第9話 森からの不機嫌な来訪者
怒涛の一夜が明けた。
王太子ジェラルドと義妹マリア、そして財務大臣が連行され、国王陛下と近衛騎士団が王都へと帰還した後。
私の店『リリアナ商店』には、ようやく静寂な朝が訪れていた。
「……ふあぁ。昨日はすごかったなぁ」
私は大きく伸びをして、レジカウンターから店内を見渡した。
棚という棚が、スカスカだ。
昨夜、国王陛下の「食う許可」が出た瞬間、飢えた騎士たちによってカップ麺やおにぎり、パンの類が根こそぎ買い占められたからだ。
「在庫管理が大変……でも、これは嬉しい悲鳴よね」
システムウィンドウを開き、ポイントを使って大量発注をかける。
光の粒子と共に、商品が棚に補充されていく様子は、いつ見ても圧巻だ。
「おはよう、リリアナ。……随分と早いな」
奥の事務所(休憩室)から、眠たげな声が聞こえた。
出てきたのは、寝癖のついた銀髪を揺らすクライド様だ。
彼は昨日、そのまま店の警備を兼ねて泊まり込んでくれたのだ。
着ているのは、昨日私が支給した『グレーのスウェット上下』。
あの冷徹な「氷の公爵」が、部屋着姿で目をこすっている。
この破壊力だけで、ご飯三杯はいける。
「おはようございます、クライド様。昨日はお疲れ様でした。……ふふ、寝癖がついてますよ」
「ん? ……ああ、すまない。慣れない布団(低反発マットレス)があまりに快適すぎて、泥のように眠ってしまった」
彼は照れくさそうに髪を手櫛で整え、私の隣に来て自然に腰に手を回し――かけ、ハッとして止めた。
「……いけない。まだ婚約したばかりで、順序というものが」
「もう、国王陛下公認なんですから、そこまで堅苦しくなくてもいいんですよ?」
「いや、けじめは大事だ。……だが」
彼は私の手を取り、その甲にそっと口付けた。
「……おはようの挨拶くらいは、許してほしい」
上目遣いでそんなことを言うなんて、本当にこの人は天然なのだろうか。
朝から心臓への負担がすごい。
「さ、さあ! 朝ごはんにしましょう! 商品の補充も終わりましたし」
私は照れ隠しに声を張り上げ、冷蔵ケースへ向かった。
今日の朝食は、爽やかな朝にぴったりの『BLTサンドイッチ』だ。
◇
イートインスペースの窓から、朝の柔らかな日差しが差し込んでいる。
私たちは向かい合って席に着いた。
「ビー・エル・ティー……? 呪文のような名前だな」
クライド様は、透明なフィルムに入ったサンドイッチを興味深そうに観察している。
「ベーコン(Bacon)、レタス(Lettuce)、トマト(Tomato)の頭文字です。シンプルな具材ですけど、黄金の組み合わせなんですよ」
「ベーコンと野菜か。……だが、この野菜、異様に色が鮮やかだな。冬の辺境で、なぜこれほど青々としているんだ?」
この世界では、冬場の野菜といえば保存食の根菜か、干し野菜が主流だ。
新鮮な葉物野菜など、王族でも滅多に口にできない。
「食べてみれば分かります。はい、コーヒーもどうぞ」
クライド様は頷き、サンドイッチを両手で持ち、大きく口を開けた。
ガブッ。
シャキッ!!!!
静かな店内に、小気味良い音が響き渡った。
「ッ!?」
クライド様の目が丸くなる。
「なんだ、今の音は……!? 楽器か!?」
「レタスの音です」
「レタス……? 私の知っているレタスは、スープの中で煮込まれてクタクタになった、緑色の布のようなものだが……」
彼は咀嚼を続ける。
シャキシャキ、バリバリ。
新鮮なレタスの瑞々しい食感が、彼の常識を破壊していく。
「すごい……! 噛むたびに、冷たい水が弾け飛ぶようだ! 青臭さは全くない。ただひたすらに爽やかで、甘い!」
そして、次に襲ってくるのがベーコンの旨味だ。
「んんっ……!」
彼の表情が蕩ける。
「そこに、このカリカリに焼かれたベーコンの塩気と脂が混ざり合う……! 野菜の水分と、肉の脂身。相反するはずの二つが、この『マヨネーズ』という白いソースの仲介によって、奇跡の結婚を果たしている!」
彼は夢中で二口目を頬張った。
今度はトマトの酸味が加わる。
「甘酸っぱいトマトが、脂っぽさを洗い流していく……。これならいくらでも食べられる。無限だ。このサンドイッチは無限の食べ物だ!」
「気に入っていただけて良かったです。朝はやっぱり、野菜を摂らないと」
「ああ、素晴らしい。……リリアナ」
彼はサンドイッチを持ったまま、真剣な眼差しで私を見た。
「毎朝、これを私に作ってくれないか? ……いわゆる、プロポーズの続きとして」
「ふふ、コンビニの商品なので『作る』じゃなくて『出す』ですけど……いいですよ。一生、食べさせてあげます」
「約束だぞ」
