表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
断罪された聖女は魔物の主だった ~『偽物』と笑った王太子よ、貴方が捨てたその女は、今日から魔王の妻になります~  作者: 氷室 翠


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/6

第2話「清浄の崩壊、そして君だけのために誂えた世界へ」

早くも多くのアクセス、ありがとうございます!

第2話は、ヒロインがいなくなった途端に崩壊し始める王宮と、魔王ヴェインの「10年分の執着」が動き出します。

断罪された聖女は魔物の主だった

第2話「清浄の崩壊、そして君だけのために誂えた世界へ」


 騎士たちが悲鳴を上げたのは、レイラが境界を越えてから、ほんの数秒後だった。


「な――なんだ、この臭いは!」


 一人が鼻を押さえ、もう一人が膝をついた。王都の方角から漂ってくる空気が、一瞬で変質していた。清浄で、どこか花に似た甘みを帯びていたあの空気が――まるで腐泥を引っ繰り返したような、重く湿った悪臭へと。


 闇の中で、二人の騎士は顔を見合わせた。


「……まさか」


 言葉が続かない。続けてしまえば、自分たちがしたことの意味を認めることになるから。


 彼らは聖域の境界から離れ、王都へ向かって全力で駆けた。背後では、金色の光が静かに揺れていた。


-----


 王宮の大礼拝堂は、今や異臭と混乱の渦中にあった。


「エリス様、もう一度お願いします!もう一度、祈りを!」


 神官たちが縋るように叫ぶ。白いローブを纏った新任聖女エリス・アルヴェストは、祭壇の前に跪いたまま、唇を必死に動かしていた。


 しかし呪いは退かない。


 退かないどころか、彼女の周囲から這い上がってきた黒い靄が、今まさに豪奢なドレスの裾を侵食し始めていた。繊細なレースが、目に見えて変色してゆく。乳白色から、腐った紫へ。


「やだ、やだやだ、取れないの、なんで取れないのっ――!」


 エリスが悲鳴を上げて立ち上がった。その瞬間、祭壇のガラス窓が一枚、理由もなく割れた。


 扉を蹴破るように入ってきたのは、クロヴィス王太子だった。顔色が蒼白を通り越して灰色になっている。


「エリス!何をしている、早く呪いを払え!」


「で、できないわ、私の魔力が、全然、効かなくて――!」


「できないはずがない!貴女は本物の聖女だと言っていたではないか!」


 クロヴィスの声が上擦っている。彼の手が微かに震えていた。


「これはきっと、レイラが何か仕掛けたのだ。あの女め、偽聖女のくせに呪術でも使って――そうだ、そうに違いない、全部あの女のせいだ!」


 神官の一人が、か細い声で呟いた。


「……殿下。もし、アルヴェスト様こそが本当に聖域の呪いを抑えていたとしたら」


「黙れ!」


 クロヴィスの怒号が礼拝堂に反響した。


 しかしその怒号より大きな音が、すぐ後に続いた。王宮の石壁に走るひび割れの音が。


-----


 森の中は、静かだった。


 男は馬から降り、レイラの前で、迷いなく膝をついた。


 魔王が。「死神」と恐れられ、単騎で国境を蹂躙すると噂される男が、夜の森の地面に、片膝をついている。


 レイラは息を忘れた。


 男の手が、外套の内側へ入った。そして取り出されたのは――ボロボロに擦り切れた、小さな赤いリボンだった。一度は鮮やかだったであろう赤が、長い年月で褪せ、何度も結び直したらしい跡が残っている。


「……それは」


「十年前」


 男が、低く言った。深紅の瞳が、揺れずにレイラを見つめている。


「魔物に囲まれて、死を待っていた俺に、一人の少女が手を差し伸べた。名前も告げずに傷を癒して、去り際にただ一つ、これを俺の手に握らせた」


 レイラの記憶が、遠い場所から浮かび上がった。


 十年前。まだ少女だった頃、家族と訪れた辺境の森。迷子になって深く踏み込んだ先で、満身創痍の少年が倒れていた。魔物に囲まれて、意識を失いかけていた少年。レイラはとっさに魔力を使って魔物を払い、傷に触れた。自分が「聖女の力がない」と言われていた力で。


