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「兄の好物は作らないでください」婚約者の妹は、私より先に兄を見限っていた

掲載日:2026/07/17

「リディア様。兄の好物は、作らないでください」


婚約者の屋敷へ手作りの胡桃(くるみ)のタルトを持参した私に、エステルはそう言った。


彼女は侯爵家の嫡男である婚約者アルノーの妹で、今年十五歳になる。淡い金髪をきっちりと結い上げ、年齢に似合わない険しい顔で、私の抱えた菓子箱を見ていた。


「アルノー様は、胡桃(くるみ)の菓子がお好きだと伺ったのだけれど」


「好きです」


「では、なぜ?」


「兄には専属の料理人がいますから」


答えになっていない。


けれど、来年には義妹になる少女である。

エステルは母親を早くに亡くし、兄と二人で過ごす時間が長かったという。兄を取られるようで寂しいのかもしれない。


私も十五歳の頃には、今よりずっと扱いにくい娘だった。


「皆さんで召し上がってくださればいいわ」


私は菓子箱を差し出した。

エステルは受け取らなかった。


「持って帰ってください。兄には渡さないで」


拒絶というより、命令だった。

さすがに腹が立ったが、私は表面上は笑顔を崩さず菓子箱を抱え直した。


帰りの馬車の中、砂糖をまぶした胡桃(くるみ)が、箱の中でころころと転がっていた。



そのまま実家である伯爵家の屋敷に戻る気にはなれず、私は領地の女学校へ寄った。母が開いていた読み書き教室から始まった学校である。


今では生徒が三十人を越え、机が入口近くまで並び、扉を半分しか開けられない。年下の子どもは長椅子へ三人で座り、遅れてきた者は窓辺に立って授業を聞いていた。


今後も授業を続けるなら、そろそろ別の建物が必要だった。


「リディア」


声をかけてきたのは、ルシアンだった。

分家の騎士爵家に生まれ、今は伯爵領北部を預かる代官を務めている。幼い頃からの幼なじみで、親族の目がないところでは互いに気安く話す仲だった。そして暇があれば女学校の手伝いをしてくれていた。主に力仕事の。


