第11話:チートスキル『瞬間移動(テレポート)』
日本の朝、それはディストピアだ。
乗車率200%の通勤電車。
俺の顔面は、窓ガラスと見知らぬ中年男性の背中の間でプレスされ、新種の深海魚のような形状に変形していた。
右足は誰かのヒールで貫かれ、左足は誰かの革靴で粉砕されている。
鼻孔をくすぐるのは、昨晩のアルコールと朝のコーヒーが胃液とが混ざり合った、おっさん特有の呼気。
湿度90%の車内は、もはや人間の尊厳を蒸発させる圧力釜だ。
「(……帰りたい。まだ改札すら出てないけど)」
営業第3課の自席に辿り着いた頃には、俺、凡田のライフポイントはマイナスに振り切れていた。
デスクに突っ伏し、泥のように動かずにいると、背後でカツ、カツ、と氷の破片が落ちるような足音が響いた。
室温が、物理的に2度下がる。
「やあ、凡田君、借金の催促なんだが、累計51,300円だな。返済は出来そうなのか?」
見上げれば、そこには経理部の魔王こと、氷室先輩が立っていた。
仕立ての良いブラックスーツに、絶対零度の視線。
手には死刑執行リストのような赤い手帳。
「せ、先輩……! もう限界です! この通勤地獄が、俺という大器の完成を阻んでいるんです!」
「……ほう?」
「通勤地獄、満員電車の刑さえなければ! 俺はその時間を高尚な自己研鑽に充て、日本のGDPを押し上げる『努力』ができる男なんです!」
俺が口走った『努力』という単語に、先輩の眼がキラリと光った。
先輩は手帳をめくり、バリィッ! と鼓膜に心地よい音を立ててページを破り捨てる。
「このスキルを貸し出そう。もし、悪用して被害が発生した場合の損害は、借金として計上する。ルールを守って正しく使うようにな」
渡された紙片には、複雑な幾何学模様と共に『瞬間移動』と記されていた。
「座標をイメージすれば、物理法則を無視して移動できる。貸出期限は金曜の朝9時まで。……せいぜい、時間を有効活用したまえ」
そう言い残し、先輩は冷気を纏ったまま去っていった。
俺は震える手で紙片を握りしめる。
勝った。
俺の社畜人生に、革命が起きたのだ。
◇
水曜日。
俺は世界を支配した王の気分で目覚めた。
時刻は8時50分。
本来なら遅刻確定の絶望的な時間だが、今の俺には神の力がある。
優雅にコーヒーを啜り、イメージするのは会社の最寄りにある公園の多目的トイレだ。
「テレポート」
世界が反転する感覚。
次の瞬間、俺は公園の個室にいた。
徒歩3分で出社。
肌艶は最高。
タイムカードは始業30秒前。
「凡田さん、なんだか今週は生き生きしてますね」
隣席のマドンナ、聖奈さんが微笑む。
「ええ、朝の時間を『朝活』に充ててましてね」
嘘ではない。
二度寝という活動だ。
木曜日。
人間とは、易きに流れる生き物である。
浮いた2時間で資格の勉強?
まさか。
俺は深夜3時までソシャゲの周回に勤しみ、早朝まで動画サイトで「人生一発逆転するための1000の方法という動画」を見続けた。
どうせ一瞬で着くのだ。
ギリギリまで自堕落を貪ることができる。
これこそが現代の錬金術だ。
そして、運命の金曜日。
意識が浮上した瞬間、違和感を覚えた。
窓から差し込む日差しが、やけに鋭角だ。
スマホを見る。
――8時59分30秒。
「ぶべらぁっ!?」
奇声が出た。
二度寝どころか、三度寝、四度寝の果てだ。
あと30秒で始業。
公園を経由している暇はない。
着替える暇?
あるわけがない。
思考がショートする。
とにかく会社だ。
自分の席だ。
鬼塚課長がまだ来ていませんように!
