第5話 おでんの出汁と絶対零度
「誰の許可を得て、私の領地で騒いでいる?」
その声は、物理的な温度すら奪い去るかのように響き渡った。
自動ドアの向こうに立っていたのは、蒼き氷のオーラを纏ったクライド様だった。
普段、私の前で見せる「肉まん美味しいフフフ」という緩んだ表情は欠片もない。
そこにいるのは、北の辺境をたった一人で支える最強の魔法使い、「氷の公爵」その人だった。
「ひっ……!」
財務大臣の男が、あまりの威圧感に短い悲鳴を上げる。
床から突き出した氷の棘は、男の鼻先数センチでピタリと止まっていた。
あと一歩踏み出していれば、串刺しになっていただろう。
「ザ、ザルツ辺境伯……! き、貴様、王家の使者に対し、このような暴挙を……!」
「暴挙? 私は領地への不法侵入者を排除しようとしただけだが?」
クライド様はゆっくりと店内に入ってくる。
カツン、カツン。
彼が一歩進むごとに、床のタイルがパリパリと凍りつき、美しい霜の紋様を描いていく。
「王家の勅命だと言ったはずだ! この店と商品は王家が管理する!」
「勅命だと?」
クライド様は冷ややかな瞳で男を見下ろした。
「ならば、正規の手続きを踏んで我が屋敷に来るのが筋だろう。深夜の商店に押し入り、店主を脅すのが王家のやり方か? ……随分と、落ちぶれたものだな」
「ぐぬっ……!」
正論を突きつけられ、大臣は言葉に詰まる。
だが、すぐに気を取り直して、下卑た笑みを浮かべた。
「ふん、まあいい。手続きなど後でどうとでもなる。問題なのは、この店が『危険な物資』を扱っているという事実だ。見ろ、この異臭を!」
男は、レジ横で煮込まれている『おでん』の鍋を指差した。
「なんだこの茶色い泥水は! 煮えたぎる沼のような悪臭……こんな物を国民に食わせているとは、毒殺未遂で処刑されても文句は言えんぞ!」
「泥水……?」
私のこめかみに、ピキリと青筋が立った。
バカにするのは私だけにしてほしい。商品(わが子)を侮辱するのは許さない。
「お客様、訂正してください。それは泥水ではありません。カツオと昆布から丁寧に引いた極上の出汁です」
「黙れ追放令嬢! こんなゴミのような――」
「食ってみろ」
大臣の言葉を遮ったのは、クライド様の低くドスの効いた声だった。
「は?」
「毒だと言うなら、食ってみて判断すればいい。……それとも、辺境伯である私の命令が聞けないのか?」
クライド様が指を鳴らすと、宙に浮かんだ氷の刃が、大臣の首元にピタリと狙いを定めた。
拒否権はない。
私は無言で、おでんの容器に一番味が染みた『大根』と『たまご』、そして『ちくわ』を入れ、和がらしを添えて差し出した。
「ど、毒見だ! 騎士よ、毒見をしろ!」
大臣は部下の騎士に器を押し付けようとしたが、クライド様の視線に射すくめられ、誰も動けない。
仕方なく、大臣は震える手で箸(私が使い方を教えたわけでもないのに、なぜか使いこなせているのはご愛嬌だ)を持ち、大根を掴んだ。
あめ色に染まった、分厚い大根。
「ふん、こんな根菜……」
彼は嫌々ながら、大根を口へと運んだ。
ハフッ。
「あつっ!!」
煮えたぎる出汁をたっぷりと吸い込んだ大根は、見た目以上の熱量を秘めている。
口に入れた瞬間、彼は吐き出そうとした。
しかし。
ジュワワァァァ……!
「んんっ!?」
彼の動きが止まる。
噛み締めた大根の繊維から、熱々の出汁が爆発的に溢れ出したのだ。
「な、なんだこれは……!?」
カツオの芳醇な香り。
昆布の奥深い旨味。
それらが大根自身の甘みと絡み合い、洪水となって口内を埋め尽くす。
「や、柔らかい……! 根菜特有の固さなど微塵もない! 舌で押すだけで崩れるほど煮込まれているのに、なぜ煮崩れしていないんだ!? そしてこのスープ……ただの塩水ではない! 複雑怪奇な『旨味』の奔流だ!」
「こちらの黄色い薬味もご一緒にどうぞ」
私はニッコリと笑って、和がらしを勧めた。
「こ、これか?」
彼は完全に味の虜になり、疑いもせずに黄色い練り物を大根にたっぷりとなすりつけた。
そして、パクリ。
ツーーーーーーーンッ!!!!