 去り際、泣きそうな顔の少年が手首に巻いていたリボンが解けそうで、結び直してあげた。それだけだった。


「もう一度会えたら、名前を聞こうと思っていた」


 男がレイラの手を取り、リボンを握らせる。その手が、ほんの少しだけ、震えていた。


「十年間。一秒たりとも、忘れたことはなかった。君がこの国にいる間は、手が届かなかった。だから――君が、あの檻から出てくる日を、待っていた」


 男の唇が、レイラの指先に触れた。


 恭しく、しかし、絶対に逃がさないという意志を込めて。


「俺の名はヴェイン。隣国の、魔王と呼ばれている男だ」


 顔を上げた深紅の瞳に、炎のような熱がある。


「遅くなって、すまなかった。もう二度と、一人にはしない」


 レイラの喉が、小さく鳴った。三年間、ずっと眠らせていた何かが、胸の奥で、音を立てて目覚めようとしていた。


-----


 魔王城は、おかしかった。


 おかしい、というのは――レイラの想像とまったく異なっていたからだ。


 城門をくぐった瞬間、鼻をついたのは薔薇と白百合の香りだった。たいまつの代わりに青白い燐火が回廊を照らし、その光の中に、あり得ないほど美しい庭園が広がっていた。


 白い石畳。季節の混在した花々。そして中央に、一本の大きなラベンダーの木。


 レイラは足を止めた。


「……なぜ」


 声が掠れた。


 ラベンダーの木がある庭。それはレイラが八歳の頃、王宮の固い石造りの部屋の中で、ぽつりと独り言のように呟いた夢だった。誰にも言っていない。日記にも書いていない。ただ一度、聖域の魔物たちに話しかけるように、零した言葉。


「……覚えていてくれたのか」


 隣のヴェインが、微かに唇の端を上げた。


 その時、城の扉が大きく開いた。


 現れたのは、整然と並んだ城の者たちだった。人型の者も、そうでない者も、全員が深々と頭を垂れている。その先頭に立つ、白い礼服の老執事が声を上げた。


「女王陛下のご帰還を、心よりお待ち申し上げておりました!」


 次の瞬間、城全体が沸いた。


 窓から、廊下から、屋根の上から、城中の者たちが歓声を上げる。涙を流しているものさえいた。女王。その言葉が、嵐のように繰り返される。


 レイラは完全に言葉を失った。


 ヴェインが静かにレイラの体を横抱きに抱え上げ、城の中へ歩き始めた。


「下ろして」と言いかけたレイラに、彼は囁いた。


「今夜だけは、許してくれ」


 その声の、どこかに揺れがある。長い時間、ずっと堪えていたものが溶け出すような。


 最奥の扉が開いた。天蓋付きの寝台。月の光が差し込む大窓。柔らかな寝具の上に、ヴェインはレイラをそっと下ろした。


 そして膝をつき、正面からレイラの目を見た。


「もう二度と、君を一人で戦わせない。君を傷つけた有象無象は――」


 深紅の目が、一瞬、夜の底のように昏くなる。


「すべて、俺が塵にする」


 それは甘い言葉ではなかった。宣誓だった。


 レイラが何か言おうとした、その時。


 扉を激しく叩く音。飛び込んできた副官が、蒼白な顔で告げた。


「陛下。王国から早馬が。王宮で呪いが暴走し、制御不能な状態に。聖女が機能しておらず――助けを、求めております」


 部屋に沈黙が落ちた。


 ヴェインはレイラから視線を外さないまま、副官に手を差し出した。手紙を受け取り、一度だけ目を落とし。


 そして、握り潰した。


「届かなかった」


 静かな声が、ぞっとするほど穏やかに言った。


「その早馬は、道中で行方不明になったことにしろ」


――王国からの救援要請は、この男の手の中で、音もなく消えた。


(第3話へ続く)

救出の手紙を握りつぶす魔王、いかがでしたでしょうか。

次回、第3話。ついに王太子クロヴィスが境界までやってきます。

無慈悲な拒絶と、レイラに贈られる「重すぎる加護」をぜひ見届けてください。ブックマーク登録で、次話の更新通知が届きます!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