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第16話:チートスキル『変身(メタモルフォーゼ)』

「あー、猫になりたい……」


 午後3時の昼下がり。

 俺、凡田はデスクで虚空を見つめて呟いた。


 目の前のPC画面には、MyTubeで再生した『生後3か月のマンチカンがただ寝ているだけの動画』が映し出されている。

 再生回数300万回。


 この猫は、寝ているだけで人間に癒しを与え、そして飼い主に莫大な広告収入をもたらしている。

 それに引き換え、社畜の俺はどうだ。


「おい凡田クン! この企画書の『コンセンサス』が取れてないよ。これじゃ『サステナブル』な成長が見込めない。今すぐ先方の担当者を『アサイン』して『フィックス』させてきて」


 泥川主任が、横文字だらけの無意味な指示を飛ばしてくる。

 働いても働いても、金も増えなきゃ癒しも生まない。

 やはり、来世を待たずに今すぐ猫になるしかない。


 俺は現実逃避という名の給湯室へ向かった。


 給湯室では、氷室先輩が桐箱入りの『虎屋の夜の梅』を、定規で測ったような正確さで等分していた。


「先輩……助けてください。俺、人間をやめたいんです」


 黒いスーツの先輩は、羊羹を一切れ口に運び、至福の表情を一瞬だけ浮かべた後、冷徹な瞳を俺に向けた。

 そして懐から赤い手帳を取り出す。


「それより、凡田君、借金の催促なんだが、累計、『51,300円』だな。返済は出来そうなのか?」


「無理です! 今の俺はストレス過多で生産性ゼロです。でも聞いてください、先輩! 俺が目指しているのは『社内メンタルヘルス改革』のための『努力』なんです!」


「……ほう」


「殺伐としたオフィスに必要なのは癒し……つまりアニマルセラピーです。俺自身が愛くるしい小動物となり、社員の心を癒すことで、会社の業績をV字回復させる……これぞ、身を削った究極の献身、『捨て身の努力』と言えませんか!」


 氷室先輩は、俺の『努力』という言葉を聞くと、赤い手帳のページをめくりはじめた。


「これを貸そう。ただ、このスキルは精神状態に左右されやすい。外部からの強いショックを受けると強制解除される欠陥があるから気をつけることだ」


 渡された紙片には『変身メタモルフォーゼ』の文字。


「イメージした生物の姿と能力を得るスキルだ。ただし、汚れた姿で私の半径2メートル以内に近づかないように。動物の毛やダニは私の美学に反する」


「ありがとうございます! 俺は綺麗な小動物になりますから!」


 自席に戻った俺は、誰にも見られないよう資料室へ忍び込んだ。

 そして強く念じる。


(なれ! 世界一愛くるしい、茶トラの子猫に!)


 ボンッ!


 視界が低くなる。

 手足がモフモフになる。

 鏡を見ると、そこにはあざといくらいに可愛い子猫がいた。

 完璧だ。

 俺は「ニャ~(お疲れ様です)」と鳴きながら、オフィスへと繰り出した。


「きゃああっ! 何この子、かわいいーっ!!」


 効果は絶大だった。

 営業3課のマドンナ、聖奈さんが悲鳴に近い歓声を上げて俺(猫)を抱き上げた。

 柔らかい感触。

 甘い香り。

 ここは天国か? いいえ、聖奈さんの膝の上です。


「どこの子かしら? 迷い込んだの? よしよし」


 聖奈さんが俺の喉を撫でる。

 ゴロゴロゴロ……。

 俺の意思とは無関係に、喉が喜びの音を奏でてしまう。

 これが本能か。

 思考がトロトロに溶けていく……。


「おいおい、なんだその汚い猫は。仕事の邪魔だ、シッシッ!」


 泥川主任が近づいてきた。

 この男、動物嫌いか。

 俺(猫)に向かって革靴のつま先を向けてきやがる。

 チャンスだ。

 俺は「不当な暴力に対する正当防衛」という大義名分を得た。


 フギャッ!(天誅!)


「あだっ!? こ、この駄猫! ミーのイタリア製パンツに爪を立てたな!?」


 俺は素早く主任の足に噛みつき、爪を立てて駆け抜けた。

 ざまあみろ。


「泥川主任! こんな小さい子を蹴ろうとするなんて最低です!」

「泥川君。動物愛護は今の時代の『トレンド』だぞ?」


 聖奈さんと、なぜか便乗してきた鬼塚課長に責められ、泥川主任が小さくなる。

 勝った。

 俺はオフィスの王になったのだ。

 仕事もしないで、聖奈さんに撫でられ、課長が高いおやつを買ってきてくれる。

 これぞ、俺が求めていた理想の社畜ライフ……!


