第7話 激辛カラーボールの洗礼
「開けろ! 開けろと言っているのが聞こえないのか、この無能女!!」
ドンドンッ!! バンバンッ!!
私の大切な店の自動ドアを、王太子ジェラルドが必死の形相で叩いている。
その背後では、マリアが「きゃあああ! 来ないでぇぇ!」と金切り声を上げながら、ジェラルドの背中にしがみついていた。
彼らの背後には、闇夜に赤い目を光らせた巨大な狼――シャドウウルフの群れが迫っている。その数、およそ二十体。
涎を垂らし、獲物を嬲り殺そうとする魔物の殺気は、ガラス一枚隔てた店内にも伝わってくるほどだ。
「……チッ」
私の隣で、クライド様が不快げに舌打ちをした。
「リリアナ、少し下がっていなさい。店の前が汚れるのは本意ではないが……掃除(駆除)してくる」
「気をつけてください、クライド様!」
「案ずるな。私の『食事(カップ麺)』の邪魔をする輩には、慈悲などない」
クライド様は氷の槍を片手に、自動ドアのセンサーを反応させて外へと躍り出た。
ウィーン。
ドアが開いた瞬間、ジェラルドが「助かった!」と中へ雪崩れ込もうとする。
しかし。
ドガッ!!
「ぐあぁっ!?」
クライド様の蹴りが、ジェラルドの腹部に突き刺さった。
王国の次期国王とは思えない無様な姿で、ジェラルドは雪の上に転がる。
「誰が入っていいと言った? 貴様らの席はない」
「な、何を……! 私は王太子だぞ!?」
「知らん。今はただの『迷惑客』だ」
クライド様は冷たく言い放つと、迫り来る狼の群れに向き直った。
先頭の一匹が、弾丸のような速度で飛びかかってくる。
「凍れ」
短く、静かな詠唱。
パキィィィン!!
空気が悲鳴を上げるような音と共に、飛びかかってきた狼が一瞬にして氷の彫像へと変わった。
慣性の法則に従って地面を滑り、ジェラルドの目の前で砕け散る。
「ひぃっ……!」
「次だ」
クライド様は舞うように槍を振るう。
そのたびに、氷柱が地面から突き出し、狼たちを貫いていく。
圧倒的な強さ。
「氷の公爵」の異名は伊達ではない。
しかし、敵は魔物だ。
知能が高いシャドウウルフたちは、正面からの攻撃が通用しないと悟ると、群れを二手に分けた。
クライド様を引きつけている間に、数匹が店の側面――ガラス張りのウィンドウに向かって回り込んできたのだ。
「ああっ!? こっちに来るわよ!!」
店内で見ていたマリアが、私を盾にするように背後に隠れた。
「ちょっと、あんた何とかしなさいよ! 店長なんでしょ!?」
「うるさいですね……黙っててください!」
私はレジカウンターから飛び出し、ウィンドウの方へ駆け寄った。
強化ガラスとはいえ、魔物の体当たりを何度も受ければ割れるかもしれない。
ガァァァッ!!
一匹の狼が、ガラスに向かって跳躍した。
その爪がガラスに触れようとした、その瞬間。
「お客様! 当店での暴れ行為は固くお断りします!!」
私は自動ドアの隙間から、手に持っていたオレンジ色の球体――『防犯カラーボール』を全力で投げつけた。
「えいっ!!」
私の投球フォームは、前世で草野球チームの助っ人をしていた経験が生きている。
ボールは美しい放物線を描き、空中にいる狼の鼻先に直撃した。
パァァァンッ!!
オレンジ色の液体が飛散し、狼の顔面を染め上げる。
「ギャンッ!?」
狼が着地に失敗し、雪の上を転がった。
ただの塗料ではない。
私が発注したのは、異世界の魔物対策用にカスタマイズされた『激辛カプサイシン&聖水入り特製カラーボール』だ。
その中身は、トウガラシの辛味成分を限界まで濃縮した液体と、浄化の聖水。
嗅覚が鋭い魔物にとって、それは地獄の業火に焼かれるに等しい激痛をもたらす。
「キャン! キャインッ! ギャウウウン!!」
狼は顔を押さえてのたうち回る。
鼻と目が焼けるような刺激に襲われ、くしゃみを連発し、涙を流している。
その強烈な刺激臭は、風に乗って他の狼たちにも届いたようだ。
「クゥゥン……?」
仲間が悶絶する姿と、漂ってくる「ハバネロの香り」に、残りの狼たちが恐れをなして後退りする。
「今だ! 一網打尽にする!」
クライド様がその隙を見逃すはずがなかった。
彼は地面に手を突き、膨大な魔力を解放した。
「氷結界・絶対零度!!」
ゴオオオオッ!!
