situation.3 自宅
自宅に着き、もう夜の十時近くも手伝って静かに玄関の戸を開ける。廊下は既に薄暗く、すぐ隣のリビングからはテレビの音と、母の甲高い笑い声が聞こえていた。
風呂場の電気は付いていない。と言うことは、二人ともリビングにいるのだ。また母に文句言われるだろうと思いつつも、この空の弁当箱を洗わなくてはならない。ありさは仕方なくリビングのドアを開けた。
「ただいまー」
やはり二人ともテレビを見ている。ありさが弁当箱を取り出して洗い始めると、安っぽいパジャマを着た母が重そうに立ち上がった。今年で五十を迎え、元々化粧気がないせいか実際の年齢より老けて見える。ぼさぼさの髪を鬱陶しそうに結わえた、貧相に太った女。年をとっても、ああはなりたくないものだ。ありさが女として見下している母が、タイミングを見計らうように話しかけてきた。
「お帰り、ありさ。今日もバイトだったのね。最近この時間に帰ってくる事が多いけど、学校の勉強の方は大丈夫なの? もうすぐ担任の先生と進路相談もあるでしょう」
ほらきたよ。ありさは露骨に顔を歪めた。
「大丈夫だって。赤点は取らないようにしているし」
素っ気ない返事をする。母はアルバイトをしている自分に反対だった。喫茶店で働き始めた当初、親の断り無しに勝手な事をしてだの、学生の本業は勉強だの云々文句を言われた。近頃になってようやく諦めたのかと思いきや、化粧をしだしてからは余計に敵視されるようになっていた。
「大丈夫じゃないでしょう。ありさは大学に行く気はないの? 今時短大くらいは出ておかないと、いい就職先はないわよ。ねぇ、あなた」
黙ってテレビを見続けている父に、同意を求めるように声をかける。父は一瞬こちらを振り返っただけで、何も言い返さなかった。昔からそうだ。当の昔に禿げてしまった頭を、ひょろひょろの首と背骨だけで支えている。母に頭が上がらない男。あの様子じゃ自分の上司や部下にも猫背の低姿勢を続けているに違いない。
「もう、何とか言ったらどうなの。本当、頼りないんだから」母がぶつぶつ言いながら、冷蔵庫からビールを取り出す。「その内勉強してこなかった事、後悔するわよ。晩ご飯は食べて来たの?」
「うん、軽く」
本当は何も食べていなかったが、これ以上母と関わりたくないので嘘をつく。今はこの部屋から出ることが最優先されいていた。それに夜遅く食べると太るので、最近は何も食べずに過ごす事が多い。
「もうお風呂に入って寝るから。お休みなさい」
ありさが乱暴にリビングのドアを閉めると、向こうから叱り声が聞こえた。
『あの子ったら、また化粧なんかしちゃって。学校で怒られたりしないのかしら。もう、いつからあんな子に――――』
母の文句は尽きそうになかった。それに黙って付き合う父もどうかと思うが。ありさはため息をつくと二階の自分の部屋に上がった。真っ先にクーラーと扇風機を付けて回る。
この家では母が実権を握っていた。自分が一人娘だからって、何でも親の言う通りに育つと思うなよ。もう自分の事は自分で出来るし、決められる。ほおって置いて欲しい。ありさは自分の両親が好きではなかった。母に関しては同じ女性なのに、どうして自分の美に無関心なのだろうと悪態をつきたくなる。あんな風に自分は絶対なりたくない。
机の上に鞄を置いて中身を全て取り出した。制服のポケットにも手を入れてみる。リボン、何処にいっちゃんたんだろう。
仕方がないのでクローゼットの中から予備のリボンを探し出し、セーラー服と一緒にハンガーにかけておいた。ま、いいか。あのリボン、醤油か何かこぼして汚れていたし。深く考えるのは止めにして、下着姿のまま鏡の前に腰を下ろした。つけまつげと軽く施したメイクを落とすと、急いでお風呂場へと向かった。
父は地元の市役所職員。母は保育園の先生だったが、今は引退して近所のスーパーでレジ打ちをしている。母が自分に押し付けがましいのは、元保育園の先生と言うプライドがあるからかもしれない。だから毎日手作りの弁当を持たせてくれるし、夕食だって帰りが遅い自分の分まで作り置きしてくれている。感謝している反面、正直うざったいと思うようになっていた。近頃は自分が化粧をしているのが気に食わないらしく、常時文句を言ってくる。
早く一人暮らしをして、自由に生きたい。働き始めてから日に日にその思いが強くなっていく。この高校三年生の間にお金を貯めて、絶対この家から出てやる。
ありさは一人鏡の前で化粧水を叩きながら、自分の顔をまじまじと見た。大きな瞳の上にくっきりとした二重のライン。すっと高い鼻、程よく引き締まった唇。駅前で男に声をかけられた事もあった。
今度は長い髪を払いのけてキャミソールの上から自分の胸を寄せて上げてみた。Dカップのブラジャーがピッタリと収まるサイズ。くっきりと鏡越しに谷間も伺えた。ありさは身長も百七十センチ近くあり、典型的なモデル体型だった。自分でもいい身体だと自画自賛したくなる時がある。今がまさにその時だった。
ありさはベッドの上に身を投げると、自分の身体をあちこち触り始めた。男性経験は、まだ無い。が、やはり最初は好きな人としてみたい。恥じらいながらも、杉原店長の顔を思い出す。店長なら、自分を優しく抱きしめてくれるだろうか。親切にリードしてくれるだろうか。先程の厨房での出来事を思い返して、思わず赤面する。あの言葉、どういうつもりで言ったのだろう。