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断罪された聖女は魔物の主だった ~『偽物』と笑った王太子よ、貴方が捨てたその女は、今日から魔王の妻になります~  作者: 氷室 翠


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第5話「生贄の聖女は魔王の腕で微睡む ~さよなら、私を忘れた愚かな人たち~」

ついに最終話です。

生贄として捨てられた彼女が、最後に手にする幸福の形を、ぜひ最後まで見届けてください。

断罪された聖女は魔物の主だった

第5話「生贄の聖女は魔王の腕で微睡む ~さよなら、私を忘れた愚かな人たち~」


 咆哮が、夜を引き裂いた。


 異形は巨大だった。城壁を超える高さに、名前を持たない闇の肉体。深淵の鐘が世界の底から引き摺り上げたそれは、踏み出す一歩ごとに大地を陥没させ、息吹くたびに周囲の草木を枯らした。


 その背に、クロヴィスがいた。


 もはや王太子の面影はない。鐘の代償として、左腕の皮膚がずるりと剥がれ落ちている。顔の半分が呪痕で黒く染まり、声帯まで侵されているのか、叫び声が獣じみている。


「レイラアアアッ!」


 魔王城の境界で、彼は異形の背から怒鳴った。


「出てこい!呪いを止めろ!お前の力で、これを何とかしろ!お前の義務だろう、聖女の義務だろう!俺を助けろ、死にたくない、死にたくないんだッ――!」


 声が、哀れなほど震えていた。


 怒りではない。恐怖だった。命を差し出して呼び出したものに、自分が飲み込まれる恐怖。王族として積み上げた矜持など、とうに剥がれ落ちていた。残ったのは、ただ、生にしがみつく一人の弱い人間だけだった。


 城の扉が、静かに開いた。


-----


 二人が境界に立った。


 レイラは、乱れていなかった。


 深紅のドレス。首元に揺れる紅玉。そして背中の紋章から滲む、紫紺と黄金の光が、今は服の上からでも透けて見えるほどに強く輝いていた。


 クロヴィスが、その姿を見て、一瞬言葉を失った。


 三年間、王宮に仕えていた女とは別の存在が、そこに立っていた。


「レイラ、頼む――」


「静かに」


 レイラの声が、静かに遮った。


 彼女は異形を見上げた。深淵から引き摺り出された名もなき存在。呪いの塊。誰もが目を逸らすその異形の目を、レイラはまっすぐに見た。


 右手を、ゆっくりと持ち上げた。


 異形が、動きを止めた。


 クロヴィスが「何を」と叫ぼうとした、その前に。巨大な体が、音もなく揺れた。一歩、また一歩と後退り、そして――地に伏した。


 城壁より高い異形が、レイラの足元に額をつけた。


 騎士団の残骸が、遠くで悲鳴を上げた。クロヴィスが異形の背の上で腰を抜かし、しがみついている。


 レイラは、ゆっくりと異形に近づいた。


 伸ばした手が、闇の肉体に触れた。撫でる、と呼ぶには大きすぎる体。しかしレイラの指先は迷わなかった。三年間、聖域の魔物たちに触れてきた手が、自然に、その存在の「恐怖」を解きほぐしてゆく。