濃い茶色の髪には木屑がつき、上着の袖を肘までまくっていた。学校の裏にある古い穀物倉庫を、大工と一緒に調べていたらしい。


「婚約者の屋敷へ行ったんじゃなかったのか」


「行ってきたわ」


「その箱は?」


ルシアンの視線が、私の抱えた菓子箱へ落ちる。


胡桃(くるみ)のタルトよ」


「持って帰るなら、生徒たちに出せば喜ぶ」


「アルノー様のために作った物なの」


「なら、勝手に食べるわけにはいかないな」


ルシアンはそれ以上聞かなかった。


倉庫の扉を開け、中を見せる。古い麻袋の匂いが残っていた。壁には雨染みがあり、床板はところどころ軋んでいる。


「壁を一枚抜けば、今の教室より広くなる」


「屋根も直さないといけないわね」


雨樋(あまどい)もだ。裏側が腐っている」


「費用は?」


「全体を調べてから見積もりを出す」


ルシアンが広げた図面には、壁一面に低い本棚が描かれていた。


「この棚」


「前に言っていただろう。小さい子が自分で本を取れる高さがいいと」


言ったのは、半年も前だった。


「覚えていたの?」


「必要な話だったからな」


ルシアンは図面の端を押さえた。


「君が婚礼後も学校に関わることは、伯爵様からお伺いしている。使う者の意見を図面に入れるのは当然だろう」


「私が頻繁に来られなくなっても?」


「低い棚を使うのは君ではなく、子どもたちだ」


ルシアンはそれだけ言うと、図面を畳み、雨樋の確認へ戻っていった。


結局その日、胡桃(くるみ)のタルトは生徒たちへ分けた。一番小さな子は、皿に残った胡桃(くるみ)の粉まで指で集めた。その姿に上の子たちが笑い、つられて私も笑った。


ただし、笑えたのはその子を見ている間だけだった。

空になった菓子箱を閉じると、エステルの声がまた耳に戻ってきた。


兄には渡さないで。



エステルの難癖は、それだけでは終わらなかった。

アルノーの誕生日に、銀の留め具がついた上等な革手袋を贈ろうとすれば、


「高価な贈り物はやめてください。兄は物を大切にしません」


婚礼後に使う本を屋敷へ運ぼうとすれば、


「ここへ置かないで」


仕立屋を呼び、花嫁衣装の生地を選んでいると、横から見本帳を閉じられた。


「注文は、まだ早いと思います」


婚礼まで、あと二か月だった。


早いはずがない。仕立屋からは、これ以上遅れると刺繍が間に合わないと言われている。

私はとうとう、アルノー本人に相談した。


「エステル様は、私との結婚を望んでいらっしゃらないのではありませんか?」


アルノーは笑った。整った顔立ちに浮かぶ、柔らかな笑みだった。


「気にしなくていい。あれは昔から気難しい子なんだ」


「ですが、婚礼の準備を止めようとなさいます」


「兄を取られるのが寂しいんだろう」


「そうでしょうか」


「リディアは真面目すぎるよ」


アルノーは、なだめるように私の手へ触れた。


「結婚すれば、あの子も君の優しさを理解する。時間をかけて家族になればいい」


時間をかけて家族になる。その言葉は正しいように聞こえた。けれど、私の胸に引っかかっていたのは、エステルの態度だけではない。


「もう一つ、伺ってもよろしいでしょうか」


「何だい?」


「ヴァレール侯爵家には、返済を急いでいる借財がありますか?」


アルノーの指が、私の手から離れた。


ほんの一瞬だったが、見間違いではなかった。


「なぜ、そんなことを聞く?」


「エステル様が高価な物を持ち込むなと繰り返すので、気になったのです」


「妹の嫌がらせを、家の信用問題にまで広げるのか」


「そのつもりはありません。ただ、婚姻を結ぶ以上、確認しておきたいのです」


私の持参金は少なくない。


さらにそれとは別に、母から相続した(あんず)の果樹園があった。


