第27話:【第2部完】さようなら、氷室先輩
営業第3課の自席で、俺はパソコンの画面を凝視したまま固まっていた。
表示されているのは、月初めに更新される社内掲示板の『人事異動発令一覧』だ。
いつもなら流し見するだけの、平社員の俺には無関係なリスト。
だが、その中段に記された淡々とした文字列が、俺の心臓を鷲掴みにした。
『経理部 氷室 来週付で、パラオ支社へ出向を命ず』
その一行を見た瞬間、俺、凡田の思考は完全に停止した。
氷室先輩がいなくなる?
それはつまり、俺の借金がチャラになるということか?
いや違う。
俺の人生のセーフティーネットが消滅することを意味している。
これからは、あの理不尽な会議も、終わらない残業も、すべて自力で解決しなければならないのか。
俺の心の中に広がったのは、開放感ではなく、頼る親を失った子供のような心細さだった。
そんな絶望に沈む俺の背後に、いつものように気配もなくあの人が立った。
「やあ、凡田君、借金の催促なんだが、累計、51,300円だな。返済は出来そうなのか?」
振り返ると、そこには赤い手帳を持った氷室先輩がいた。
いつもなら恐怖の取り立てタイムだが、今日ばかりはその冷静な声が、どこか寂しく響く。
「先輩……パラオ支社に行くって本当ですか」
「ああ。人材交流の一環だ。南国の日差しは苦手だが、向こうの支社近くには、現地のタロイモを使った絶品の羊羹があるらしい」
前髪の隙間から覗く切れ長の鋭い瞳で、淡々と語る。
だが、その手にはしっかりと『赤い手帳』が握られていた。
「私が不在の間、君が一人でやっていけるか心配でね。どうだ、向こう数ヶ月分のトラブルを先送りにして、私の帰国後に爆発させるようなチートスキル『不運累積式時限爆弾』でも貸しておこうか?」
「それ、ただの問題先送りですよね!? 最後に爆発するなら意味ないじゃないですか!」
先輩が手帳に手をかける。
いつもなら、俺は尻尾を振ってそのチート能力にすがりついていただろう。
楽をして、適当にやり過ごして、また借金を重ねる。
それが俺の日常だった。
……でも、最後くらいは先輩に安心してもらいたい。
今まで散々迷惑をかけてきた分、少しは成長した姿を見せて送り出したい。
俺の中に、珍しく熱いものが込み上げてきた。
「いりません!」
俺は大声で叫んでいた。
フロア中の視線が集まる。
聖奈さんが驚いた顔でこちらを見ている。
泥川主任が「ホワット?」と間の抜けた声を上げた。
「俺、やりますよ。先輩がいなくても、自分の力だけで、立派に営業成績を上げてみせます。だから、そんな手帳しまってください!」
「……ほう」
氷室先輩は、俺の言葉にわずかに目を見開いた。
そして、俺の決意に含まれる「努力」の気配を感じ取ったのか、ゆっくりと赤い手帳を閉じた。
その口元が、わずかに緩んだように見えた。
「いいだろう。その意気込み、見せてもらおうか」
こうして、俺の人生初での「ガチ営業」が始まった。
ターゲットは、営業3課が長年攻めあぐねている『頑固建設』の社長だ。
その名の通り頑固一徹で、泥川主任の横文字営業を「日本語で話せ!」と
一蹴し、塩をまいたという伝説の強敵である。
俺は、泥川主任が作成した「エビデンス」満載の分厚い資料を
ゴミ箱に捨てた。
代わりに用意したのは、筆ペンと巻紙だ。
IT全盛のこの時代に、あえて手書きの手紙を書く。
足繁く通い、門前払いを食らい、雨の日も風の日も、ただひたすら誠意だけを伝え続けた。
「凡田さん、頑張って! 私、神社で必勝祈願のお守り買ってきました!」
聖奈さんの応援だけが心の支えだ。
あのお守りがなかったら、3日目で心が折れていただろう。
残業もした。
休日も返上して社長の趣味である盆栽の勉強もした。
もちろん、異次元収納も時間停止も使っていない。
ただひたすら、泥臭く頭を下げ続けた。
そして、先輩が出発する前日。
ついに頑固社長の重い口が開いた。
「……最近の若者にしては、骨がある。お前のその熱意に負けたわい」
契約書にハンコが押された瞬間、俺は思わずその場で男泣きした。
鬼塚課長は口をあんぐりと開けて固まり、
泥川主任は「アンビリーバボー……イリュージョンだ……」と呟いて、
持っていたコーヒーを自分のズボンにこぼした。
* * *
翌日。
成田空港の国際線出発ロビー。
俺は聖奈さんと一緒に見送りに来ていた。
「やりましたよ、先輩! 大型契約、取りました!」
「ああ、聞いている。泥川主任が悔しがって、昨日は早退したそうだな。見事だ、凡田君」
