第4話「書き換えられた紋章、そして遠く燃える王都の赤」
第4話。レイラの覚醒と、王国の断末魔の回です。
ヴェインの愛が、ついにレイラの「魂の色」まで変えてしまいます。
断罪された聖女は魔物の主だった
第4話「書き換えられた紋章、そして遠く燃える王都の赤」
熱が、部屋の空気を変えた。
暖炉もないのに温度が上がり、夜の空気が甘く重くなった。レイラはヴェインの胸に額を預けたまま、背中が焼けるような感覚に、声を上げられずにいた。
痛みではなかった。
むしろ――長い間、岩で塞いでいた泉が、ようやく解放されるような。
「レイラ」
ヴェインの声が、頭上から落ちてきた。
「背中を、見せてくれ」
レイラは無言でヴェインに背を向けた。ドレスの後ろ開きから、熱の発生源が露わになる。
静寂が落ちた。
ヴェインが、息を飲む気配があった。あの男が、初めて、平静を崩した音だった。
「……美しい」
掠れた声だった。
レイラには見えない。しかし分かった。三年間、薄い白で刻まれていた聖女の花弁が崩れ、代わりに広がってゆくものが。紫紺と黄金の線が皮膚の上を走り、茨が絡み、闇の底に咲く花の形を作ってゆく。かつての紋章より濃く、より深く、より複雑に。
ヴェインの指先が、その茨の一本を、辿った。
「ヴェイン――」
「黙っていてくれ」
静かな懇願だった。懇願、という言葉が似合わない男が、今は確かにそう言っている。
指先の後を、唇が追った。
レイラの肩が、震えた。
「十年間」
唇が、紋章の中心に触れたまま、言葉を落とす。
「この瞬間だけを夢見ていた。君がようやく光の側から降りてくる、この夜を」
ヴェインの腕が、後ろから回された。
「君はもう、清浄な世界の住人じゃない」
耳元に、息がかかる距離。
「俺と同じ、闇の底に根を張る存在だ。それでも――」
一拍、間があった。
「それでも君は、誰より美しい」
レイラの喉が鳴った。三年間、機能として扱われ続けた体が、初めて、誰かに「存在」として触れられている。
ヴェインの魔力が、紋章を通じて流れ込んできた。
それは浄化の力とは似て非なるものだった。浄化が「溶かす」力なら、これは「染める」力。世界に色を与えるような、濃密な何か。レイラの魔力の根が、深く深く書き換えられてゆく。
支配、と呼ぶには、温かすぎる力だった。
「……っ」
小さな声が漏れた。ヴェインの腕が、一層強く締まった。
「俺だけに、そういう顔をしてくれ」
理性を超えた声で、男は言った。
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翌朝。
執事が小さなノックと共に告げた内容を、ヴェインはレイラに隠さなかった。
「王都で暴動が起きた」
朝食の席で、静かに言う。
レイラはカップを置いた。「どの程度ですか」
「宮殿が民衆に囲まれている。エリス・アルヴェストを差し出せ、と」
レイラは何も言わなかった。
かつては、胸が痛んだかもしれない。しかし今、浮かぶのはただ一つの事実だ。エリスが望んだ地位には、エリスには担えない責任が伴っていた。それだけのことだった。
魔王城の通信水晶が、夕刻に光った。
映し出されたのは、クロヴィスの顔だった。左頬に呪痕が広がり、目の下が落ち窪んでいる。彼はレイラを見つけた瞬間、怒鳴るより先に、懇願の表情になった。
「レイラ。頼む、来てくれ。民が死にかけている。俺が悪かった、謝る、だから――」
「切れ」
ヴェインが言った。
しかし手を伸ばしたのは、レイラだった。
水晶に指が触れる。映像が、音もなく消えた。
クロヴィスの顔が、闇の中に溶けた。
レイラは手を引いた。指先が、少しも揺れていなかった。
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バルコニーに出たのは、夜が深まった頃だった。
遠く、王都の方角が赤い。
火事だ。一か所ではない。暴動が燃え移ったのか、あるいは誰かが意図して火をつけたのか。夜空の低いところに、赤と黒の煙が滲んでいた。
ヴェインが後ろに立ち、レイラの肩を包むように腕を回した。
「あの国が燃え尽きれば」
耳元に、静かな声が落ちる。
「君を縛るものは、何もなくなる」
レイラは、その炎を眺めた。
王都の街路を思い出した。朝霧の中、一人で歩いた石畳。どこへ行っても向けられた「お前など不要だ」という目。感情を殺すことを覚えたのがいつだったか、もう思い出せない。
エリスの笑い声が、遠くに聞こえた気がした。夜会での、あの勝ち誇った声が。
消えた。
「……ええ」
レイラは言った。
「とても、綺麗な火の色ですね」
自分の声が、驚くほど穏やかだった。慈悲が、どこにも存在しなかった。それを悲しいとも思わなかった。
ヴェインの腕が、きつくなった。
「俺のものになれ」
命令ではなく、確認のような声だった。
「もうなっていますよ」
レイラは炎から目を離さずに答えた。
ヴェインが、額をレイラの髪に押しつけた。それだけで、男が十年分の何かを吐き出そうとしているのが分かった。
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その時。
遠い王都から、音が届いた。
音、と呼ぶには低すぎる。振動と呼ぶには、耳に届きすぎる。腹の底を揺らす、深淵から引き摺り上げたような共鳴。
レイラの背中の紋章が、反応した。
ヴェインの腕が、一瞬、石のように固まった。
「……鐘だ」
男の声から、初めて、感情が消えた。
「クロヴィスめ、禁忌の――」
王都の中央、宮殿の尖塔から、黒い波紋が広がった。音の輪が夜空に刻まれ、それに応えるように、地の底から何かが湧き上がってくる。
影が、王宮を飲み込もうとしていた。
人型ではない。城壁より大きな、名前を持たない闇の塊。深淵の鐘が呼び起こした、この世のものではない存在が、赤い炎の中に黒々とそびえ立ちつつあった。
クロヴィスは、鳴らした。
自分の命を糧にする鐘を、絶望の末に。
――その選択が何を呼んだのか、そして何を終わらせるのか。魔王と魔王の妃は、夜空の彼方を見つめ続けた。
(第5話へ続く)
「とても、綺麗な火の色ですね」
聖女であることを辞めたレイラの言葉に、ゾクッとしていただけていれば本望です。
次回、いよいよ最終話。地獄のような断罪と、天国のような溺愛の結末をお届けします。
最高のハッピーエンドを準備しています。ブックマークを外さずにお待ちください!