女学校そのものは伯爵家の事業だが、教材や薪、教師への手当の一部は、果樹園から得られる収益を私が寄付して賄っている。


果樹園は私個人の財産であり、婚姻後も所有権を手放さない。そのことは、婚約を取り決めた時からアルノーへ伝えていた。


彼は不快そうに眉を寄せた。


「借財などない」


「本当に?」


「僕は君の持参金にも、果樹園にも頼らない」


私が果樹園について尋ねる前に、彼がその名を口にしたことに不自然さは覚えたもののその日は、それ以上聞けなかった。


帰りの馬車で、私は何度も「頼らない」という言葉を思い返した。


直接尋ねた。アルノーも答えた。

これ以上疑うのは流石に失礼だ。


ただそう考えるたび、なぜかエステルの険しい顔が浮かんだ。



婚礼まで一か月となった日、エステルから手紙が届いた。


便箋には、たった二行。


――明日の午後、私の部屋へ来てください。


――兄には知らせないで。


最後の文字だけが、大きく右上がりになっていた。

翌日、私は侍女を一人だけ連れ、ヴァレール侯爵家の屋敷へ向かった。


エステルの部屋は屋敷の北端にあった。窓が小さく、昼間でも薄暗い。暖炉の上には、アルノーとよく似た女性の肖像画が飾られている。


おそらく、早くに亡くなった母親だろう。


エステルは私を迎えると、廊下を確かめてから扉へ鍵をかけた。


「まず、謝ります」


「何を?」


「あなたに嫌われるような言い方をしました」


「嫌われるような、ということは、わざとだったの?」


「半分は」


「残りの半分は?」


「……本当に腹が立っていました」


謝罪になっていない。けれどエステルの顔は、いつものように険しいまま、ひどく青ざめていた。


机の上には、黒い木箱が置かれている。

彼女は小さな鍵を取り出し、錠を開けた。


最初に出てきたのは、質屋の預かり証だった。

品物の欄には、銀細工の懐中時計と記されていた。


蓋に葡萄の蔓をあしらい、鎖には小さな青い石がついている。以前、アルノーが身につけているのを見たことがあった。


「この時計は?」


「王都の織物商の娘から贈られたものです」


「親しくしていた方なの?」


エステルは少し迷ってから答えた。


「兄は、あなたとの婚約は家同士が決めたものにすぎないと話していたそうです。結婚しても、その方との関係は変わらないと」


私との婚約が決まったあとも、二人は会い続けていたという。


「それを質に入れたの?」


「はい。お金が必要になると、兄は人からもらった物から先に手放します」


エステルは、もう一枚の紙を差し出した。


債権者へ提出された返済計画書の写しだった。借り入れの理由は、競馬と会員制遊技場。


金額を見て、息が止まりそうになる。


私の持参金をすべて差し出したとしても、すぐには返しきれない額だった。

返済計画の欄には、アルノー自身の署名で、こう記されていた。


――婚姻後、妻に持参金の一部を家計へ拠出させ、返済に充てる。


――妻が所有する果樹園については、学校への支出を縮小させ、その収益を返済に回す。


私は二行目を読み返した。


「果樹園の収益は、女学校の運営にも充てているんですが……」


「知っています」


エステルが言った。


「兄は、結婚してしまえば、あなたも夫の言うことには逆らえないと思っています」


紙の下部には、アルノーの筆跡で短い覚え書きが残されていた。


――妻は学校運営から段階的に退かせる予定。


その一文を見て、怒りが沸々と込み上げてきた。


あの学校は、私が気まぐれに始めたものではない。

母は冬になると自ら村を回り、少女たちを学校へ連れてきた。


娘に文字を教えても家の仕事には役立たないと反対する親を説得し、通学できない子どもには靴を贈り、暖炉の薪まで用意していた。母の外套は、村から帰ったあとはいつも泥で裾が汚れていた。