先輩は搭乗口の前で立ち止まり、俺の方を向いた。
その表情は、いつもの冷徹な債権者の顔ではなく、成長した部下を見守る優しい先輩としての顔だった。
「君ならできると思っていたよ。これでもう、私がいついなくなっても大丈夫だな」
「先輩……っ! 今まで、本当にありがとうございました!」
俺の目から涙が溢れて止まらない。
借金のことはこの際どうでもいい。
この人は、俺のようなダメ社員を見捨てずに、ずっと更生させようとしてくれていたんだ。
最高の先輩だった。
魔王なんて呼んでごめんなさい。
「……元気でな、凡田君」
先輩は背を向け、ゲートの向こうへと消えていった。
ガラス越しに見える飛行機が、青い空へと飛び立つ。
さようなら、氷室先輩。
俺、もっと立派な社畜になります。
だから、南の島でゆっくり休んでください。
* * *
感動の別れから一夜明け、俺は新たな気持ちで出社した。
先輩はもういないんだ。
今日からは、俺がこの会社を守る……わけではないが、
とにかく真面目に働こう。
先輩との約束を守るために。
仕事は順調だった。
頑固社長との契約のおかげで、社内の評価も少し上がった気がする。
そして、定時の時間がやってきた。
――キーンコーンカーンコーン――
オフィスのスピーカーから、業務終了を告げるチャイムが鳴り響く。
よし、今日は定時退社だ。
家に帰って、先輩の無事を祈りながら、一人で祝杯でもあげよう。
そう思って席を立った時だった。
「やあ、凡田君、借金の催促なんだが、累計、51,300円だな。返済は出来そうなのか?」
聞き覚えのある、低く落ち着いた声。
そして、視界の端に映る、見慣れた黒いスーツと赤い手帳。
「……へ?」
俺は首が折れる勢いで振り返った。
幻聴か?
いや、幻覚か?
そこには、ほんのり健康的に日焼けし、
手には『パラオ限定・タロイモ羊羹』を持った氷室先輩が立っていた。
足元には、なぜか白い砂がついている。
「ひ、ひひひ、氷室先輩!? なんで!? 昨日、飛行機で……! パラオは!? え、お化け!?」
「失礼な。ちゃんと生身の人間だ。ほら、お土産の羊羹だぞ」
先輩は当たり前のように言いながら、俺のデスクに羊羹を置いた。
俺はパニックで過呼吸になりそうだ。
「だ、だって、海外赴任中じゃ……!」
「ああ。向こうの定時は17時でね。日本との時差はないから、あちらの業務を終えてすぐに戻ってきた」
先輩は赤い手帳をパラリとめくる。
そこには、見慣れない幾何学模様の魔法陣が描かれたページが開かれていた。
「チートスキル『異次元ゲート』だ。これを使えば、支社長室の扉と、ここの給湯室の扉を直結できる。通勤時間はゼロだ。素晴らしいだろう?」
「つ、通勤……!? パラオから通勤してるんですか!?」
「ああ。向こうの宿舎なんだがな、どうやら衛生管理が甘いらしくてね……本当は、チートスキルを業務で使いたくないのだがね」
先輩の表情が、一瞬にして凍りついた。
その瞳の奥に、深い恐怖の色が浮かぶ。
「……出たんだよ。ネズミが」
「えっ」
「しかも、私が今まで見たこともないような大きさの、南国特有の巨大なヤツが……!」
先輩は身震いをした。
キャラが崩壊するほどの恐怖だったらしい。
「あんな環境で眠れるわけがないだろう! だから私は決めたんだ。仕事はパラオでこなすが、寝食は日本で行うと!」
「そんな理由で国境を越えないでくださいよ!」
俺の涙を返せ。
俺の昨日の決意を返せ。
あと、その日焼け、1日で焼けるレベルじゃないですよね!?
絶対ビーチで遊んでましたよね!?
「あ、あの……じゃあ、これからも毎日来るんですか?」
「当然だ。君が借金を完済するまで、私は例え地球の裏側にいようとも回収に来るつもりだ」
先輩はニッコリと、悪魔のように微笑んだ。
俺はその場に崩れ落ちた。
どうやら、魔王からは逃げられない運命らしい。
でも、不思議と心は満たされていた。
■今回の収支
借金総額:51,300円(変動なし)
得たもの:仕事に対する自信と実績、パラオ産のタロイモ羊羹
失ったもの:空港で流した涙と、先輩への畏敬の念(全損)
(第二部:完)
【作者あとがき】
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
凡田君と氷室先輩のドタバタな借金生活、これにて第二部・完結となります。
続きの構想もありますが、ここで一区切りとなります。