 異形が、低く、静かに鳴いた。


 子どものような声だった。


「……よく来てくれた」


 レイラは呟いた。「少しだけ、待っていて」


 それからクロヴィスを見上げた。


 かつては視線を向けてもらえなかった顔が、今、こちらを見て泣いている。涙と血と呪痕が混ざった、見るも無残な顔が。


「あなたが呼び出したこの子は」


 レイラは言った。


「今、私の声しか聞こえていません」


 クロヴィスが震えた。


「お前……何をした、お前は一体――」


「何も。ただ、聞こえていたんです。ずっと前から」


 レイラは、静かに続けた。感情のない声ではなかった。ただ、遠かった。もう届かない場所から語るような声が。


「あなたが望んだ強い聖女は、最初からここにいましたよ、クロヴィス殿下」


 一拍。


「さようなら」


 クロヴィスが叫ぼうとした。


 しかしヴェインが一歩前に出て、異形を見た。命令は、短かった。


「その男を、彼が愛した王都へ送り届けてやれ」


 深紅の目が、一度だけクロヴィスの上を滑り、それきり興味を失った。


「二度と、ここへは戻すな」


 異形が立ち上がった。クロヴィスが絶叫した。その声は遠ざかり、夜の闇に飲み込まれてゆく。遠く、王都の方角の赤い空へ向かって。


 レイラはその背中を、見届けなかった。


 もう、必要がなかった。


-----


 城の最上階は、星に近かった。


 螺旋階段を上り切った先、開け放たれた扉の向こうに、丸い展望台があった。手すりの向こうに夜の大陸が広がり、遠く、王都の火がゆっくりと小さくなってゆく。


 燃え尽きてゆく。静かに、灰へと。


 ヴェインがレイラの前に立った。


 手に、小さなものを持っていた。指輪だった。台座に嵌まった魔石が、血のように赤い。しかしよく見れば、その石の内側に、小さな光が生きていた。規則正しく、脈打つように。


「これは」


「俺の心臓だ」


 ヴェインが言った。


「正確には、心臓の一部を石に封じたものだ。君を離さないための鎖であり、君が呼べばどこからでも駆けつけるための道標でもある」


 レイラは石を見つめた。確かに、光が脈打っている。ヴェインの胸の鼓動と、同じ間隔で。


「君も、俺を離さない」


 男の声が、確認と命令の間で言った。


「いいね?」


 レイラは答えの代わりに、左手を差し出した。


 ヴェインの指が、震えずにいようとして、微かに震えながら、指輪をはめた。


 魔石の光が、一段、強くなった。


 レイラはヴェインを見上げた。十年間、彼女一人のために待ち続けた男が、今、何かすべてを諦めたような、穏やかな顔をしていた。


 勝者の顔ではなかった。


 ようやく、家に帰ってきた者の顔だった。


「ヴェイン」


「何だ」


「お待たせしました」


 ヴェインが、目を細めた。


 レイラは背伸びをして、その唇に自分の唇を重ねた。短い、しかし確かな口づけ。


 男の腕が、背中に回った。十年分の重さが、そっと、レイラを包んだ。


「……私の、大好きな魔王様」


 耳元で囁いたレイラの声に、ヴェインは少しだけ笑った。普段の無表情が崩れた、不器用な笑い方で。


「君は俺を殺す気か」


「まさか。永遠に生きていてもらわないと困ります」


「同じことだ」


 二人の背後で、遠く、王都の灯が一つ、また一つと消えていった。


 終わってゆく。長い歳月をかけて積み上げられた王国が、静かに、音もなく。


 しかしここには、今、始まったばかりの何かがあった。


 花の咲く庭。ラベンダーの香り。魔物たちが女王と慕う城。そして、世界の果てでも届く、一つの鼓動。


 レイラはヴェインの胸に顔を埋めた。


 指輪の魔石が、心臓に寄り添うように温かかった。


 背中の紋章が、夜の中で静かに輝いていた。


 聖女の印は、もうそこにない。


 あるのは、この世で唯一の、魔王の伴侶の刻印だけだった。


-----


 王国は、やがて歴史の中に溶けた。


 魔王と魔王の妃が治める城では、今日も花が咲き、魔物たちが笑い、世界の外側から静かに時が流れてゆく。


 二つの鼓動が重なり合う限り、その蜜月が終わることはない。


              ――了――

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!


ついに、レイラを縛り付けていた偽りの聖女としての役目が終わり、彼女は本当の「自分の人生」を歩み始めました。

執着し続けた魔王ヴェインの愛が、彼女にとっての救いになれたのなら、作者としてこれほど嬉しいことはありません。


本編はここで幕を閉じますが、このあと【エピローグ:魔王城の春、そして永遠の続き】を投稿いたします。


激動の夜を乗り越えた二人が迎える、穏やかで、少しだけ不器用な甘い日常をぜひ見届けてください。


もし「この二人の結末が見られてよかった!」と思っていただけましたら、下の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援いただけると、エピローグを届ける筆にさらに力がこもります!

ブックマークをして、最後の更新を楽しみにお待ちください

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