果樹園も、母が実家から受け継いだものだった。収穫した(あんず)を売り、その金を少しずつ教室へ回していた。


私は書類を持ったまま、自分の膝を見た。

あの泥のついた外套も、教室の冷えた床も知らない男が、母の果樹園と私の仕事の使い道を決めていた。


「これは、どこで見つけたの?」


「兄の机です。原本は債権者が持っています」


「勝手に部屋へ入ったのね」


「……はい」


エステルは目をそらさなかった。


「褒められたことではないと分かっています。でも、証拠がなければ誰も信じません」


「なぜ、もっと早く教えてくれなかったの?」


責めるつもりはなかった。それでも声には、責める響きが混じったかもしれない。


「最初は証拠がなかったからです」


エステルは唇を噛んだ。


「私が、兄は借金をしていると言えば、あなたは兄へ確かめたでしょう?」


何も言えなかった。


「兄は笑って否定します。私が嫉妬して嘘をついたと言うでしょう。そのあとで私の部屋を調べます」


「以前にも、誰かへ警告したことがあるの?」


「時計を贈った商家の女性へ手紙を書きました」


エステルの手が、膝の上で強く握られる。


「その方は、私の手紙を兄へ見せました。私はそのあと、一か月ほど部屋から出してもらえませんでした」


だから彼女は、誰かへ話す前に証拠を集めた。


「料理を作るなと言ったのは?」


「以前、別の令嬢からもらった菓子を、兄は歌劇場の女性へ持っていきました。自分で選んだ物のような顔をして」


エステルはそこで口を閉じた。


「正直なところ、兄の好物を作るあなたを見るのが嫌でした」


エステルが言った。


「高価な時計を選ぶあなたも、学校の本を運ぶあなたも」


「私に腹を立てていたから?」


「少しは」


予想していなかった答えに、私は黙った。


「何も知らずに兄へ笑っているあなたを見ると、すごく腹が立った。止めたいのに、でも、本当のことは言えなくて……だから、意地の悪い言い方をしました」


エステルは机の端を見つめた。


「兄は、もらった物を大切な贈り物だと思わない。次に使える物だと思うの。売るか、誰かへ持っていくか」


そこで一度、声が途切れた。


「あなたまで、そうされるのが嫌だった」


「私を守ろうとしたの?」


エステルは答えなかった。

尖った言葉とは反対に、机の縁を押さえる指が震えている。


私は、彼女を兄を取られたくないだけの少女だと決めつけていた。


謝るべきなのだろう。


けれど今ここで謝れば、許すかどうかまで彼女へ選ばせることになる気がして、言葉が出なかった。


「あなたが教えてくれたことには、感謝しているわ。でも、あなたはアルノー様の妹でしょう。こんなことをして、本当に後悔しないの?」


エステルはわずかに顎を上げた。


「兄妹ではあります。でも、兄と私を一緒にしないでください」


少し間を置いて、続ける。


「兄が嘘をつくたびに、傷つくのは信じた方ばかりです」


机の縁を押さえる指に、力がこもった。


「もう、見ているだけなのは嫌なの」


「でも、私が婚約を解消したら、あなたはどうなるの? あなたを置いて、私だけ逃げろと言うの?」


「私のことは関係ありません」


「関係があるわ」


「ありません」


「あなたは前にも、時計を贈った方を助けようとしたのでしょう」


エステルは答えなかった。


「今回も、私のために証拠を集めたくれた。そこまでしておいて、自分だけはどうなってもいいなんて言わないで」


エステルの視線が、わずかに揺れた。


「……助けられなかったからです」


「え?」


「前の方へは手紙を書きました。でも、兄に見つかって終わりました。証拠を見つけても、誰へ持っていけばいいのか分からなかった」


エステルは唇を噛んだ。


「正しいことをしたつもりでも、やり方を知らなければ、誰も守れない」


その言葉のあと、彼女の視線が木箱の底へ落ちた。


そこには、一冊の案内書が入っていた。

王都女子学院の入学案内だった。法学科の頁に何度も開いた跡がつき、学費と寮費を計算した紙片が挟まっている。


私の視線に気づいたエステルは、慌てて案内書を箱から取り出し、胸元へ抱えた。


「これは見せるつもりではありませんでした……」


「ごめんなさい。目に入ってしまったの」


「……隠していたわけではありませんけど」


「法学を学びたいのね」


エステルはしばらく黙っていた。


「もし次に同じような人を見つけた時は、証拠を集めるだけで終わりたくないから」


案内書を取り出した拍子に、法学科の頁の端が折れていた。エステルは指先で折れ目をなぞった。何度直しても、紙は元には戻らなかった。


「返済計画書を預けてくれる?」


「兄へ突きつけるのですか」


「一度、本人へ尋ねました」


私は書類を畳んだ。


「借財はない。持参金にも果樹園にも頼らないと、アルノー様は答えました」


「では、どうするんですか?」


「婚姻契約の最終確認は十日後です。その場で決着をつけます」


立ち上がると、少しだけ膝が震えた。エステルには気づかれたかもしれない。けれど彼女は何も言わなかった。



屋敷を出た私は、その足で領地へ戻った。


ルシアンは、代官執務室にいた。机の上には、新校舎の図面と、大工へ支払う費用の見積もりが広げられている。


「相談したいことがあるの」


私が差し出した返済計画書を、ルシアンは黙って読んだ。普段ほとんど変わらない表情が、少しずつ険しくなる。


「原本は債権者が持っているそうよ」


「分かった。王都へ行く」


「それから、もう一つ」


「何だ」


「婚約をどうするかは、私が決めるわ」


ルシアンは顔を上げた。


「当然だ」


「私が、このまま婚約を続けると言っても?」


彼は眉を寄せた。


「俺にやめさせる権利はない。ただ、一度は止める」


「一度だけ?」


「二度目は、君ではなく伯爵と法務官に話すさ。君のためにならないとね。とりあえず確認した内容も、こちらから渡しておく」


ルシアンは返済計画書を封筒へ戻した。


「これは預かる」


「お願い」



婚姻財産の最終確認日。


アルノーは、何も知らない顔で現れた。淡い灰色の礼装に、新しい銀の飾り針をつけている。席についたのは、私とアルノー、両家の当主、そして双方の法務官だった。


アルヴァン伯爵家の法務官が追加条項を読み上げた。


「婚姻前に負った債務は、借り入れを行った本人とその家が負担するものとします。また、リディア嬢が母君より相続した果樹園と、その収益に関する管理権は、婚姻後もリディア嬢本人に属します」


