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全部うまくいかなかった時

 どこかに行こう。そう思った。

 この時点で、私はすでに半分失敗していたのだと思う。


 なぜなら私は、どこかに行こうと思う人間ではない。普段の私は「行かなきゃなあ」と思いながら結局行かない側の人間だし、「今度でいいか」と言ってその今度を永久に延期する才能だけで生きている。


 それなのに、その日は違った。

 目が覚めた瞬間、特に理由もなく「今日はここにいない方がいい気がする」と思ってしまったのだ。


 こういう予感は信用しない主義だった。だいたい当たらないし、当たったとしても「だから何だ」という結果にしかならない。それでも私は起き上がり、歯を磨き、着替え、財布を確認し、家を出た。ここまで来ると、もう後戻りはできない。人は靴を履いた時点で引き返す気力の七割を失う。


 駅へ向かう途中で、私は早くも後悔し始めた。

 空は曇っているし、風は強いし、何より行き先が決まっていない。


 どこかってどこだ。

 温泉? 一人で?

 海? この天気で?

 映画? それは「どこか」なのか?


 考えているうちに駅に着いてしまった。改札前で立ち止まり、完全に不審者の動きをする。進むでもなく戻るでもなく、路線図を見上げては首を傾げる成人。


 最終的に、私は「一番よく分からない名前の駅」を選んだ。知らない地名は期待値が低い分、失望もしにくい。これは人生で学んだ知恵だ。


 電車に乗り、座席に座る。

 ここで気づいた。


 ――イヤホンを忘れた。


 これは致命的だ。イヤホンのない移動時間ほど、自分の人生と正面から向き合わされる時間はない。仕方なく、私は車内広告を読むことにした。美容整形、英会話、転職。どれも私に「今のままでいいのか」と問いかけてくる。


 やめてほしい。

 今日はそういう日じゃない。


 途中の駅で、向かいに座っていた男性が突然立ち上がり、私の足を踏んだ。


「すみません!」


「あ、いえ」


 反射的にそう答えたが、痛かった。

 どこかに行こうと思った結果がこれである。


 目的の駅に着き、改札を出る。

 駅前は想像以上に普通だった。チェーン店、コンビニ、意味の分からない銅像。地方でも都会でもない、絶妙にコメントしづらい風景。


 私は歩き始めた。

 どこかに行こうと思った以上、歩くしかない。


 五分で後悔した。

 十分で喉が渇いた。

 十五分で「家にいればよかった」という考えが頭を支配した。


 公園を見つけ、ベンチに座る。鳩が近づいてくる。


「いや、何も持ってない」


 なぜか鳩に言い訳をしてしまった。

 鳩は納得していない顔でこちらを見ている。多分、私より人生が充実している。


 立ち上がろうとした瞬間、ポケットからスマートフォンを落とした。画面が下向きで地面に当たる。


 終わった、と思った。

 だが、割れていなかった。


「今日はついてる」


 そう思った矢先、立ちくらみがした。

 今日はそういうバランスの日らしい。


 気を取り直して歩く。

 商店街に入ると、個人経営の店が並んでいた。勇気を出して、よく分からない喫茶店に入る。


「いらっしゃいませ」


 店主は明らかに私を歓迎していない顔だった。入店した瞬間に分かる。ここは常連の店だ。


「コーヒーで」


 それしか言えない自分が悲しい。


 出てきたコーヒーは、びっくりするほど濃かった。人生の苦みを一杯に凝縮したような味だ。私は半分も飲めず、会計を済ませて店を出た。


 外に出ると、雨が降り始めていた。

 傘はない。


 笑えてきた。

 ここまでくると、もうコントだ。


 私は駅へ戻ることにした。

 どこかに行こうと思った結果、「帰ろう」と思うまでの時間は、約三時間だった。


 帰りの電車に乗り、座席に座る。

 今度は、なぜか安心感があった。


 私は理解した。

 どこかに行くことがしたかったわけではない。

 「いつもと違う判断をしてみた自分」を確認したかっただけなのだ。


 家に着き、鍵を開け、靴を脱ぐ。

 部屋は、朝と何も変わっていなかった。


 それでも私は満足していた。

 何も得られなかったが、何も失ってもいない。


 どこかに行こう。

 そう思った日のことを、私はしばらく忘れないだろう。


 次はもう少し、ちゃんと計画を立てよう。

 イヤホンも忘れずに。


 たぶん。

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