 だが、楽園の崩壊は唐突に訪れた。

 聖奈さんが、俺の体を持ち上げて、しげしげと観察し始めたのだ。


「あれ? この子、男の子だわ」


 ドキッとした。

 中身はあなたの同期の男性です。


「どうしよう……男の子なら、今すぐ病院に行かないと!」


 え? 病院? どこか悪いのか俺?


「実家の猫ちゃんもそうだったけど、発情期になるとスプレー行為でお部屋中におしっこしちゃうのよね……。私、あのアンモニア臭だけは絶対に無理なの! この子の将来のためにも、飼うなら責任を持って『去勢』しなきゃ!」


 は?


「あそこの動物病院、午後の診察受付は16時までだわ! あと15分しかない! 急げば間に合う!」


 待て。

 待ってくれ。

 俺は人間だ。

 スプレー行為なんてしない!

 トイレの場所くらいわきまえている!


 だが聖奈さんの目は本気だ。

 お気に入りのブランドバッグを汚されたくないという、鬼気迫る決意を感じる。

 15分後には、俺の遺伝子が断絶する!?


(やめろー! 俺は凡田だー!!)


「ニャー! フギャー!!(俺のタマは渡さん!!)」


 俺は聖奈さんの腕から必死に飛び出した。

 全力逃走だ。

 男としての尊厳を守るための、人生最大級のダッシュ。


「あっ、待って! 逃げないでー! 痛いのは一瞬だけだからー!」


 一瞬でも嫌だ!

 俺はデスクの下を潜り抜け、廊下へと飛び出した。

 その瞬間だった。


 カツ、カツ、カツ。

 規則正しい冷ややかな足音が、廊下の向こうから近づいてくる。

 黒いスーツの魔王、氷室先輩だ。


(先輩! 助けてー! タマが大ピンチなんです!)


 俺は救いを求めて先輩の足元へ駆け寄った。

 しかし。

 氷室先輩は、足元にすがりつく俺(猫)を見下ろし、眉ひとつ動かさずに言った。


「……警告したはずだ。私の半径2メートル以内に、不衛生なけだものが立ち入るなと」


 先輩の手には、いつの間にか業務用の『強力除菌スプレー(アルコール77%)』が握られていた。


「消毒だ」


 シュバッ!


 先輩が容赦なくスプレーを噴射してきた。

 高濃度のアルコールミストが、敏感な猫の鼻と目に直撃する。


「フギャアアア!!(目に染みるぅぅ!!)」


 強烈な刺激臭と冷たさ。

 そのショックは、先輩が最初に言っていた「外部からの強いショック」そのものだった。

 スキルの維持構造が、音を立てて崩壊する。


 ボンッ!


 廊下の真ん中で、茶トラの子猫が、質量保存の法則を無視して体重60キロの男性へと置換される。


「……あっ」


 勢いよく走っていた慣性は、そのまま人間に引き継がれた。

 俺の体は、廊下を走ってきた聖奈さんの目の前に、無様なヘッドスライディングを決めた。

 四つん這いの体勢で。

 変身解除の衝撃で、スーツのお尻の部分が盛大に裂け、イチゴ柄のパンツが露出した状態で。


「……え? 凡田さん?」


 聖奈さんが足を止める。

 そして、騒ぎを聞きつけた泥川主任と鬼塚課長もやってきた。


 最悪の状況だ。

 だが、俺のパニック状態の脳みそは、まだ状況の急変に追いついていなかった。

 人間としての言い訳を考えるより先に、直前の「猫としての生存本能」が口をついて出た。


「……ニャ、ニャー……?(こ、これは違うんです……)」


 四つん這いの20代男性(イチゴ柄パンツ)による、精一杯の猫のモノマネ。

 それは冷房の効いた廊下を、絶対零度まで凍りつかせた。


「……凡田さん。疲れてるなら休んでいいよ。……永遠に」


 聖奈さんの引きつった笑顔が、俺の社会的な死刑宣告だった。


 その後、俺は「就業時間中に廊下で奇行に及び、著しく職場の風紀を乱した」として、鬼塚課長から始末書の提出を求められた。

 泥川主任からは「精神鑑定を受けたほうがいい」と本気で心配され、聖奈さんからは「猫ちゃんがいなくなったと思ったら、変態が現れた」という軽蔑の眼差しと共に、完全に無視されるようになった。


 給湯室で、氷室先輩が俺に高級羊羹を恵んでくれた。


「……先輩、涙で羊羹がしょっぱいです」


 俺は泣きながら、猫だった頃の本能が抜けず、羊羹の包み紙についた甘い香りを無意識に舐めていた。


■今回の収支

借金総額:51,300円

(※変動なし。治療費・スーツ修繕費は自腹)

得たもの:猫だった頃の数分間の天国、聖奈さんの膝の感触

失ったもの:スーツのズボン、聖奈さんからの信頼、社内での人間としての尊厳

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