「ぶふぉっ!!?? ぐあぁぁぁぁっ!?」
大臣が目を見開き、鼻を押さえてのたうち回る。
「は、鼻が! 鼻がもげる!! 雷が脳天を直撃したような刺激! ……だが!!」
彼は涙目で叫んだ。
「その刺激が引いた後に来る、大根の甘みが……より一層際立っているだと!? 辛い、甘い、旨い! この無限の連鎖……箸が、箸が止まらん!」
彼は次に『たまご』を口にした。
白身のプリプリとした食感と、ホクホクの黄身。
黄身が出汁に溶け出し、まろやかなスープへと変化する。
「うまい……なんだこれは、うますぎる……! 王宮のフルコースなど、この大根一切れに比べれば家畜の餌だ!」
大臣は夢中で器を空にし、最後には一滴残らず汁を飲み干した。
そして、「はっ」と我に返る。
周囲には、呆れ顔の辺境騎士たちと、冷徹な目をしたクライド様。
「……満足か?」
クライド様が静かに告げる。
「貴様が『泥水』と呼んだものの価値は、その舌が一番理解したはずだ。……リリアナの商品は、王家の宝物庫にあるどんな財宝よりも価値がある。それを理解できない愚か者に、この店に来る資格はない」
「ひっ、ひぃっ……!」
「失せろ。二度と私の領地に足を踏み入れるな。次は氷像にして店の前に飾るぞ」
ザッ!と氷の冷気が強まる。
大臣と王宮騎士たちは、もはや反論する気力もなく、「お、覚えていろー!」という三流悪役の捨て台詞を残して、雪の中へ転がるように逃げ去っていった。
◇
嵐が去り、店内に静寂が戻る。
「やったー! おでんが守られたぞー!」
「ざまぁみろ王宮の豚どもめ!」
辺境騎士たちが歓声を上げ、ハイタッチを交わしている。
ガイル副団長が私に駆け寄ってきた。
「店長殿、ご無事ですか! いやぁ、団長が間に合ってよかった! 俺たちだけでは手が出せないところでしたから」
「ええ、本当に……。ありがとうございます、皆さん」
私は深々と頭を下げた。
騎士たちは「いいってことよ!」と笑い、そして空気を読んだのか、ガイル副団長が「よし、俺たちは外の見回り強化だ! ここは団長に任せろ!」と号令をかけ、全員を連れて店を出て行ってくれた。
店内に残されたのは、私とクライド様だけ。
クライド様は、入り口のドアを見つめたまま、ふぅ、と長く重い息を吐いた。
纏っていた冷気が霧散し、いつもの彼に戻っていく。
「……怖がらせてしまったな、リリアナ」
彼は振り返り、すまなそうに眉を下げた。
先ほどまでの絶対強者の覇気はどこへやら、今は雨に濡れた大型犬のような心細さを漂わせている。
「あの男、君に触れようとしただろう。本当は、あの腕を氷漬けにして砕いてやりたかったのだが……店を汚すわけにはいかないから、我慢した」
さらりと怖いことを言うけれど、その瞳は私の無事を案じて揺れている。
「いいえ、助かりました。本当に……クライド様がいなかったら、どうなっていたか」
「君を守るのは私の役目だと言っただろう。……それに」
彼はカウンターに歩み寄り、じっと私の顔を覗き込んだ。
「あいつらに、君の料理を奪われるなんて耐えられない。君の作るものは、全て私が一番に味わう権利があるはずだ」
「ふふ、独占欲が強いですね」
「ああ、自覚している。……それで、リリアナ。その、報酬を頂けないだろうか」
「報酬、ですか?」
「悪人を追い払った騎士には、姫君からの褒美が必要だと物語には書いてある」
彼は少し頬を染め、期待に満ちた目でレジ横の新しい機械を見つめた。
それは、昨日導入したばかりの『ソフトクリームサーバー』だ。
「……目ざといですね。導入したばかりなのに」
「あの白い渦巻きの看板を見た時から、気になって夜も眠れなかったんだ」
眠れてないじゃないですか。
私は苦笑しながら、コーンを手に取った。
「分かりました。特大サービスしておきますね」
ウィーン。
機械から、滑らかな白いクリームが抽出される。
バニラの甘い香りが漂う。
私は技術の粋を凝らして、美しい三段巻きのソフトクリームを作り上げた。
「はい、どうぞ。濃厚バニラ味です。溶けやすいので気をつけてくださいね」
「おお……」
クライド様は、まるで聖杯を受け取るかのように両手でソフトクリームを受け取った。
