第2話「清浄の崩壊、そして君だけのために誂えた世界へ」
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第2話は、ヒロインがいなくなった途端に崩壊し始める王宮と、魔王ヴェインの「10年分の執着」が動き出します。
断罪された聖女は魔物の主だった
第2話「清浄の崩壊、そして君だけのために誂えた世界へ」
騎士たちが悲鳴を上げたのは、レイラが境界を越えてから、ほんの数秒後だった。
「な――なんだ、この臭いは!」
一人が鼻を押さえ、もう一人が膝をついた。王都の方角から漂ってくる空気が、一瞬で変質していた。清浄で、どこか花に似た甘みを帯びていたあの空気が――まるで腐泥を引っ繰り返したような、重く湿った悪臭へと。
闇の中で、二人の騎士は顔を見合わせた。
「……まさか」
言葉が続かない。続けてしまえば、自分たちがしたことの意味を認めることになるから。
彼らは聖域の境界から離れ、王都へ向かって全力で駆けた。背後では、金色の光が静かに揺れていた。
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王宮の大礼拝堂は、今や異臭と混乱の渦中にあった。
「エリス様、もう一度お願いします!もう一度、祈りを!」
神官たちが縋るように叫ぶ。白いローブを纏った新任聖女エリス・アルヴェストは、祭壇の前に跪いたまま、唇を必死に動かしていた。
しかし呪いは退かない。
退かないどころか、彼女の周囲から這い上がってきた黒い靄が、今まさに豪奢なドレスの裾を侵食し始めていた。繊細なレースが、目に見えて変色してゆく。乳白色から、腐った紫へ。
「やだ、やだやだ、取れないの、なんで取れないのっ――!」
エリスが悲鳴を上げて立ち上がった。その瞬間、祭壇のガラス窓が一枚、理由もなく割れた。
扉を蹴破るように入ってきたのは、クロヴィス王太子だった。顔色が蒼白を通り越して灰色になっている。
「エリス!何をしている、早く呪いを払え!」
「で、できないわ、私の魔力が、全然、効かなくて――!」
「できないはずがない!貴女は本物の聖女だと言っていたではないか!」
クロヴィスの声が上擦っている。彼の手が微かに震えていた。
「これはきっと、レイラが何か仕掛けたのだ。あの女め、偽聖女のくせに呪術でも使って――そうだ、そうに違いない、全部あの女のせいだ!」
神官の一人が、か細い声で呟いた。
「……殿下。もし、アルヴェスト様こそが本当に聖域の呪いを抑えていたとしたら」
「黙れ!」
クロヴィスの怒号が礼拝堂に反響した。
しかしその怒号より大きな音が、すぐ後に続いた。王宮の石壁に走るひび割れの音が。
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森の中は、静かだった。
男は馬から降り、レイラの前で、迷いなく膝をついた。
魔王が。「死神」と恐れられ、単騎で国境を蹂躙すると噂される男が、夜の森の地面に、片膝をついている。
レイラは息を忘れた。
男の手が、外套の内側へ入った。そして取り出されたのは――ボロボロに擦り切れた、小さな赤いリボンだった。一度は鮮やかだったであろう赤が、長い年月で褪せ、何度も結び直したらしい跡が残っている。
「……それは」
「十年前」
男が、低く言った。深紅の瞳が、揺れずにレイラを見つめている。
「魔物に囲まれて、死を待っていた俺に、一人の少女が手を差し伸べた。名前も告げずに傷を癒して、去り際にただ一つ、これを俺の手に握らせた」
レイラの記憶が、遠い場所から浮かび上がった。
十年前。まだ少女だった頃、家族と訪れた辺境の森。迷子になって深く踏み込んだ先で、満身創痍の少年が倒れていた。魔物に囲まれて、意識を失いかけていた少年。レイラはとっさに魔力を使って魔物を払い、傷に触れた。自分が「聖女の力がない」と言われていた力で。
