、口元をハンケチで隠すとそっと病室を後にします。後を追うと、奥様は廊下の端で涙ぐみ、こほ、と小さな咳をなさいました。

……えぇ、丈夫ではない奥様が少しばかり咳き込むことなど、珍しいことではありませんでした。

そう、いつものことだったのです。


 空気が温んでくる弥生の終わり。病の蕾は梅の花ほどの緩慢さで、日に一度から二度、三度と回数を増していき、ある日咲いたのです。

旦那様からお茶席の準備を言いつけられた私は、奥様を探しておりました。茶会の趣向にあった器を用意しなければ、また奥様が大奥様に叱られるからです。

ふと、庭園の茶室に、貴人口から入っていかれる奥様の後姿が見えました。その細い肩が俄かに震えていたように思えて

「奥さま、」

後を追った、その時でした。

 ――ごほ、ごほり、ーーごほ、

微かな、けれど確かな咳の音。私はあわてて、障子戸を開けようとし、手を止めました。

かすかな障子戸の隙間、草履を脱ぐ間もなく、倒れこむように膝を折った奥様が見えました。

 ――ッは、ごほ、ごほ、 ッぅぅ…ゴホ、う、ゴホ…ぉッ、、

ひと気の無い茶室で、壁に縋りつき、押し殺すように咳き入る奥様。細い肩が気ぜわしく上下し、ぜいぜいと息をもつれさせながら、口元を袖できつく押さえます。

 ッ――、ぅう…――、ご、ほ…ッ、、ゼひゅゥ、うぅッ――…!

嗚咽めいた喘ぎに、ぜひぃ、ぜひぃ、病んだ音が絡み付き、またごほり、ごほり、咳がこぼれ続けます。

胸を病んだような、軋んだ咳が。

奥様、まさか……

私に一抹の不安が過ぎりました。いや、奥様が肺病であるはずがない。先日の風邪が治りきっていないだけ…でも、あの苦しい咳は…

ぐるぐると思い巡らしていると、奥様は懐から小さな包み紙を取り出され、咳に震える手でそれをさらさらと口に含まれました。

 ッぐぅっ、ぅ――…っ! ガ、ふ……

粉薬ーー?

奥様は咽返ろうとする胸を押さえ、ぜぃぜぃと華奢な肩で息をつなぎ、また百も、千も咳き入りました。戸を隔ててもわかる、肺腑を裏返すような咳、咳、咳。

 奥様、

駆け寄らねば、でも、いけない、

身動きできぬまま、食い入るように咳き喘ぐ奥様に見入っていた私。どれくらいそうしていたのでしょうか。獰猛な喘ぎは少しずつ収まっていき、奥様はぐったりとしなだれたまま、こほ、こほり、力無い咳を繰り返します。苦しい汗を帯びた奥様の青ざめた貌は、濡れた夜光貝のようで危うい美しさに満ちていました。ようよう、懐紙で涙をぬぐい、髪を漉き、何より紅を引き直してふらりと立ち上がります。

私は、はっとして茶室から足早に離れました。一歩でも遠く、この疑惑から遠ざかりたい。そう思ったのです。お屋敷の裏手まで歩いたでしょうか、

「八重、さん」

奥様の声でした。振り返ると奥様は、常のとおりたおやかな微笑みを浮かべていらっしゃいました。ほのかに紅の灯った頬、雪明りのような佇まいは、あれほど苦しんでいた方だとは思えませんでした。

「お茶席のお手伝いをしてくださるのですって? 御免なさい、行き違いになってしまって」

奥様は、口元を袖で多い、くふ、と、咳とも笑みともつかない声を漏らしたのです。


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