第3話「土下座する王太子と、私のために誂えられた黄金の檻」
第3話です。ここから一気に「ざまぁ」のカタルシスが加速します。
泥にまみれた元婚約者と、魔王の隣で美しく咲くレイラの対比を楽しんでいただければ嬉しいです。
断罪された聖女は魔物の主だった
第3話「土下座する王太子と、私のために誂えられた黄金の檻」
「レイラアアアアッ!」
叫び声が、森の境界に木霊した。
泥と血と、黒ずんだ呪痕に塗れたクロヴィス王太子が、馬から転げるように降りて、こちらへ向かって怒鳴っている。その後ろに続く騎士団は、かつての精鋭の面影もない。鎧は錆び、顔には深い隈。王都を発って三日、呪いに侵された空気の中を進んできた者たちの末路だった。
王都では今、かつて豊かだった街路樹が一本残らず枯れている。
広場の噴水が涸れた。家畜が相次いで斃れ、穀倉地帯の麦が根元から黒く腐った。そしてエリス・アルヴェストの――あの薔薇色の頬に、ひびのような黒い痣が広がり始めた時、クロヴィスはようやく理解した。
理解したくなかったことを。
「レイラ、聞こえているか! 出てこい! 聖女の義務を果たせ! お前がいなくなったせいで、王都が――国が、崩壊しかけているんだぞ!」
声が震えている。怒りか、恐怖か、もはや自分でも分からないのだろう。
森の境界の向こうは、静かだった。
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レイラはその声を、城の窓から聞いた。
ヴェインが傍らで、紅茶のカップを置いた。
「行くか?」
「……せっかくだから」
レイラは立ち上がった。「きちんと、終わりにしてきます」
ヴェインの唇が、微かに弧を描いた。
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境界に現れた二人を見た時、クロヴィスの顔が歪んだ。
レイラは変わっていた。憔悴した顔色ではなく、三日眠り続けたことで取り戻した透明な肌。簡素だが仕立ての良い黒いドレス。そして隣に寄り添う、漆黒の外套の男。
ヴェインがレイラの肩にさりげなく手を添えた。それだけで、背後の騎士団に重圧が走った。
最前列の騎士が、音もなく膝をついた。次いで、また一人。また一人。圧力に逆らえず、次々と崩れてゆく。魔力の行使ですらない。ただ存在しているだけの重さが、精鋭と呼ばれた騎士たちを地に伏せた。
クロヴィスだけが、足を踏ん張って立っていた。全身が小刻みに震えながら。
「レイラ、戻れ」
絞り出すような声だった。
「お前が来れば、すべてを不問にしてやる。婚約も、聖女の地位も、以前のまま戻してやる。だからもう一度、聖域を――」
「不問に?」
ヴェインの声が、森の空気を切った。
穏やかな声だった。表情も、笑みに近い。しかしその目の底に、クロヴィスは直視できないほどの何かを見た。
「君たちが生贄として捨てた女だ」
ヴェインが一歩、前に出る。
クロヴィスが、無意識に後退った。
「今は俺の妻であり、この城の心臓だ。返してほしければ」
深紅の瞳が、細くなった。
「その腐った首と引き換えにしろ」
沈黙が落ちた。
鳥の声も、風の音も、消えた気がした。クロヴィスの唇が震えている。言葉を探しているのか、怒りをこらえているのか。しかしその目に浮かぶのは、どちらでもなく――恐怖だった。
レイラはヴェインの隣で、静かにクロヴィスを見つめた。
かつては、この視線から目を逸らされるたびに、胸のどこかが痛んだ。今は何も痛まない。ただ、遠い。まるで何十年も前の記憶を眺めるように。
「殿下」
レイラは、穏やかに言った。
「私が三年間守っていたのは、あなたの国ではありませんでした」
「……何?」
「聖域の森に生きる命が、理不尽に滅びないように。それだけを考えていました。王都の民のために祈ったことは、一度もありません」