アルノーの表情から、笑みが消えた。


「その条項は必要ない」


「借財がないのでしたら、署名しても困らないはずです」


「婚姻とは家同士の結びつきだ。夫の家が困れば、妻が支えるのは当然だろう」


「困難があることを、今日まで隠していなければ、その理屈も聞けました」


私は返済計画書の写しを取り出した。アルノーの顔色が変わる。


アルヴァン伯爵家の法務官が返済計画書を受け取った。


「こちらの原本は、すでに債権者の保管庫で確認済みです。アルノー殿の署名についても、これまでに本人が署名した契約書と照合しています」


「誰がこれを持ち出した?」


アルノーが低い声で尋ねた。

借金を否定する言葉ではなかった。


「エステルか。あの子が僕の部屋を漁ったんだな」


扉が開いた。

別室で待っていたエステルが入ってくる。

顔は青ざめていたが、足取りは止まらない。


「私です」


「家族を裏切る気か」


「私が黙っていれば、あなたはリディア様を騙してよかったの?」


「借金については、結婚後に説明するつもりだった」


アルノーは私へ向き直った。


「家の立て直しに使うだけだ。夫婦なら支え合って当然だろう」


「そもそも家のではなく兄様の借金でしょう。そして果樹園から学校へ出しているお金を止めることも、夫婦の支え合いに入るの?」


「妻の財産について夫が意見を言うのは当然だ」


アルノーが、法務官の手元にある返済計画書へ手を伸ばした。


エステルが一歩、前へ出る。

私は席を離れ、彼女の隣に立った。


「リディア」


アルノーが眉を寄せた。


「妹に何を吹き込まれたか知らないが、冷静になれ」


「エステル様に聞く前に、私はあなたへ直接尋ねました」


「だから、君を不安にさせたくなくて――」


「借財はないと、あなたは答えました」


アルヴァン伯爵家の法務官が返済計画書と婚姻契約を見比べた。


「婚姻生活へ重大な影響を与える債務を故意に秘匿し、相手方の持参金と相続財産の収益を、本人の承諾なく返済原資として示しています。アルヴァン家側から婚約を解消する理由としては十分です」


