situation.7 何かが起こり始めている
ありさは目覚ましを三十分早めて起床すると、いつもより一本早い電車に乗ることに決めた。あの後、警察に連絡して自宅まで同行してもらう事になったのだ。
「通報、ご苦労さまです」
ひょろっとした首の長い、警察官にしては頼りなさそうなイメージの男が迎えに来た。ありさはその警察官に、先程起こった出来事について一通り話したが、反応はいまいちだった。
「この周辺を一応パトロールさせていますが、不審人物を目撃した情報はなさそうです」
警察官がトランシーバーで連絡を取りながら話す。
「そんな、確かに私は誰かに追いかけられました。間違いありません」
暗がりの中、慌てて周囲を見渡す。この暗闇の何処かに潜んでいると思うと恐ろしくてたまらなかった。警察と一緒にいる今でも誰かに見られている気がしてならない。
「そう言われてもねぇ……君、本当に思い違いとかじゃないよね?」
疑いを向けられた視線にありさは驚いた。信じられない、被害者の女子高生を疑うなんて。面倒沙汰を放り投げるように警察官はこうも言った。
「次からは交番にでも駆け込んで下さい。それではお気をつけて」
その交番が見当たらなかったからコンビニに駆け込んだじゃない。ありさは売店で買ったウイダーインゼリーを吸いながら外の風景を睨んでいた。昨晩起きた出来事は親にも告げていない。話せば、即座にバイトを辞めさせられるだろう。それだけは嫌だった。
美波にメールを送りながらも、ありさは周囲に目を配る。こんな早い時間から変出者が出るとは思えないが、警戒するに越したことはない。自分の身は自分で守らなければ。昨日身をもって実感した所だった。
「ちょっと、それってストーカーじゃないの!」
勝手に前の席に座った美波が、ばしっと机を叩いて抗議した。横で由香里も複雑な表情を浮かべている。ありさがこの二人に昨日の出来事を告げた所、美波が「ストーカーだぁ!」と騒いでいたのだった。
「勝手にストーカーにしないでよ。ただの変出者かもしれないじゃない」
「えーっ、ありさを付け狙うなんて変態だよ。ロリコンだよ。気色悪い!」美波が一気に罵る。「男なんて死ねばいいのに」
卑屈に顔を歪める美波を他所に、由香里が遠慮がちに尋ねた。
「で、警察は何て?」
「駄目、まともに取り合ってもらえそうにない感じ」ありさは怒りを込めて教科書を丸めた。「次会ったら、思いっきり叫び声上げてやる」
「でも、いざとなったら110番しなよ? 近頃変な輩が本当に多いんだからさぁ」
由香里が不満そうに腕を組む。部活中竹刀でも当てられたのか、左肘に痛そうな青痣が出来ていた。
「それにしても、一体どこの誰だったんだろう。女子高生を追い掛け回して何が楽しいのかしら」
肩肘をついて昨日の出来事を思い出す。念の為、帰りに防犯ブザーでも買っておこうかな。どこで売っているんだろう。
「案外身近な人だったりして」美波が八重歯をちらつかせながら笑う。「例えば……ありさの元彼とか!」
「えっ!」
「昔、こっ酷くふった相手だったりするんじゃないのー?」
「やだぁ」
二人がそろって自分を茶化してきたが、ありさは恥ずかしそうに顔を背けた。
「…………まだ、誰とも付き合った事ないわよ」
「嘘だぁ!」
「本当に身に覚えがないんだってば! それに、勝手に好意を寄せられても困る」
「あ」美波が気付いたように声を上げた。「もしかしてあの人かもよ?」
「あの人?」
「ほら、昨日も喫茶店に来ていた大学生! あいつ超怪しいって」
如何にも眼鏡をかけたガリ勉君の事か。ありさは昨日の様子を最大限に思い出そうと頭をひねった。
「何? ストーカー候補がバイト先にいるの?」
由香里が興味津々に美波の顔を覗き込む。
「それがさぁ、いっつもドリンク一杯で、何時間も勉強していく大学生がいるのよ。ありさの事もちらちら見ていたし、あいつに間違いないって。あたし店長に文句言って、あいつを入店禁止にしやる!」