店を中心に、猛烈な冷気の嵐が巻き起こる。
それは狼たちを一瞬で飲み込み、そして遠くの森まで続く一面の銀世界を作り出した。
動くものはもういない。
すべての魔物が、美しい氷のオブジェへと変わっていた。
◇
「……終わった」
静寂が戻った雪原で、クライド様がふぅ、と白い息を吐く。
彼はマントについた雪を払うと、優雅な足取りで店に戻ってきた。
「怪我はないか、リリアナ」
「はい! クライド様こそ!」
「問題ない。……ただ、少し腹が減ったな」
彼はニッコリと笑う。
その笑顔に向けられた私の視界の端で、ジェラルドとマリアが雪まみれになりながら立ち上がろうとしていた。
彼らはクライド様の広範囲魔法の余波で、腰まで雪に埋まっていたのだ。
「さ、寒い……死ぬ……」
「入れて……中に入れてよぉ……」
二人はガタガタと震えながら、自動ドアに縋り付いた。
「リリアナ! 開けろ! 私はお前の婚約者だった男だぞ! 温かいスープと、毛布を用意しろ!」
ジェラルドが命令口調で叫ぶ。
私は冷ややかな目で彼らを見下ろし、インターホンのスイッチを入れた。
「申し訳ございませんが、当店は『会員制』となっております」
「はぁ!? ふざけるな! そんな制度いつできた!」
「今です。そして、あなた方の会員資格は永久に剥奪されています」
「なっ……!?」
「それに、先ほど見ましたよ。私を盾にしようとしましたよね? そのようなお客様に商品を販売することはできません」
私はピシャリと言い放ち、ブラインドを下ろそうとした。
すると、クライド様が私の横に立ち、ジェラルドたちを氷の瞳で見下ろした。
「聞こえなかったか? 帰れと言っている。……それとも、あの狼たちのように氷像になりたいか?」
手元にパキパキと氷の魔力を集めるクライド様を見て、ジェラルドたちは「ひぃっ!」と悲鳴を上げた。
しかし、外は極寒の地獄。行く当てもない彼らは、店の前の軒下(風除けのあるスペース)に縮こまるしかなかった。
「……放っておきましょう。結界内なら魔物は来ませんから、死にはしません」
私はクライド様の手を引き、店の奥へと案内した。
「それより、冷えましたよね。温かいものを淹れます」
◇
イートインスペースの椅子に座ったクライド様は、戦いの緊張が解けたのか、とろんとした目で私を目で追っていた。
「……リリアナ。先ほどの投擲、見事だった」
「ふふ、昔取った杵柄です。……はい、お待たせしました」
私はマグカップを二つ、テーブルに置いた。
甘いチョコレートの香りが、ふわりと立ち上る。
「これは……『ココア』か?」
「はい。でも、ただのココアじゃありませんよ」
茶色の液体の表面には、白くてふわふわした小さな塊がいくつも浮かんでいる。
「この白い浮島はなんだ?」
「『マシュマロ』です。砂糖とゼラチンで作ったお菓子なんですが、熱いココアに浮かべると……」
見ていてください、と言う前に、熱でマシュマロがとろりと溶け始めた。
茶色い海に、白い泡雪が混ざり合い、マーブル模様を描いていく。
「……溶けた。雪解けのようだ」
クライド様は興味津々でマグカップを手に取り、口に運んだ。
「熱いので気をつけてくださいね」
「分かっている。……フーフー」
彼は慎重に息を吹きかけ、そっと一口啜った。
「……んっ」
甘い吐息が漏れる。
「……甘い。だが、砂糖の暴力的な甘さではない。カカオの苦味を、この溶けたマシュマロが優しく包み込んでいる……」
彼はとろとろになったマシュマロをスプーンですくい、口に含んだ。
「あ、甘ぁい……! 口に入れた瞬間、しゅわっと消えてしまう。まるで雲を食べているようだ。そして、その後に残る濃厚なミルク感……。戦いで荒ぶった魔力が、この甘さで鎮められていくのが分かる」
「疲れた時には糖分が一番ですから」
「ああ……身も心も溶かされそうだ」
彼は幸せそうに目を細め、再びマグカップに口をつけた。
ごく、ごく。