俺は掛け布団を蹴飛ばし、右手に歯ブラシを握ったまま叫んだ。
「テレポートッ!!」
視界が歪む。
重力が消失し、次の瞬間、見慣れたグレーのデスクが目の前に現れた。
成功だ。
俺は自分の椅子に着地した。
「……セーフ……」
安堵の息を吐き、俺は顔を上げる。
そこには、朝礼のために整列した営業第3課の全メンバー、約20名がいた。
全員の視線が、虚空から突然出現した俺に一点集中している。
静寂。
コピー機の駆動音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……凡田」
鬼塚課長の低い声が、静寂を切り裂いた。
俺は条件反射で立ち上がり、元気よく挨拶をする。
「お、おはようございます! いやぁ、今日は気合を入れて一番乗りでして……」
言いながら、俺は自分の「気合」の正体に気づいた。
下半身が涼しい。
恐る恐る視線を落とす。
そこには、中学生の頃から愛用している『LOVE & PEACE』という恥ずかしい英字ロゴが入ったヨレヨレのTシャツ。
そして下は、あろうことか『ファンシーなイチゴ柄』のボクサーパンツ一丁だった。
ズボンは履いていない。
右手に握りしめているのは、歯磨き粉がついたままの電動歯ブラシだ。
「キャアアアッ! 変質者!?」
聖奈さんが悲鳴を上げて目を覆う。
「オ、オーマイガー……。凡田君、そのアピアランスは完全にアウトオブ眼中……いや、コンプライアンス的に一発レッドカードだよ。君の羞恥心はロストバゲージしたのかい?」
泥川主任が呆れ果てて意味不明な横文字を羅列する。
終わった。
遅刻を回避するために、俺は社会人としての生命を代償に捧げてしまったのだ。
イチゴ柄のパンツ姿で、電動歯ブラシを掲げる30代男性。
これはもう、出勤ではない。
事案だ。
「き、貴様ァァァ!! ここは、神聖な職場だぞっ! 着替えてこぉぉぉいっ!」
鬼塚課長の怒号がフロアを揺らす。
俺は半泣きで、家に逃げ帰ろうとスキルを念じた。
だが、何も起きない。
手帳の切れ端には、無情な文字が浮かんでいた。
『使用期限:本日の始業時刻(9:00:00)まで』
――キーンコーンカーンコーン――
9時を告げるチャイムが、俺の社会的な葬送曲のように鳴り響いた。
「凡田ァ!! 着替えるつもりが無いなら、今日はそのイチゴ柄のまま、社内のゴミ拾いをして回れ!! それが今の貴様の業務だ!!」
「ひ、ひいいいっ! せめてズボンを! ズボンを履かせてください!!」
◇
その日の夕方。
反省文を10枚書き上げ、抜け殻となった俺の前に、氷室先輩が現れた。
先輩は憐れむような目で、俺のイチゴ柄パンツ(の上から借り物の作業ズボンを履いている)を見下ろす。
「やれやれ。『努力』のために時間を短縮した結果が、イチゴ柄のパンツで公衆の面前に晒されることだったとはな」
「うう……先輩……。もう、お嫁に行けません……」
「プロセスを省略することと、準備を怠ることは違う。君がしたのは合理化ではなく、ただの『手抜き』だ」
先輩は赤い手帳にサラサラと何かを書き込む。
「今回の教訓は『急がば回れ』、そして『親しき仲にも礼儀あり』ならぬ『出社するなら服を着ろ』だ。……風紀を乱した慰謝料は請求しないが、そのイチゴ柄は二度と私の視界に入れるな」
そう言って去っていく先輩の背中は、笑いをこらえている?? ように見えた。
俺は誓った。
来週からは、ちゃんと服を着て、満員電車でおっさんに挟まれよう。
少なくとも、イチゴ柄パンツで晒し者になるよりは、酸素が薄いほうがマシだ。
■今回の収支
借金総額:51,300円(変動なし)
得たもの:究極の通勤時間短縮(3日間)
失ったもの:営業第3課での人権、聖奈さんからの好感度(全損)