朝日に照らされながら、BLTサンドイッチで愛を誓い合う二人。
なんて平和で、幸せな朝なんだろう。
……しかし。
コンビニ経営において、「平和」とは「嵐の前の静けさ」と同義語である。
カランコロン♪
不意に、入店音が鳴り響いた。
「いらっしゃいませー」
私が反射的に声をかけると、自動ドアの向こうに立っていたのは、一人の奇妙な客だった。
全身を緑色のローブですっぽりと覆い、顔が見えない。
背中には、見たこともないほど美しい装飾が施された長弓を背負っている。
そして何より、その人物から漂う空気が、鋭く尖っていた。
「……臭い」
開口一番、その人物は言った。
「なっ……?」
サンドイッチを食べていたクライド様の眉がピクリと動く。
ローブの人物は、店内に充満するコーヒーとベーコンの香りを嫌悪するように、鼻を手で覆った。
「脂と、焦げた肉の死臭。そして、人工的な甘い香り……。ここは『店』だと聞いたが、穢れた人間の餌場か?」
澄んだ、鈴を転がすような声。
だが、その言葉には明らかな敵意と軽蔑が込められていた。
「お客様、当店の商品を侮辱する発言は……」
私が注意しようと立ち上がると、クライド様がそれを制して前に出た。
その手には、食べかけのサンドイッチが握られているが、瞳は完全に「氷の公爵」のそれになっている。
「……私の婚約者の店で、随分な口を利く客だ。何者だ?」
「人間に名乗る名などない。……と言いたいところだが」
ローブの人物が、バサリとフードを脱ぎ捨てた。
「!?」
現れたのは、黄金色の長い髪と、宝石のような翠の瞳。
肌は透き通るように白く、そして何より特徴的なのは――頭の横から長く伸びた、尖った耳。
「エルフ……!?」
伝説の種族、エルフ。
深い森の奥に住み、人間との交流を絶っているはずの彼らが、なぜこんな辺境のコンビニに?
「私はエルフの里の守り人、シルフィード。……人間の作った『汚れた食料』など口にする気はないが、背に腹は代えられない」
シルフィードと名乗ったエルフは、ふらふらと覚束ない足取りでカウンターに近づき、ガクリと膝をついた。
「えっ、大丈夫ですか!?」
「……水だ。清浄なる水と……穢れなき果実を所望する。……森が枯れ、我らもまた、魔力の枯渇で限界なのだ……」
彼女の顔色は土気色で、唇はカサカサに乾いている。
どうやら、極度の脱水症状と空腹状態にあるようだ。
「分かりました! すぐにご用意します!」
「待て、リリアナ」
クライド様が鋭い声で止める。
「エルフは気位が高く、人間の加工した食品を『毒』と呼んで忌み嫌う種族だ。下手に人間の食べ物を出せば、激昂して攻撃してくるかもしれんぞ」
「ですが、このままじゃ死んでしまいます!」
「……フン、その通りだ。火を通した肉や、泥のついた野菜など出してみろ。その瞬間に、この店ごと森の藻屑にしてくれる」
シルフィードは強がりを言っているが、指先が震えている。
彼女が求めているのは「加工されていない、自然のままの魔力を帯びた食べ物」。
そんなもの、今の辺境の冬にあるはずが――
「……あります」
私はニヤリと笑った。
「え?」
「加工品だけど、加工品じゃない。自然そのものを閉じ込めた、魔法の商品が」
私は冷蔵ケースのデザートコーナーへ走り、キラキラと輝くカップを一つ手に取った。
『果肉たっぷり白桃ゼリー(プレミアム)』だ。
「お客様、こちらをどうぞ」
私は蓋をペリッとはがし、プラスチックのスプーンを添えて差し出した。
「な、なんだこれは……?」
シルフィードは、怪訝そうにカップを覗き込んだ。
透明度の高いゼリーの中に、淡いピンク色の果肉がゴロゴロと浮いている。
「スライムか? ……いや、違う。透き通っている。まるで、朝露を集めて固めたような……」
「『ゼリー』です。清らかな水と、熟した果実で作りました。火は通していません」
「……匂いは、悪くない。甘く、華やかな……花の蜜のような香りだ」
彼女は恐る恐るスプーンを手に取り、ゼリーの表面をすくった。
プルン、とゼリーが揺れる。
「……頂こう。もし毒だったら、呪ってやる」
彼女はスプーンを口に運んだ。
ちゅるん。
静寂。
シルフィードの動きが止まる。
翠の瞳が、限界まで見開かれた。
「ッ……!!!!」
「どうですか?」
「き、消えた……!? いや、溶けた!!」
彼女は叫んだ。
「口に入れた瞬間、個体が液体へと還った! これは食べ物ではない、水だ! いや、ただの水ではない! 果実の魂そのものだ!」
「白桃の果汁をたっぷり使ってますからね」
「そしてこの、ピンク色の塊……」
彼女は次に、大きな白桃の果肉を口にした。
ジュワァァァ……!