そして顔を離すと……。
「……ぷはっ」
「あ」
クライド様の唇の上に、茶色いココアと白いマシュマロの泡がついて、立派な「お髭」ができていた。
普段の冷徹な美貌とのギャップが凄まじい。
「ん? どうかしたか?」
きょとんとするクライド様。
私は笑いを堪えきれず、カウンターからナプキン(高級保湿タイプ)を取って、身を乗り出した。
「動かないでください。お髭がついてますよ」
「髭……?」
私は彼に近づき、そっと口元を拭った。
距離が近い。
彼の銀色の睫毛の長さまで数えられる距離。
ホットココアの甘い香りと、彼自身の凛とした香りが混ざり合う。
「……っ」
彼が息を呑むのが分かった。
私の指先が彼の唇に触れるか触れないかの距離で、彼が私の手首をそっと掴んだのだ。
「……リリアナ」
甘く、低い声。
彼の瞳が、熱を帯びて私を見つめている。
ココアの湯気越しに見るその瞳は、吸い込まれそうなほど綺麗で。
「……拭かなくていい」
「えっ?」
「君が……その、してくれないか」
「はい? 何を……」
彼は視線を私の唇に落とし、また自分の唇に戻した。
意味を察した瞬間、私の顔から火が出そうになった。
え、それって、口付けで取れってこと!?
この天然タラシ公爵様は、無自覚にそんな高等テクニックを……!?
「く、クライド様! そ、それは追加料金どころか、命の対価が必要なサービスです!」
私が慌てて飛びのくと、彼は残念そうに、でも少し悪戯っぽく微笑んだ。
「……命なら、とっくに君に預けているのだがな」
「もうっ! からかわないでください!」
私が真っ赤になって抗議すると、彼は「本気なんだが」と小さく呟き、残りのココアを飲み干した。
「……温まった。ありがとう」
彼が満足げに息をついた、その時だった。
ズズズズズズッ……!!
再び、地面が揺れた。
今度は魔物の足音ではない。もっと規則正しく、重厚な響き。
そして、遠くから聞こえてくるファンファーレの音。
「なんだ? まだ敵が……?」
クライド様が瞬時に騎士の顔に戻り、窓の外を睨む。
軒下で震えていたジェラルドたちが、その音を聞いて跳ね起きた。
「こ、このラッパの音は……!!」
「王家直属の近衛師団だわ!!」
ジェラルドが狂喜乱舞して叫ぶ。
「父上だ! 父上が助けに来てくださったんだ!!」
「あははは! 見なさいリリアナ! お父様が軍を率いてきたわ! これでアンタたちは終わりよ! 不敬罪で処刑よ!」
吹雪が晴れた街道の向こうから、黄金の紋章を掲げた巨大な馬車と、数百の騎馬隊が現れた。
その中心にあるのは、間違いなく国王陛下の御料馬車だ。
「……国王陛下、自らお出ましか」
クライド様が、険しい表情で呟く。
もし国王が、息子であるジェラルドの言葉を鵜呑みにするような人物であれば、私たちは「王族に逆らった逆賊」として包囲されることになる。
「リリアナ」
クライド様が、私の前に立つ。
私を守るように、背中で語る。
「何があっても、私が守る。……たとえ相手が国王でも、君の店は傷つけさせない」
「クライド様……」
「それに、まだ君に『新商品』の返事を貰っていないからな」
彼はニヤリと笑い、腰の剣に手をかけた。
店の前の広場に、国王軍が到着する。
ジェラルドとマリアが、泣き叫びながら馬車へ駆け寄っていく。
「父上ぇぇぇ! この無礼な辺境伯とリリアナを殺してくださいぃぃ!」
馬車の扉が重々しく開く。
現れたのは、白髭を蓄えた威厳ある老王。
その鋭い眼光が、ジェラルドを一瞥し、そして――私の店の看板と、クライド様を捉えた。
事態は急転する。
コンビニを巡る戦いは、いよいよ国家規模の裁判へと発展しようとしていた。
「……いらっしゃいませ、国王陛下」
私は腹を括り、店長としての最高の笑顔を準備した。
たとえ相手が王様でも、お客様である限りは神様だ。
ただし、マナーの悪い神様には、激辛カラーボールをお見舞いする覚悟で。




