situation.1 喫茶店
午後六時を迎えた喫茶店。この時期では夕刻になっても外は明るく、冷たいアイスコーヒーがよく出る。駅前通りに沿ってはめられた大きなガラス越しからは、沢山の人が入口に吸い込まれる姿が見受けられた。
そろそろ交代の時間か。渡辺ありさは軽く伸びをすると、カウンターの中に入ろうとした。
「渡辺さん、最後にこれ、三番テーブルにお願い」
白いカッターシャツに黒のエプロンを身に付けた杉原店長が、ドリンクサーバーの横にアイスコーヒーを二つ置く。
「はーい」
ありさは店長の顔を一瞬確認してから、平然を装い三番テーブルへ向かった。
現在高校三年生のありさが喫茶店『フェリーチェ』で働き出したのは、昨年の冬休みからだ。この六月で丁度半年。普通科の進学校に入学したのはいいものの、将来特にやりたい事もなく、勉強してまで大学に入りたいとも思えないまま現在に至る。
週五で土日は朝から、平日は夕方学校が終わってから閉店までの約四時間半。とりあえず実家を出るべく、勉強よりもアルバイトに励む毎日。ようやくこの仕事場にも慣れ、他のスタッフにも頼られる喜びを見出していた所だ。
フェリーチェは店長が経営する個人店で、開業してから今年で三年目とまだ新しい。店内は小型テーブルが八つの席数が十六と、比較的小さなお店だった。奥行の広い店内はシックなアンティーク調で統一されおり、年季の入った渋い木製テーブルと椅子。白を基調とした刺繍の壁に、漆黒の縁がアクセントのように張り巡らされていた。なんでも客席の奥に飾られた一際大きな姿鏡は、この喫茶店の象徴だと言ってもいい。繊細な花の装飾が細部まで彫られており、一体幾らで買い付けたのだろうと目を見張るくらいだった。
時々分かっていても、鏡に写った自分の姿に反応してしまう事があった。長い黒髪を後ろで高く結い上げ、レトロな黒いウエイトレスの制服でアイスコーヒーを持っているのは、紛れも無く自分自身。今日も制服を可愛く着こなした少女がそこに写っていた。
「お待たせ致しました。アイスコーヒーお二つです。ガムシロップやミルクはあちらのカウンターにご用意しております」
マニュアル通りの台詞を言ってのけた後、店長の姿を素早く探す。店長は奥に入ってしまったのか、客席からは見当たらなかった。
「ごめんね、ありさちゃん。ホール交代するから、レジお願いします」
先輩アルバイトの吉川が小走りでこちらに向かって来る。ありさはバトン代わりに台拭きを手渡すと、カウンター内に入った。吉川は茶髪に派手なピアスをいつも付けている現役大学生で、今日は何をイメージしているのか、薄っぺらいキャンディーが耳に二つ程ぶら下がっている。彼女はフェリーチェ開店当時から働いていて、店長の右腕的存在だった。
やっぱり、吉川さんは店長とデキているんじゃないだろうか。この前お付き合いしている人はいないって聞いたけどなぁ。空いてきた店内を見渡しながら、レジの前でトレイを拭いて回る。少しでも大人の女性に近付きたくて最近化粧も覚えたが、先にいた彼女には敵いそうもない。半年そこらの自分とは信頼関係から差があるのだ。分かっていても、ありさは二人の空気に疎外感を覚えるのだった。
自分が店長に淡い恋心を抱いているのは誰にも秘密だった。店長が自分に振り向いてくれる可能性は低いだろうし、余計な私情は仕事の妨げにもなる。杉原店長は年も三十二とそこそこ若く、その甘いマスクを目当てに来る客もいるほどだった。ありさ自身も初対面の時から、店長には女性が惹かれる何かが備わっていると感じた。それまで異性の大人とあまり面識がなかったせいもあるが、優しくて頼り甲斐のある男性。第一印象はそうだった。
「アルバイト未経験者ね。……主にレジやドリンク、ホールでの接客をしてもらうけど、大丈夫かな?」
「は、はい、大丈夫です。頑張ります」
「そんなに緊張しないで。僕の方がドキドキしてしまうから」
