situation.5 夜道の追跡者
バイト先の喫茶店に着いてからも、ありさは気分が晴れなかった。あれから何事もなく授業を終え、心配していた靴も大丈夫だったが、また何かされるかもしれない不安が付きまとう。スタッフルームで昨日無くしたリボンも探してみたが、とうとう見つからなかった。
「すいません。ホットコーヒーと、サンドイッチお願いします」
ポールスミスの派手な紙袋を持った男が注文をする。ここの常連客の一人だ。ありさも何度かこの男の所へ料理を運んだ覚えがあるので、顔見知りだった。
「はい、お会計七百五十円です。お好きな席に着いてお待ち下さい」
男と一瞬目が合うと、軽く会釈をして去って行った。お洒落で、どことなく紳士的な雰囲気のする人だ。そう思いながらお金をしまっていると、今度は外のガラス扉越しにこちらを見ている大学生と目が合った。真面目そうに眼鏡をかけて、リュックサックを背負っている彼もまた、常連客の一人だった。西日が照りつける看板を見ながら、今日は何を頼もうか考えているのだろう。涼しい店内に入って決めればいいのに。いつもドリンク一杯で三時間くらい粘って勉強していく。何度もお冷だけを注ぎに行くので嫌でも覚えてしまった。
「いらっしゃいませ」
「今日はアイスコーヒーで」
「はい、三百五十円になります」
迷った時は結局アイスコーヒーを頼む。ありさは最近、常連客の顔ぶれも分かるようになっていた。仕事にも慣れ、次第に余裕が出来てきた証拠なのだろう。レジカウンターから店内を一望して客の顔を吟味していく。キャラメルマキアートを注文する男は、まだ来ていなかった。
「ありさ、レジ交代するね。ドリンクお願いしまーす」
美波がエプロン姿で可愛く手を振る。今日はシフトが一緒なので、彼女は従業員として喫茶店にいた。
「じゃあこのトレイを拭くの、よろしくね」ドリンクサーバーの前で新條と交代する。「新條さんは休憩だそうです」
「よっしゃ、やっと煙草が吸えるぜ」
エプロンを脱ぎながら嬉しそうに厨房に入って行く。ありさがグラスを拭いていると、美波からオーダーが入った。
「キャラメルマキアート、ワン、お願いします」
「かしこまりました」
やっぱり来たかと、ありさは注文した男の顔を盗み見た。白髪のうっすら生えた、明らかに四十代後半のサラリーマン。甘い物が好きそうに肥えている。
ありさは手早くミルクポットに牛乳を注ぐと、スチームで温めつつマグカップにエスプレッソを入れてやる。マグカップを傾けてミルクを高い位置から落としてやると、ふわふわのラテの完成。その後バニラシロップとホイップ、上からこれでもかとキャラメルシロップを放射線状に描いやれば、キャラメルマキアートの完成だ。
うーん、この出来栄えは七十五点くらいかな。見るからに甘ったるそうなそれをホールにいる吉川に差し出す。
「提供お願いします」
吉川が素早く駆けつけ、さっきの親父の所へ持っていく。ハンカチで汗を押さえながらホットの飲み物を飲むものだから、見ているこっちが暑苦しかった。
「ねぇ、あの男、さっきからありさの事見ていると思わない?」
美波がトレイを盾にこっそり指を差す。あの眼鏡の大学生だった。何やら英単語帳を広げている。
「……何でよ」
「何でって、ありさの事が気になるからに決まっているじゃない。きっと彼、ありさのエプロン姿を見に通いつめているんだよ」
にやにやと自分の反応を心待ちにした顔で笑っている。あの大学生が自分に気があるのだと言いたいらしい。
「馬鹿馬鹿しい。単に勉強しに来ているだけかもしれないじゃない」
「それにしてもありさがホールに出ている時が、一番お冷のお代わりが多いんだよなぁ」鋭く観察を効かした目でありさの方を見た。「ねぇ、ああいう男、ありさのタイプ?」