「美しい……。雪のようだが、もっと柔らかく、光沢がある。これが食べ物なのか?」
「舐めてみてください」
彼は恐る恐る、先端の尖った部分に舌を伸ばした。
ペロリ。
「ッ……!!」
彼の銀色の睫毛が震える。
「冷たい……! 雪を食べているようだ。だが、その直後に広がる、この濃厚なミルクの風味はなんだ!? 牛乳を千倍に濃縮して、雲と蜂蜜を混ぜたような……!」
「北海道産の生乳を使ってますからね」
「ホッカイドウ……そこは神の住む土地か?」
彼は夢中で舐め続ける。
冷たくて甘い刺激に、彼の表情がとろとろに溶けていく。
部下に見せたら、威厳崩壊間違いなしの蕩け顔だ。
「ん……甘い。疲れた体に染み渡るようだ。……んっ」
あ。
彼が夢中で食べているせいで、溶け出したクリームが指の方へ垂れてしまった。
「あ、クライド様、溶けてます!」
私がティッシュを取ろうとした瞬間。
彼は何を思ったのか、クリームが垂れた自分の指を、私の目の前で口に含んだ。
チュッ。
「……っ!」
色気のある音が響く。
彼は私の視線に気づき、指を口から離すと、ペロリと唇を舐めた。
「……すまない。一滴たりとも無駄にしたくなくて」
悪気はない。
全くの無自覚だ。
でも、その仕草と、潤んだ瞳で見つめられる破壊力は、心臓に悪すぎる。
「うぅ……クライド様、それは反則です……」
「? 何か言ったか?」
「なんでもありません! とにかく、早く食べてください!」
私は顔が熱くなるのを誤魔化すように、カウンターの下に隠れた。
この人は、本当に天然なんだから。
◇
二人の間に流れる、甘く穏やかな時間。
ソフトクリームを食べ終えたクライド様は、とても幸せそうだった。
「リリアナ。私は君と、この店に出会えて本当に良かった」
「私もです。クライド様が最初のお客様で良かった」
「……この平穏が、ずっと続けばいいのだが」
彼がふと、窓の外の雪景色に視線を向けた、その時だった。
バサササササッ!!
激しい羽音と共に、一羽の白いフクロウが自動ドアのセンサーを強引に突破して飛び込んできた。
フクロウは真っ直ぐにクライド様の肩に止まる。
その足には、緊急事態を知らせる赤い手紙が結ばれていた。
「これは……王都からの伝令使い魔?」
クライド様の表情が一瞬で引き締まる。
手紙を開封し、目を通した彼の顔色が、見る見るうちに蒼白になっていく。
「クライド様……?」
「……馬鹿な」
彼は信じられないというように呟き、手紙を握り潰した。
「王都で……『スタンピード(魔物の大暴走)』が発生したらしい」
「えっ!?」
「しかも、原因は『聖女の結界消失』。……王太子とマリアが、結界維持のための魔導具を私物化し、破壊したそうだ」
「そんな……!」
マリアの光魔法は、見かけ倒しだ。
今まで王都の結界を維持していたのは、実は私の『収納魔法』による魔力供給と、父が管理していた古代魔導具のおかげだった。
私を追放し、魔導具まで壊してしまっては、王都は無防備な肉塊も同然だ。
「王都は半壊状態。国王陛下は重傷。……そして」
クライド様は苦渋の表情で、私を見た。
「生き残った王太子ジェラルドとマリアが、近衛騎士団を引き連れて、この辺境へ向かっているそうだ。『聖女であるマリアには、辺境の安全な土地こそがふさわしい』などとほざいてな」
最悪の元婚約者と義妹が、災害を引き連れてやってくる。
私の平穏なコンビニ生活に、最大の危機が迫っていた。
「逃げるぞ、ジェラルド! あの田舎にはリリアナがいるはずだ! あいつを盾にすれば、魔物も手を出さないだろう!」
「ええ、そうしましょう! ついでにあの店もドレスも、全部私のものにしてやるわ!」
遠く離れた街道で、馬車を走らせる二人の醜悪な叫び声が、風に乗って聞こえてくるようだった。
「……来るなら来ればいい」
私はカウンターに手をつき、強く前を見据えた。
「私の店と、私のお客様は、指一本触れさせません。……たとえ相手が王太子でも、出入り禁止にするだけです!」
私の目には、怒りの炎が灯っていた。
そしてその横には、頼もしい最強の騎士様がいる。
「ああ。私も全・力・で、迎撃しよう」
クライド様が、獰猛な笑みを浮かべる。