アルノーは法務官ではなく、エステルを睨んだ。


「妹の話を信じて、僕を捨てるのか」


「いいえ」


私はエステルの隣から動かなかった。


「あなたが私に嘘をついたことと、あなた自身が署名した返済計画を見て、結婚しないと決めたのです」


婚約は、その場で解消と決まった。


法務官たちが書面を整え始めると、ヴァレール侯爵がエステルへ言い渡した。


「家族を売った娘を、これまでどおり屋敷へ置くことはできん。遠縁の修道院へ送る」


エステルの顔から血の気が引いた。

ヴァレール侯爵家の法務官が、慌てた様子で侯爵に駆け寄る。


「他家の前で今回の債務秘匿を明らかにしたエステル様を、直後に遠方の修道院へ送れば、口封じを疑われかねません」


侯爵の眉間に深い皺が寄る。


「私の娘だ。どこへ置こうと、我が家の問題だろう」


「婚約解消に関わる証言者でもあります。少なくとも、事実関係の確認と債権者との協議が終わるまでは、本人の安全が確認できる場所へ移すべきでしょう」


エステルは何も言わなかった。

膝の上で握った手だけが、わずかに震えている。


「彼女は法学を学びたいと聞いています」


私が言うと、侯爵は鼻で笑った。


「女が学んで何になる」


その言葉を聞いた父の表情が変わった。

亡き母も、村を回るたびに同じ言葉を各家庭で聞いていたと話していた。


「では、我が家で預かろう」


父が言った。


「アルヴァン領の女学校へ通わせる。生活と学びについては、私が責任を持つ」


侯爵は父を見たあとため息をつき、そしてエステルへ目を向けた。


「それでよいのか」


初めて、エステル本人へ尋ねた。

エステルは膝の上の手をほどき、顔を上げた。


「はい!」


短い返事だった。

けれど、その声は震えていなかった。


「好きにしろ」


侯爵は諦めるように言った。

そして、今度はアルノーを睨みつけた。


「家の恥をさらしたのだ。覚悟しておけ」


アルノーは血の気を失い、うつむいた。



婚約解消から三日後、アルノーが所有していた競走馬は、債権者へ引き渡された。王都郊外の厩舎から別の預託先へ移されたのだと、父から聞いた。


借財の秘匿と、婚約者の持参金や相続財産を返済原資として示したことが親族にも知られ、アルノーは侯爵家の後継者としての権限を全て止められたらしい。


ただ、アルノーがその後どうなったのか、詳しく聞くことはしなかった。

正直なところ、彼が何を失うかより新校舎の雨漏りをどうするかの方が先だった。


同じ週の終わり、両家の法務官を通して、エステルをアルヴァン伯爵家で預かるための書面が交わされた。


エステルは身の回りの荷物とともに、アルヴァン伯爵家へ移ってきた。応接室で、彼女は折れ目のついた学院案内を膝に抱えていた。


「まずは領地の女学校で学んで、来年、王都女子学院を受けるといいわ」


「王都女子学院の学費はどうするのですか。父から援助があるとは思えません」


「うちの女学校には、領内外からの寄付で運営している奨学制度があるの。成績や学ぶ意欲を認められれば、進学後の学費を借りられるわ」


エステルは少し考えた。


「ちなみに伯爵家に預けられた私でも、奨学金の選考に落ちることはあるんですか?」


「もちろんよ。私やお父様の判断だけで通すことはできないもの」


エステルは案内書へ目を落とした。


「それならやりがいがありますね!」



春。


エステルがアルヴァン領へ移って一月後、古い穀物倉庫を改装した新校舎が完成した。


開校初日、私は入口で新入生たちを迎えていた。


三十人分用意した机では足りず、朝から追加の長椅子が運び込まれていた。


エステルは少し大きめの制服を着て、入学手続きの受付を手伝っていた。


書類の書き方が分からず困っている母親に、記入する欄を一つずつ指し示している。少し緊張した険しい顔だったが、説明は丁寧だった。


初めは気圧されていた母親も、話が終わる頃には、ほっとした顔で何度も頭を下げていた。


「エステル姉様、次はこちらを教えてください」


年下の少女が呼ぶ。領地へ来てまだ一月だというのに、エステルはすでに女学校の生徒たちから姉様と呼ばれていた。そしてエステルも


「リディア姉様」


受付を終えたエステルが戻ってきた。


「代官様、さっきから厨房の方を気にしていますよ」


「何か用事があるのかしら」


「姉様にでしょう」


「私に?」


エステルは呆れたように私を見た。


「もういいです」


その日の午後、私は厨房で(あんず)のタルトを焼いていた。開校を手伝ってくれた者たちへ出すためだ。


(あんず)は、母から受け継いだ果樹園で採れたものだった。

エステルが焼き上がったタルトをのぞき込む。


「珍しいわね」


「何が?」


「姉様が、誰かの好物を作るなんて」


「以前から作るわ」


「兄のために作った胡桃(くるみ)のタルト以来、やめたと思っていました」


あの日のことを、二人で口にするのは初めてだった。


「作ることが嫌になったわけではないの。ただ、誰かの好物を聞いて作るのは、しばらく避けていたのよ」


エステルは杏の艶を確かめるように、タルトを見つめた。


(あんず)は、代官様の好物ね」


「どうして知っているの?」


「本人に聞きました」


「なぜ?」


「必要だったからです」


「何が?」


エステルは答えず、厨房の戸口を見た。小さな咳払いが聞こえた。


振り向くと、ルシアンが立っている。

普段より耳が赤かった。


「先ほどから何度も来ていたの?」


「二度だ」


「三度です」


エステルが訂正する。


「一度目は窓の外から見ていました」


「エステル」


「私は姉様の味方です」


「それは知っている」


「では、早く要件を」


エステルが私の隣を離れる。

ルシアンはしばらく黙っていたが、やがて私を見た。


「今度の休息日、湖へ行かないか」


「学校の視察?」


「仕事ではなく」


「父も一緒に?」


「二人で行きたい」


後ろで、エステルが小さく頷いていた。

どうやら、答えは一つしか認めないらしい。


「……お昼は、何がいい?」


「それは承諾と考えていいのか」


「嫌なら作らないけれど」


(あんず)のタルトがいい」


ルシアンは、厨房に満ちた甘い香りを吸い込んだ。

エステルが私の袖を引いた。


「今度は持って帰らなくていいわ」


「そうね」


「あの人はきっとリディア姉様の好意を別の女性へ渡したり、質屋へ持っていったりしないもの」


今度の休息日に行った湖では杏のタルトは一切れも持ち帰らずに済んだ。

最後まで読んでくださり、ありがとうございます!


今回は、意地悪な小姑に見えた妹が、実は誰より早く兄を見限っていたお話でした。


エステルは言い方こそかなり不器用ですが、これからは法学を学びながら、困っている人を放っておけない性格を存分に発揮していくと思います。


そしてリディアも、今度こそ作ったタルトをきちんと喜んでくれる相手と出会えました。


少しでも面白かった、エステルを応援したくなった、最後にほっとしたと思っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。


ほかにも異世界恋愛の短編を投稿していますので、よろしければそちらもぜひ。

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― 新着の感想 ―
面白かったです アルノーだけじゃなく侯爵もだいぶクズ・・・ エステルさんがまっすぐ育ったのが逆にすごいなと感じました
義妹になれないのが残念なくらいの良い妹。
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