「んんっ……! 甘い……なんて高貴な甘さなのだ……!」
彼女の目尻から、涙がこぼれ落ちた。
「森の奥で数百年に一度実る『世界樹の果実』にも劣らぬ、濃厚で、それでいて後腐れのない清廉な甘み! 噛むたびに、身体の奥底から魔力が湧き上がってくる!」
シルフィードは、気位の高さも忘れて、夢中でゼリーをかき込み始めた。
ちゅるん、ちゅるん、ハグッ。
その必死な姿は、高貴なエルフというより、お腹を空かせたリスのようで愛らしい。
「うまい、うまいぞ……! 人間の作るものは泥だと思っていたが、これは精霊の食べ物だ!」
あっという間に完食した彼女は、空になったカップの底に残った汁まで飲み干し、ふぅ、と満足げな息を吐いた。
顔色には赤みが戻り、肌は輝きを取り戻している。
「……礼を言う、人間の店主よ。命を救われた」
彼女は立ち上がり、今度は敬意を込めて私を見た。
しかし、その直後、彼女の表情が再び曇った。
「だが……これで私の空腹は満たされたが、森の危機は去っていない」
「森の危機、ですか?」
「ああ。私たちの住む『大森林』の中心にある世界樹が、原因不明の病で枯れかけているのだ。世界樹を治すには、『純度100%の聖なる水』が必要なのだが……今の汚染された地上の水では、効果がない」
彼女は悲痛な表情で俯いた。
「このままでは、森は死に、私たちエルフも滅びる運命だ……」
「純度100%の水……」
私は顎に手を当てて考えた。
この世界の水は、魔素や不純物が混じっていて、そのまま飲むとお腹を壊すこともある。
だが、私の店にはある。
日本の厳格な基準をクリアし、不純物を極限まで取り除いた、あの「水」が。
「お客様。もしかして、こういうお水をお探しですか?」
私は棚から、『天然水(2リットルペットボトル)』を一本取り出し、ドンとカウンターに置いた。
南アルプスの大自然が育んだ、ピュアな軟水だ。
「こ、これは……!?」
シルフィードがボトルに飛びついた。
透明な容器の中で揺れる、クリスタルのような液体。
「キャップを開けてみてください」
彼女がキャップをひねり、一口飲む。
ゴクッ。
「……!!!!」
衝撃で、彼女が後ろに吹き飛びそうになった。
「な、なんという純度だ……! 雑味が一切ない! まるで空気を飲んでいるかのような軽やかさ! これだ……これこそが、世界樹が求めている『原初の水』だ!!」
彼女はガバッとカウンターに身を乗り出し、私の両手を握りしめた。
「頼む、店主! この水を、あるだけ売ってくれ! いや、この店ごと森に来てくれ!」
「ええっ!?」
「森には金貨はないが、秘宝なら山ほどある! 世界樹の枝でも、精霊石でも、なんでも払う! だから頼む、我々を救ってくれ!」
必死なエルフの美女に迫られ、私はタジタジになる。
しかし、ここで黙っていないのが、私の婚約者だ。
「……おい、エルフ」
クライド様が、私とシルフィードの間に割って入った。
その手には、新しいBLTサンドイッチが握られている。
「リリアナを森に連れ去るなど、断じて認めん。彼女は私の妻(予定)であり、この領地の宝だ」
「なっ、邪魔をするな人間! 森の存亡がかかっているのだ!」
「知ったことか。だが……」
クライド様は不敵に笑い、ペットボトルの水を指差した。
「取引なら、私が仲介してやろう。辺境伯領とエルフの里との間で、正規の『貿易協定』を結ぶというのはどうだ?」
「貿易、だと?」
「ああ。君たちは秘宝を出し、リリアナは水を提供する。そして私は、その輸送ルートを警備する。……悪くない話だろう?」
策士だ。
クライド様は、この機に乗じて、長年閉ざされていたエルフとの国交を開こうとしているのだ。
しかも、私の店の売上も確保しつつ。
「……むぅ」
シルフィードは迷っていたが、背中の世界樹の危機と、目の前の『天然水』の輝きには抗えなかった。
「……分かった。その話、乗ろう。ただし!」
彼女はビシッと私を指差した。
「その『ゼリー』という宝石も、定期的に納入すること! 特に桃味が気に入った!」
「ありがとうございます! 毎度あり!」
こうして、私のコンビニは、ついに種族の壁を超えた。
エルフの里への定期配送ルートの確立。
それはつまり、私の店が「国際的チェーン店」へと進化する第一歩だった。
だが、私はまだ知らなかった。
世界樹を救ったその水が、さらなる伝説を呼び寄せ、今度は空の王者である「ドラゴン」までもが、この小さなコンビニに来店することになるなんて――。
「店長、次の発注は水を100ケースですね?」
「はい! あと、ドラゴン用の『特大唐揚げ棒』も開発しておいた方がいいかしら?」
辺境のコンビニ生活は、まだまだ落ち着きそうにない。




