第12話:チートスキル『透明化(インビジブル)』
「凡田クン、この案件のエビデンスなんだけどさあ、ちょっとウィークだよねえ」
昼下がりの営業第3課。
昼食後の強烈な眠気と戦う俺の耳元で、不快な羽音のような声が響いた。
声の主は、泥川主任だ。
彼は、中身のない横文字を羅列しては、俺のデスクの周りをうろちょろしている。
「クライアントのベネフィットを最大化するためにも、もう一度アジェンダをフィックスし直してよ。フルコミットで頼むよ、フルコミットで。アグリー?」
アグリーじゃねえよ、アグリー(醜い)なのはその性格だけにしてくれ。
俺は心の中で毒づきながら、曖昧な愛想笑いを浮かべた。
目の前には、鬼塚課長からの無茶振りと、泥川主任からの無意味な修正指示で積み上がった書類の山。
ああ、逃げたい。
この理不尽な現実から消え去ってしまいたい。
もしも俺が透明人間になれたら、この鬱陶しい上司たちの目を盗んで、サボり放題……いや、彼らに日頃の恨みを晴らすイタズラをしてやれるのに。
そんな妄想に耽っていた、その時だった。
「やあ、凡田君、借金の催促なんだが、累計、51,300円だな。返済は出来そうなのか?」
背後からかけられた涼やかな声に、俺は心臓が止まりそうになった。
振り返ると、そこには黒いスーツを完璧に着こなした経理部の魔王こと、氷室先輩が立っていた。
いつものように、その手には『赤い手帳』が握られている。
「ひ、氷室先輩……! ちょうど良い時に、実はその……」
俺がしどろもどろになっていると、先輩は眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。
「どうしたんだい? 君の顔には『現状から逃避したい』と書いてあるぞ」
「うっ……実は、泥川主任たちの監視が厳しくて、仕事に集中できないんです。
物理的に姿を消すことができれば、余計な雑音を遮断して、業務効率を極限まで高める『努力』ができると思うんですが……」
俺はイチかバチか、『努力』というキラーワードを口にした。
すると、先輩の表情がわずかに動く。
「……ほう」
氷室先輩は、俺の「努力」という言葉に反応したのか、赤い手帳のページをめくりはじめた。
パラパラと紙が擦れる音が、静かな威圧感となって響く。
「姿を消して、業務に没頭する。
なるほど、視覚情報を遮断することで集中力を高めるメソッドの一種か。
その発想は悪くない」
先輩は納得したように頷くと、手帳のページを1枚、ビリリと破り取った。
その紙片が光の粒子となって、俺の体に吸い込まれていく。
「今回貸し出すのは『透明化』だ。
発動すれば、君の肉体および着用している衣服は完全に可視光線を透過する。
ただし、質量が消えるわけではないから注意しろ」
「あ、ありがとうございます!」
「このスキルを悪用して被害が発生した場合の損害は、借金として計上する。ルールを守って正しく使うようにな」
先輩はそう言い残すと、颯爽と経理部へと戻っていった。
俺は誰もいなくなった給湯室へ駆け込み、早速スキルを発動させた。
鏡を見ると、そこには誰も映っていない。
成功だ。
俺は完全に透明人間になったのだ。
「へへっ、これで俺は自由だ! まずは手始めに……」
俺は透明な体のまま、執務室へと戻った。
泥川主任は相変わらず、部下の女子社員に「シナジーがどうこう」と説教をしている。
俺は忍び足で彼の背後に近づいた。
そして、彼が手に持っていたホットコーヒーのカップを、そっと、5センチほど横にずらした。
「よし、アグリーな結論を……ん?」
泥川主任がコーヒーを飲もうと手を伸ばすが、そこにあるはずのカップがない。
空振った手が虚空を掴む。
「あれ? マイ・コーヒーは? ロスト?」
彼は首を傾げながら、ずれた位置にあるカップを二度見した。
俺は笑いを堪えながら、今度は彼のデスクにある「重要書類」の山を、一番下から1枚だけ抜き取って、隣の鬼塚課長のデスクの上にそっと置いた。
「おい泥川! なんだこの書類は! これじゃ数字が合わんだろうが!」
「えっ!? ホワイ? なぜ課長のデスクに……! ミーは確かにファイリングしたはずなのに! これじゃ私のコンプライアンスが!」
混乱する泥川主任と、怒鳴る鬼塚課長。
その滑稽な様子を特等席で眺める優越感。
最高だ。
これが俺の求めていた職場環境だ。
しばらく社内を徘徊してイタズラを楽しんだ後、俺は小腹が空いたことに気がついた。
そういえば、さっき給湯室の冷蔵庫に、誰かの差し入れらしき高級そうな箱があったな。
透明な今の俺なら、つまみ食いをしてもバレないはずだ。
俺は意気揚々と給湯室へ向かった。
給湯室のドアは少しだけ開いていた。
中を覗くと、そこには意外な人物がいた。
氷室先輩だ。
先輩は誰もいない給湯室で、幸せそうな顔をして、虎屋の高級羊羹を食べていた。
クールな先輩の、あんな無防備でとろけそうな笑顔は初めて見る。
頬を紅潮させ、至福の時を噛み締めている。
(へえ、先輩ってば、あんな顔して甘いもの食べるんだ……レアすぎる)
俺の中に、ふとイタズラ心が芽生えた。
いつも冷静沈着な先輩を、少しだけ驚かせてやりたい。
透明な俺が、耳元で「わっ!」と囁いたら、どんな顔をするだろうか。
俺は息を殺して、先輩の背後へと忍び寄った。
距離はあと1メートル。
その時、俺の足が床に落ちていた小さな輪ゴムを踏んでしまい、キュッと音が鳴った。
瞬間、先輩の動きが止まる。
至福の笑顔が一瞬で消え去り、爬虫類のような冷酷な視線が虚空を射抜いた。
「……気配はするが、姿が見えない。まさか……ネズミか?」
ヒィッ!