クロヴィスの顔が、蒼白から紅潮へ変わった。
「貴様……それは聖女として、どういう――」
「私は聖女ではなかったと、殿下ご自身がおっしゃいました」
レイラは微笑した。三年間、一度も見せなかった種類の、自分のための微笑を。
「だから、義務もありません。どうかお引き取りを」
クロヴィスが叫ぼうとした。しかしヴェインがほんの少し指を動かした、その刹那。
クロヴィスの足元の地面が、黒く変色した。呪いが境界を越えて、王太子本人の足首まで這い上がる。
騎士団の誰かが悲鳴を上げた。
「次に声を上げたら」
ヴェインの声は、相変わらず穏やかだった。
「声帯ごと消す」
クロヴィスは、初めて、黙った。
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城への帰り道、ヴェインはレイラの手を引きながら、一言だけ言った。
「よくやった」
たったそれだけなのに、レイラの胸の奥で、何かが小さく崩れた。
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自室へ戻ると、寝台の上に見慣れないものが置かれていた。
深紅のドレス。夜会服ではなく、庭を歩くための、軽やかな絹のもの。そして小さな箱。
「開けてくれ」
ヴェインが言った。
レイラが箱を開けると、大粒の紅玉が現れた。金細工に嵌まった首飾り。光の加減で深紅にも黒にも変わる石が、まるで生きているように揺れた。
「首を、貸してくれるか」
声が、いつもより低かった。
レイラは素直に、髪をよけた。
ヴェインの指先が、レイラの首筋に触れた。冷たく細い指が、金細工の留め具を扱いながら、微かに震えていた。
レイラは気づいた。あの男が震えている。十年間、何か国かの軍を単騎で退けたという男が。
「……緊張しているんですか」
「うるさい」
即答だった。レイラは笑いそうになるのを堪えた。
留め具が閉じられ、ルビーがレイラの鎖骨の上に収まった。ヴェインの手が、まだそこにある。石の温度を確かめるように。
「このルビーには、俺の魔力が込めてある」
囁きが、首の後ろに触れる距離から落ちてくる。
「俺以外の男の声は、届きにくくなる。俺の気配だけが、常に傍にある。……嫌か?」
普通は嫌だと言うべきなのだろう、とレイラは思った。
拘束だ。監視だ。異常な独占欲だ。
しかし。
三年間、誰の声も届かなかった。誰の気配も、自分に向けられていなかった。朝に一人で起き、夜に一人で眠り、誰かに「存在している」と認識されることなく、ただ機能として在り続けた。
その孤独が、今は遠い。
「……嫌では、ないです」
呟いた声が、思いのほか素直だった。ヴェインの手が、一度だけ、レイラの首筋に触れた。ためらいのない、しかし丁寧な温度で。
「十年待ったんだ」
声が、静かに続いた。
「もう一秒も、君の視界に俺以外の不純物を入れたくない。君が望むなら、世界を滅ぼしてでもこの城を君の箱庭にする。君一人が笑えるなら、それで十分だ」
レイラは、その言葉の重さを測ろうとして、やめた。
測れない。この男の愛は、定規が存在しない。
ただ、恐ろしくない。
それが一番、怖かった。
レイラはゆっくりと、ヴェインの胸に額を預けた。壊れ物を扱うように、腕が背中に回された。
その瞬間。
レイラの背中が、熱を持った。
服の上からでも分かるほどの、焼けつくような熱。三年間、薄く白かった聖女の紋章が――その形を、変えようとしていた。
花弁が崩れ、新しい線が引かれてゆく。
それはもはや、聖女の印ではなかった。
――彼女の背中で、世界が書き換わり始めていた。
(第4話へ続く)
「嫌では、ないです」……レイラが自分の心に気づき始めました。
そして書き換えられる紋章。物語はいよいよクライマックスへ。
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