去り際、泣きそうな顔の少年が手首に巻いていたリボンが解けそうで、結び直してあげた。それだけだった。
「もう一度会えたら、名前を聞こうと思っていた」
男がレイラの手を取り、リボンを握らせる。その手が、ほんの少しだけ、震えていた。
「十年間。一秒たりとも、忘れたことはなかった。君がこの国にいる間は、手が届かなかった。だから――君が、あの檻から出てくる日を、待っていた」
男の唇が、レイラの指先に触れた。
恭しく、しかし、絶対に逃がさないという意志を込めて。
「俺の名はヴェイン。隣国の、魔王と呼ばれている男だ」
顔を上げた深紅の瞳に、炎のような熱がある。
「遅くなって、すまなかった。もう二度と、一人にはしない」
レイラの喉が、小さく鳴った。三年間、ずっと眠らせていた何かが、胸の奥で、音を立てて目覚めようとしていた。
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魔王城は、おかしかった。
おかしい、というのは――レイラの想像とまったく異なっていたからだ。
城門をくぐった瞬間、鼻をついたのは薔薇と白百合の香りだった。たいまつの代わりに青白い燐火が回廊を照らし、その光の中に、あり得ないほど美しい庭園が広がっていた。
白い石畳。季節の混在した花々。そして中央に、一本の大きなラベンダーの木。
レイラは足を止めた。
「……なぜ」
声が掠れた。
ラベンダーの木がある庭。それはレイラが八歳の頃、王宮の固い石造りの部屋の中で、ぽつりと独り言のように呟いた夢だった。誰にも言っていない。日記にも書いていない。ただ一度、聖域の魔物たちに話しかけるように、零した言葉。
「……覚えていてくれたのか」
隣のヴェインが、微かに唇の端を上げた。
その時、城の扉が大きく開いた。
現れたのは、整然と並んだ城の者たちだった。人型の者も、そうでない者も、全員が深々と頭を垂れている。その先頭に立つ、白い礼服の老執事が声を上げた。
「女王陛下のご帰還を、心よりお待ち申し上げておりました!」
次の瞬間、城全体が沸いた。
窓から、廊下から、屋根の上から、城中の者たちが歓声を上げる。涙を流しているものさえいた。女王。その言葉が、嵐のように繰り返される。
レイラは完全に言葉を失った。
ヴェインが静かにレイラの体を横抱きに抱え上げ、城の中へ歩き始めた。
「下ろして」と言いかけたレイラに、彼は囁いた。
「今夜だけは、許してくれ」
その声の、どこかに揺れがある。長い時間、ずっと堪えていたものが溶け出すような。
最奥の扉が開いた。天蓋付きの寝台。月の光が差し込む大窓。柔らかな寝具の上に、ヴェインはレイラをそっと下ろした。
そして膝をつき、正面からレイラの目を見た。
「もう二度と、君を一人で戦わせない。君を傷つけた有象無象は――」
深紅の目が、一瞬、夜の底のように昏くなる。
「すべて、俺が塵にする」
それは甘い言葉ではなかった。宣誓だった。
レイラが何か言おうとした、その時。
扉を激しく叩く音。飛び込んできた副官が、蒼白な顔で告げた。
「陛下。王国から早馬が。王宮で呪いが暴走し、制御不能な状態に。聖女が機能しておらず――助けを、求めております」
部屋に沈黙が落ちた。
ヴェインはレイラから視線を外さないまま、副官に手を差し出した。手紙を受け取り、一度だけ目を落とし。
そして、握り潰した。
「届かなかった」
静かな声が、ぞっとするほど穏やかに言った。
「その早馬は、道中で行方不明になったことにしろ」
――王国からの救援要請は、この男の手の中で、音もなく消えた。
(第3話へ続く)
救出の手紙を握りつぶす魔王、いかがでしたでしょうか。
次回、第3話。ついに王太子クロヴィスが境界までやってきます。
無慈悲な拒絶と、レイラに贈られる「重すぎる加護」をぜひ見届けてください。ブックマーク登録で、次話の更新通知が届きます!