面接時にそう笑った店長に救われたのは言うまでもない。その後店から連絡を受け、ありさは見事採用された。ここで働き始める内に、店長は仕事も出来る男として、ありさの憧れの対象になっていったのだった。同級生の男子では決してみられない落ち着きと色気。視界に入っただけでもドキドキする。これを恋と呼ばずして何と言うのだろうか。
店長の事は好きだけど、所詮自分の事など学生アルバイターとしてしか見ていないだろう。それに年の差が少しありすぎる。
「お、ありさちゃんどうしたの? 溜め息なんかついて。余計に幸せ逃げちゃうぞ」
細身で変なパーマをあてた新條が、へらへらしながらドリンクサーバーを掃除している。彼も確か吉川と同じ大学で、三ヶ月前から働き始めた新人だ。はっきり言ってありさはこの手の男は苦手だった。
「余計なお世話ですよ。そういう新條さんこそ、最近、どうなんですか?」
「何が?」
ありさが意味ありげに吉川に視線を向ける。新條が自分を構うのも、吉川の事が好きだからと分かっていた。
「それがさー、デートもしてくれそうにないんだよなぁ。ありさちゃん、気分転換に俺とどっか遊びに行こうよ」
「絶対に嫌です」
「うわー、ありさちゃん、俺には冷たくない?」
新條の戯言を無視すると、ありさはレジに入っているお金を数え始める。奥から体格の良いふっくらとした神田が、不服そうな顔でハヤシライスを片手に出てきた。
「新條君、まだお客さんは居るんだぞ。私語は慎めよ。渡辺さんも嫌がっているだろう?」
神田は今年二十五を迎える、所謂フリーアルバイターだった。どうしてなのか、エプロンがいつも右にずれている。
「はいはい、すみませんでした。神田さんはいつも厳しいっすね」
新條が毛嫌いそうに神田を避ける。そのまま奥の方に行ってしまった。
「あいつはもうちょっと真面目に仕事して欲しいんだけどなぁ。渡辺さんも、あいつがしつこいようだったら、厨房に来てくれて構わないから」
そう言って料理をカウンターに置くと、吉川が素早く駆け付けて提供に向かった。この喫茶店は奥に厨房があり、料理は主に店長と神田の二人で調理している。自分達新人はレジとドリンク、ホールが主な仕事内容だった。
「あいつ、ぜってーありさちゃんの事好きだぜ」
いつの間にか戻ってきた新條がこっそり耳打ちする。ありさは顔を赤くして新條から離れた。
「まさか。私より美波の方に気があるんじゃないんですか?」
成瀬美波。ありさの高校の友達で、同じクラスメイトでもあり、今はアルバイト仲間でもある。自分が喫茶店で働き始めたのを知り、美波もまたここで働き始めた。彼女は今日シフトに入っていないので休みだ。
「いやいや、美波ちゃんは恐らくなぁ――――」
「お疲れ様でーす!」
噂をすれば何とやら。美波が学校のセーラー服姿で元気よく入口のドアから入ってきた。思わず新條と顔を見合わせる。
「美波、あんた今日休みじゃない」
「まぁまぁ、今日はお客さんとして来ただけだから。あ、アイスティー頂戴!」
新條にも聞こえるように大きな声で叫ぶ。ありさが素早く勘定を済ませると、美波が二つに分けた髪を揺らしながら訪ねてきた。
「ねぇ、ありさは今日何時まで?」
「ラストまでよ。あんた、また閉店までここに居るつもり?」
美波はシフトの入っていない日までわざわざこの店に出向き、閉店近くまで勉強している事があった。その回数は最近増えている気がする。
「駄目?」
「混んでないからいいけど……あんた、よっぽどこのお店が好きなのね」
美波が嬉しそうに口元を緩めながら、新條からアイスティーを受け取る。そしていつもの定位置なのか、レジ前の席を陣取ると参考書を開き始めた。彼女は家で勉強出来ないタイプなのだろう。それにしてもわざわざ休みの日までバイト先に出向いて、勉強するとは如何なものだろうか。ありさはよくやるわねと半ば呆れた様子で見守った。