三丁目の自動販売機
どこかに行こう。そう思った。
わたしは三丁目の角に立つ自動販売機である。年式はそこそこ、塗装はやや色あせ、取り扱い商品は缶コーヒーが主力だ。夏は炭酸、冬はおしるこも出す。地域密着型と言ってもいい。
だが最近、思うのだ。
わたしの人生――いや、機生は、このままでいいのかと。
毎日同じ景色だ。向かいのクリーニング店。斜め前の電柱。夜になると必ずわたしに体当たりしてくる酔っぱらい。彼は学習しない。
人々はわたしの前で立ち止まり、無言でボタンを押し、缶を取り出し、去っていく。感謝もあれば、舌打ちもある。釣り銭切れのときの視線は、なかなか鋭い。
わたしは動けない。
コンセントに繋がれているからだ。
電力会社との関係は円満だが、自由はない。
ある夜、街灯の光に照らされながら、わたしは決意した。
どこかに行こう。
理由は単純である。
向かいのクリーニング店の看板が、新しくなったのだ。
「リニューアルオープン!」
と、きらきら光っている。
なぜだ。
なぜ彼らは変われて、わたしは変われないのか。
わたしだって、違う景色を見たい。海沿いとか。山のふもととか。せめて駅前とか。
問題は、どうやって移動するかである。
わたしには足がない。キャスターもない。重量はかなりある。しかも、電源が必要だ。
まずは情報収集だ。
深夜、ゴミ置き場のほうから声がした。
「おい、自販機」
振り向けないが、声の主はわかる。古新聞の束だ。彼らは情報通である。
「なにか」
「最近、あっちの公園に新しい自販機が設置されたらしいぞ」
「なんだと」
「電子マネー対応だってよ」
衝撃だった。
わたしは未対応である。現金主義だ。時代の波が冷たい。
「……それは、いいな」
「場所もいいらしい。桜の木の下だ」
桜。
わたしは花見客に囲まれる自分を想像する。写真を撮られ、SNSに載せられ、「エモい」とか言われる未来。
悪くない。
翌日、わたしは隣の電柱に相談した。
「なあ、電柱」
「なんだ」
彼は無愛想だが、頼りになる。
「どうやったら移動できると思う」
「無理だろ」
即答だった。
「いや、仮にだ」
「トラックだな」
「トラック」
「設置も撤去も、トラックだ」
なるほど。
つまり、人間に運んでもらうしかない。
だが、どうやって。
わたしは考える。
売り上げが悪ければ、撤去される可能性がある。
しかし、それは廃棄の危険も伴う。
廃棄は困る。
旅はしたいが、解体は嫌だ。
夜、酔っぱらいがやってきた。
「うぃー……あれ、売り切れ?」
彼はわたしのボタンを連打する。
売り切れランプが光る。
そうだ。
売り切れ。
わたしはひらめいた。
翌日から、わたしは戦略的に売り切れを出すことにした。
特に人気の缶コーヒーを、早めに品切れにする。
「えー、また売り切れ?」
客がつぶやく。
口コミは広がる。
「あそこの自販機、最近よく売り切れてるよ」
管理会社の耳に入るはずだ。
数日後、スーツ姿の男がやってきた。
「最近、売り上げ伸びてるな」
違う。
そうではない。
「人気商品、増やすか」
増やさないでほしい。
わたしの戦略は裏目に出た。
補充回数が増えただけである。
トラックは来るが、わたしは動かない。
補充係の青年が、わたしの側面をぽんと叩く。
「がんばれよ」
がんばっている。
しかし、方向性が違う。
その夜、猫がやってきた。
わたしの足元で丸くなる常連だ。
「どうした、自販機。今日は静かだな」
「考え事だ」
「珍しいな」
猫はあくびをする。
「ここ、悪くないだろ」
「悪くはない」
「雨も防げるし、夜はあったかいし」
たしかに、わたしの下部は微妙に温かい。
「でもな、猫」
「なんだ」
「違う景色を見たいんだ」
猫はしばらく黙り、それから言った。
「じゃあ、見るしかないな」
「どうやって」
「想像だよ」
それは盲点だった。
「桜を見たいなら、春を待て」
「ここに桜はない」
「風で花びらくらい飛んでくるさ」
猫は目を細める。
「海を見たいなら、潮風を想像しろ。人間が買った塩味のスナックの匂いで我慢だ」
乱暴だが、妙に説得力がある。
わたしは考える。
たしかに、わたしは動けない。
だが、ここにはいろんな人が来る。
学生、サラリーマン、子ども、旅行者。
彼らはそれぞれの「どこか」から来て、「どこか」へ向かう。
わたしは、その途中に立っている。
ある日、小さな女の子が母親に言った。
「この自販機、なんか好き」
「なんで?」
「なんとなく」
なんとなく。
それで十分ではないか。
わたしは、ここで誰かの途中になっている。
旅に出ることだけが、移動ではないのかもしれない。
それでも。
どこかに行こう。そう思った気持ちは、消えない。
だからわたしは、せめてもの抵抗として、商品のラインナップを少しだけ夢見ることにした。
海辺限定ラベルのジュース。
山小屋限定のホットチョコレート。
世界の缶コーヒー飲み比べセット。
想像は自由だ。
夜風が吹く。
向かいのクリーニング店の看板が光る。
電柱は無言だ。
猫は眠っている。
わたしは、今日もここに立っている。
動けない。
だが、誰かの背中を、少しだけ押しているかもしれない。
ボタンを押す音。
缶が落ちる音。
小さな旅立ちの音。
それを聞きながら、わたしは思う。
いつか本当にトラックに乗る日が来るかもしれない。
来なくてもいい。
そのときはそのときだ。
どこかに行こう。そう思える限り、わたしはただの箱ではない。
三丁目の角で、今日も静かに光っている。