俺は音なき悲鳴を上げた。
先輩の「ネズミ」という呟きには、明確な殺意が込められていた。
そして先輩は、迷わず給湯室の隅にあった「床掃除用のデッキブラシ」をひっ掴んだ。
(えっ、ちょっ、先輩!? それは鈍器です!)
先輩は完全に目が据わっている。
理知的な瞳は消え失せ、そこにあるのは害獣駆除人の狂気のみ。
「チートスキル『剣聖』発動っ! 私の聖域を汚す害獣め……駆除してやる!!」
ブォン!!
凄まじい風切り音と共に、デッキブラシが空を裂く。
俺は這々の体で給湯室を飛び出した。
心臓が破裂しそうだ。
危なかった。
あの人はマジだ。
ネズミ相手に本気でフルスイングする人だ。
俺は安全地帯である執務室に逃げ帰った。
執務室に戻ると、状況はさらに面白くなっていた。
さっきの書類移動の件が引き金となり、鬼塚課長による泥川主任への説教タイムが始まっていたのだ。
「いいか泥川! お前の管理はどうなっているんだ! エビデンスだのアグリーだの言う前に、机の上を整理しろ!」
「ソ、ソーリーです課長! でも本当に、書類が勝手にテレポートしたとしか……ポルターガイスト!」
「言い訳をするな!」
課長の怒声が響く。
俺はその様子を、二人のすぐそば、まさに特等席で見物することにした。
鬼塚課長と泥川主任の間、距離にしてわずか50センチの至近距離に立ち、腕組みをしてニヤニヤと眺める。
これぞ透明人間の特権。
誰にも邪魔されず、高みの見物ができる。
「へへっ、もっとやれー」
俺が心の中で野次を飛ばした、その時だった。
鬼塚課長のボルテージが最高潮に達した。
「だいたいお前はなぁ! いつも詰めが甘いんだよ!」
課長が勢いよく右手を振り上げた。
握りしめられた拳には、血管が浮き出ている。
あ、すごい迫力。
泥川主任、ビビってるなあ。
……ん?
待てよ。
その振りかぶった角度、そして振り下ろそうとしている軌道。
そこには今、透明な「俺」がいるのでは?
(あ、これ当た――)
俺が事実に気づいた瞬間、課長の拳は情熱的なジェスチャーと共に振り下ろされた。
ズゴォッ!!
「ぐぇええっ!!??」
俺の口から、踏み潰されたカエルのような悲鳴が飛び出した。
鳩尾にめり込む課長の鉄拳。
あまりの衝撃と激痛に、意識が飛びかけ、スキルの集中力が完全に切れる。
シュゥゥ……と空気が歪み、何もない空間から、腹を押さえてのたうち回る俺が忽然と姿を現した。
「……え?」
振り下ろした拳の先に突然現れた部下を見て、鬼塚課長が固まる。
目の前で突然実体化した同僚を見て、泥川主任が目を剥く。
「ぼ、凡田!? お前、どこから湧いて出た!?」
「あ、ぐ……か、課長の拳が……胃に……」
「ワ、ワッツ? 凡田クン、ずっとそこにいたの? インビジブル?」
泥川主任が訳のわからないことを口走る中、騒ぎを聞きつけた氷室先輩が、いつの間にか入り口に立っていた。
その手にはデッキブラシ……ではなく、いつもの『赤い手帳』が握られている。
「やれやれ。姿を消しても、その詰めへの甘さまでは消せなかったようだな」
先輩は冷ややかな目で俺を見下ろした。
――キーンコーンカーンコーン――
無情にも、定時を告げるチャイムが鳴り響く。
俺はその日、みぞおちの激痛に耐えながら、鬼塚課長の説教という、地獄のような残業時間を過ごすことになった。
透明になっても、世の中の理不尽からは逃れられないのだと、俺は痛感するのだった。
■今回の収支
借金総額:51,300円(変動なし)
得たもの:束の間の全能感、先輩の幸せそうな笑顔(激レア)
失ったもの:胃の健康、定時退社、社内での信用




