私は出発を許可している
どこかに行こう。そう思った。
その思考が生まれた瞬間、私は仕事を始める。
私は夢だ。
正確に言えば、「人が眠っているあいだに、どこかへ行こうとしたときだけ開く夢」だ。すべての眠りに現れるわけではない。疲れた日にも、幸福な夜にも、私は現れない。ただ、行きたい場所が決まっていないとき。戻る理由が見当たらないとき。その条件が揃ったときだけ、私は許可を出す。
その人は、布団に入ってからも長く目を閉じられずにいた。時計の光、隣室の音、遠くの車の気配。すべてが「ここ」に縛りつけるものだった。
そして、考えた。
どこかに行こう。
私は、その思考を合格にした。
最初に用意するのは、道だ。
夢の中の道は、必ず現実より少しだけ長い。歩いても歩いても、目的地に着かないように作られている。だが、疲れはない。疲れないから、人は引き返さない。
その人は歩き始めた。
知らない住宅街。知らない電柱。だが、すべて「知っている気がする」配置。夢において重要なのは、新しさではない。**懐かしさの偽物**だ。
途中で、声をかける者はいない。
代わりに、看板がある。
行き先 →
行き先 →
行き先 →
矢印の先に、地名は書かれていない。
それでも人は進む。行き先が未定であることは、不安ではない。選ばなくていいという安心だからだ。
その人は途中で立ち止まり、振り返った。
だが、来た道はもうなかった。
これは私の決まりだ。
戻る道は、常に最初に消す。
やがて、駅のような場所に着く。
線路はあるが、電車は来ない。時刻表はあるが、文字は読めない。ベンチに座る人影が、いくつもある。
その人は気づく。
全員、顔が分からない。
怖がる必要はない。
夢の中で顔がないのは、まだ「自分でいられる」という意味だ。顔が確定した瞬間、人は戻れなくなる。
「どこ行きですか」
声をかけるのは、駅員の制服を着た何かだ。帽子の影で目元は見えない。
「分かりません」
その人は正直に答える。
正解だ。分からない者だけが、次へ進める。
「では、こちらへ」
改札はない。
切符もいらない。
ただ、一歩、線路を跨ぐ。
その瞬間、私は確認する。
――まだ、戻りたいか。
答えは、いつも曖昧だ。
戻りたい、けれど、今ではない。
戻る理由が、見当たらない。
私は、黙認する。
線路の向こうは、町だ。
最初の町より、少しだけ静かで、少しだけ暗い。人はいるが、声はない。店は開いているが、誰も売らない。
その人は、ここで違和感を覚える。
「ここに来たことがある気がする」
それは当然だ。
人は皆、何度もここへ来ている。
ただし、覚えていないだけだ。
町の中央には、建物がある。
病院のようで、学校のようで、役所のようでもある。中に入ると、長い廊下が続いている。扉が並び、すべてに名前が書かれている。
その人は、自分の名前を見つける。
扉の前で、足が止まる。
私は、ここで何もしない。
選ぶのは、いつも人間だ。
扉を開けると、中は真っ暗だ。
だが、何かが「待っている」気配だけはある。
その人は、聞く。
「ここは、どこですか」
私は答える。
直接ではない。
部屋の奥で、何かが動く音で。
それは、あなたが置いてきた時間だ。
言わなかった言葉。
行かなかった場所。
戻らなかった日。
それらは、すべて、ここに集められる。
その人は、一歩、踏み出す。
私は、その瞬間に、出口を閉じる。
目覚ましが鳴る。
現実の朝だ。
その人は目を覚ます。
汗もかいていない。心臓も速くない。ただ、少しだけ、何かが足りない。
――時間が、少し欠けている。
その日、その人は一日中、落ち着かなかった。時計を見るたび、数分ずれている気がする。誰かと話していても、言葉が遅れる。
だが、異変はそれだけだ。
人はそれを「疲れ」と呼ぶ。
夜。
布団に入り、目を閉じる。
そして、思う。
どこかに行こう。
私は、再び仕事を始める。
次は、もう少し深いところまで、連れていく。
戻り道は、用意しない。




