situation.2 消えたリボン
業時間が終わり、各自片付けと締め作業に入る。美波は相変わらず客席でノートに何やら書き続けていた。自分が終わるまで待つつもりなのだろう。前も、その前の時もそうだった。
「美波、片付けるからちょっとだけ席外してよ」
「はいはーい」
そそくさとテーブルに散らかした参考書をまとめ、奥のスタッフルームへと入っていった。全く、勉強しに来ているのか、邪魔しに来ているのか。ありさは美波に不満を抱きながらテーブルを拭いて回った。ふと、誰かがこちらを見ているような気がして立ち止まった。そこには、大きな鏡に写された自分が写っている。
「渡辺さん、ちょっといい?」
店長に呼び止められて、ありさは慌てて振り返った。
「はい」
「ちょっとコーヒー豆の数をチェックしておきたいんだけど、手伝ってもらえるかな」
厨房に入り、奥に積んであるダンボール箱の中身をチェックしていく。神田はごみ捨てにでも行っているのか、厨房にはいない。つまり店長と二人っきりだった。
「僕が個数を数えるので、渡辺さんはそれをこの紙に記入してくれるかな」
よっと、脚立を組み立て、それに店長が跨る。そんな何気ない仕草でも、ありさにはかっこよく見えてしまうから困る。咄嗟に目を伏せてしまった。
「えっと、グァテマラが四」
「……はい」
「キリマンジャロが八」
「はい」
「エスプレッソが……二十一」
「はい」
ボールペンを持つ手が汗で滑る。自分の声も震えているような気がしてならない。ありさは口の中をからからにしながら、何とか自分の役割だけに集中しようとした。
「はい、これでラスト………ブルーマウンテンが五」
「……はい」
緊張の時間が終わり、思わず額に浮かんだ汗を手で押さえる。厨房にかけられた時計を見る。時間にして約十五分か。もっと長かったような気がする。そんな自分の心境を知ってか知らずか、店長が笑った。
「ごめんごめん、そんなに緊張させちゃったかな?」
「えっ! ……いっいえ、大丈夫です」
慌てて否定する。店長が脚立から下りてありさの正面に立った。背の高い店長を思わず見上げる形になった。
「それにしても渡辺さん、最近良く働いてくれるから助かるよ。どう? ここにはもう慣れたかな?」
いつもの優しい微笑みだ。ありさはすぐさま頷いた。
「はい、皆さん優しい人達ばかりですし、いつも助けてもらっています」
「新條君にセクハラとかはされてない?」
「さ、されていませんよ、多分……」急に真顔になった店長に思わず後退る。「からかわれているだけですから」
「そうなの? じゃあ僕もからかってみようかな、渡辺さんの事」
「え?」
いきなり大きな手が頭に乗せられ、ぽんぽんと軽く叩かれた。
「……ふっ、冗談だよ。手伝ってくれてありがとうね、助かったよ」
「い、いえ」
俯いて、そう言い返すのが精一杯だった。ありさは唇を噛み締めると、逃げるように厨房から出て行った。
「皆さん、今日もお疲れ様でした」
「お疲れ様です」
厨房に美波以外のスタッフが集まり、店長が労いの言葉をかけて解散となった。ありさは着替えるべく、吉川と二人で先にスタッフルームへ入る。従業員に設けられた三畳程のスペースは、端に着替える為の薄いカーテンと、その周りに所狭しとスタッフの私物が乱雑に置かれているだけだった。
美波の姿が見当たらない。おそらく外で待っているのだろう。ありさは着替えるべく、学校の制服をロッカーから抜き取ると、交代でカーテン越しに着替え始めた。この部屋自体に鍵がかからないので、男性陣が待ってくれている間に、素早く帰る支度をしなければならない。
「あれ……?」
制服の青いリボンが見当たらない。そんな馬鹿な。テーブルの上に鞄を置くと、乱暴に中を探る。おかしい。着替える時にこの中にしまったはずなのに。
「どうしたの?」
派手な私服に着替えた吉川が声をかけてくれた。ありさは事情を説明して二人で一緒に探す。荷物を取った際に落としたのかと、ロッカーの中やその周辺まで探してみるが、見つからない。何で? 確かに鞄の中にしまったはずなのに。
「おーい、まだ着替え終わらないのかー?」
新條がドア越しに声をかけてきた。ありさは不思議に思いながらも「鞄の中にあるはずだから、後でよく探してみます」と吉川に礼を述べてドアを開けた。
「すいません、お待たせしました」
神田と新條にその場を譲り、ありさと吉川は店の大きな鏡の前で身なりを整えてから外に出た。一歩店内を出るとむせ返るような湿気で、クーラー慣れしていた身体がひるむ。外では店長と美波の二人が楽しそうに看板をしまっていた。
「美波、帰るよ。店長、お疲れ様でした」
「お疲れ様。遅いから、三人とも気をつけて帰ってね」
「はーい」
「お疲れ様でーす」
美波が元気よく挨拶し、吉川とは駅前で別れた。美波とは帰る方面が一緒なので、二人並んで静かになったホームへと向かう。
「あんた、よく店で勉強出来るわね」
「えへへ、だって家じゃ絶対教科書広げられないもん」
確かに。美波の家へは何度か行ったことがあるが、あの漫画やら雑誌やらが積み重なった机の上を片付けなければ、とてもじゃないが座っていられないだろう。
「あれ? ありさ、制服のリボンどうしたの?」
美波が気付いて自分の胸元を触る。ありさはびっくりして仰け反った。
「ちょっと! 何どさくさに胸触ってんのよ」咄嗟に胸を隠す。「びっくりするじゃない」
「ごめん、ごめん。だってリボンが無かったから――――」
「もう帰るだけだから、付けるのが面倒だと思っただけよ」
美波から少し離れて反論する。本当は見当たらなくて付けていないだけだが、今は事情を説明する方が面倒だと思って止めた。
「じゃあね、ありさ。また明日学校で!」
途中の停車駅で美波が先に下車した後、ありさは思い出したかのようにもう一度鞄の中を探す。が、やはりリボンは見当たらなかった。