「ちょ、ちょっと待ってよ。まだその人かどうか決まった訳じゃないでしょ」声を潜めて言う。「あまり事を大きくしないで」
周囲を見渡してありさは恥ずかしそうに身を縮めた。一度つけ回されただけでストーカーとは判断し難いし、どちらかと言うと昨日のは変出者ではないか。あの大学生も怪しいとは思うが、見るからに優柔不断そうな彼が昨日みたいに俊敏な動きをするとは思えない。
「私、しばらく一緒に登下校しようか? 一応剣道やっているし、撃退くらいなら……」
由香里はそう言ってくれたが、目は既に怯えきっていた。女の子だから当たり前だ。
「ううん、悪いからいいよ。それにもうすぐ最後の大会があるんでしょ?」ありさは精一杯笑ってみせた。「私達帰宅部に構う事ないって。もう一度警察にも相談してみるからさ」
この二人に相談したところで解決策する訳がない。由香里に対しては変な気を使わせてしまっただけだろう。ありさはどうしたものかと気を揉む。自分の周りで何かが起こり始めている。何故? 無意識に身体を抱きしめ、訳もなく周囲を見回した。
あれから一週間が経過したが、何事もなく日常生活が過ぎていくだけだった。上履きの一件はあれ以降何も無かったし、誰かにつけられる事もない。普段通りの日常が戻ってきていたのだった。
もう、せっかく防犯ブザーまで買ってきたのに。ありさは釈然としないまま、理科室で生物のビデオを鑑賞していた。染色体の成り立ちを表そうと、ミミズみたいなのがうねうねと形を生成していく。こんなビデオを真面目に見ている生徒は少なく、大半はこそこそお喋りをしているか、机の下で携帯を弄っていた。
ありさも欠伸を噛み殺して寝ないようにと外を見た。梅雨時に入ったらしく、最近は雨の降る日が多い。雨はどことなく憂鬱な気持ちにさせるので嫌いだ。特に湿度の上昇は耐え難い。暑さと不快感を倍増させる。
この眠ったらしい授業が終わったら、次は体育だ。この天気では室内なので日焼けを気にせずにすむ。それにこの眠気も少しは覚めるだろう。美波達と一緒に教室へ戻ってくると、ありさは鞄の中から体操着を取り出そうとした。
「あれ……」
無い。確かに鞄に入れてきたはずなのに。慌てて自分の机やロッカーの中も確認してみたが、そんなところにあるはずもなかった。
「ありさー? 早くしないと遅れるよー」
美波と由香里が教室の出入口で立っている。
「……ごめん、先に行って。ちょっとトイレに寄って行きたいから」
苦笑いで二人を見送ると、ありさは急いで鞄の中身をチェックした。財布は無事だ。他に取られた物はない。やられたのは体操着だけか。
まただ。一気に胃液がせり上がってくるのを感じ、咄嗟に口元を押さえた。この間の上履きといい、誰かが自分に嫌がらせをしている。もう間違いない。ありさは一人になった教室で周囲を見渡した。一人一人の机や鞄を注意深く観察していく。ロッカーの中も見てみたが、自分の体操着はなさそうだった。
一体誰よ、こんな嫌がらせする奴! 文句があるなら堂々と言えばいいじゃない! ありさは近くにあった椅子を蹴り飛ばすと、途方に暮れて床にへたり込んだ。静かにチャイムの音が鳴り響く。何だか世界中で独りぼっちになった気分になり、急に涙が溢れて止まらなかった。
もう嫌。一体どうしちゃったのよ。平和だった日常が、足元から崩れていく気がしてならない。どうして? 何が起きているの?
しばらくめそめそとその場で泣いていたが、やがて諦めたかのようにありさは顔をあげた。こんな所で泣いていても仕方がない。他の生徒に見られても厄介だった。洗面所でつけまつげを外して涙を洗い、ファンデーションを叩き直す。
今日はバイトが無くてよかった。もうこのまま早退してしまおう。ありさは力無く鞄に荷物をつめると、保健室へ向かった。階段をゆっくりと下って昇降口横に出る。
「もしかして――――」
ありさは思い当たったかのように自分の下駄箱を開けた。そこには泥だらけになった体操着が、丁寧に畳まれて置かれていたのだった。