「何言ってるのよ、それよりお金はもう数えたの?」
「こ、これから……」美波がたじろぎながらトレイを片付ける。「真面目にやりまーす」
ありさは眉をつり上げながらも、客席で勉強している彼の姿を見た。アイスコーヒーはとっくに飲み終え、吉川がお冷を注いでやっている所だった。
悪いけど、タイプじゃないかな。ありさはすました顔でグラスを片付けていった。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様でーす」
いつも通り駅前で吉川と別れ、電車内で美波とも別れて一人になったありさは、振動で揺れる吊り革を眺めた。今日はあまり店長と話せなかったな。仕事終わりの疲れもあり、がっくりと肩を落とす。今日は本当に長い一日だった。朝のあの一件は何だったのだろう。電車の窓ガラスに反射した自分を見つめながら、腑に落ちない表情でビルのネオンを追っていく。そろそろ駅に着きそうだ。
定期で改札を通ると、閑散とした住宅街に出る。まだ夜の十時前なのに、深夜のような静けさ。これだから田舎は嫌なのよね。ありさは怖々とその中を突っ切った。
かつん、かつん、かつん。
かつ、かつ、かつ。
後ろでもう一つの足音が聞こえる。それにリズムがほぼ同時だ。気が付いた途端、ありさは全身の毛がよだった。早く家に帰ろう。
かつ、かつ、かつ、かつ。
かっ、かっ、かっ、かっ。
ありさが足を早めると、後ろの人物も足を早めた。明らかに自分と歩調を合わせようとしている。
何っ、何なの! 暑苦しい夜なのに、自分の周りだけ空気が冷えたかのように寒い。鳥肌が立っている。
もしかして不審者? そんな物騒な町ではなかったはずなのに。ありさは後ろを振り返ろうと立ち止まった。後ろの足音も鳴り止む。確実につけられている。どうして。一体いつから、何の目的で? 生唾を飲み込み、思い切って後ろを振り返った。
「…………」
誰もいない。そんな馬鹿な! ありさは目を凝らして暗闇に潜んでいる人影を探した。電信柱の奥からうっすらと、不自然な影が道端に飛び出している。
あの後ろに隠れているのか。ありさは自分の鞄を両手でしっかり抱きかかえると、腹をくくって一気に走り出した。とにかく人がいる所へ。置いていかれまいと、電信柱の背後に隠れていた人物も飛び出す。
たっ、たっ、たっ、たっ。
た、た、た、た、たっ。
やばい、追いつかれたら殺される! ありさは涙目になりながら、助けを求めるべく周囲を見渡した。しかし、今日に限って人っ子一人見つからない。そんな!
ありさは無我夢中で近くのコンビニ目指して疾走した。恐怖で涙がこぼれた。汗で前髪がへばりつく。ただ転ばぬようにと足を前へ出しかなかった。嫌だ、まだ死にたくない! 助けてっ!
がむしゃらに走りきってコンビニの扉に体当たりを食らわすと、そのまま床に転がり込んだ。鞄が吹っ飛んで商品棚に突っ込む。
「ちょっと君、大丈夫か!」
陳列していた店員が、派手な音を聞きつけて駆け寄ってきた。店内にいた客も、何事かと騒然とした目でこちらを見ている。
助かった。逃げ切れたんだ。ありさは震えながら自分を確認するように強く抱きしめた。コンビニ内の効き過ぎた空調が熱を奪い、ありさの身体を急速に冷やす。激しい身震いが起きた。
「おい……どうしたんだよ」
店員が化け物でも見たかのような形相でありさを見下ろす。血の気の引いた真っ青な顔がガラスに写る。乱れた髪を整え、先程起きた出来事を告げようと、カラカラに乾いた唇をゆっくり開けた。
「だ……誰かに、追われて……!」
指で示しながら、恐る恐る走ってきた道を振り返る。しかし、そこには静かな闇が広がっているだけだった。