【前編】氷室先輩、凡田君と異世界大魔王
「えー、本日は晴天なり。……と申し上げたいところですが」
マイクを握るバスガイドの声が震えていた。
無理もない。
大型観光バスの車内を満たしているのは、旅行の高揚感ではない。
澱んだ過労と殺気の混じった、デスマーチ特有の腐臭だ。
「おい凡田ァ! 貴様、共有サーバーの『宴会用_決算.xlsx』が更新されてないぞ! 私の試算ではビールが一人当たり3.5本! 今の発注数じゃコンマ2本足りん!」
「ひぃっ! す、すみません鬼塚課長! 次のPAで自腹切って買い足します!」
後部座席から飛んでくる怒号と、未開封の缶ビールのぬるい臭気。
俺、凡田正は、補助席という名の処刑台で小さくなっていた。
膝の上には熱を持ったノートPC。
バスの振動でカーソルが飛び、エクセル入力すらままならない。
「凡田クンさあ、この旅のしおりのアジェンダ、解像度が低いよね?」
隣の席で、泥川主任がタブレットを不快なリズムで指先で叩いている。
「このタイムスケジュールじゃバッファがなさすぎ。不測のインシデント一発で崩壊するよ? これ、次のトンネル抜けるまでにフルコミットで修正して。あとエビデンスも添付してね」
「は、はい……すぐにフィックスします……(日本語で喋れよクソが)」
窓の外はのどかな山道。
だが、車内は地獄だ。
このバスに、あの頼れる「経理部の魔王」こと氷室先輩はいない。
「1円の計算が合わない。気持ち悪いから残る」
そう言い捨てて、今頃は涼しいオフィスで優雅に残業しているはずだ。
羨ましい。
俺も先輩と一緒に、領収書の束と戦っていたかった。
その瞬間だった。
トンネルに入ったはずのバスが、ありえない色の光に包まれたのは。
ドォォォォンッ!!
「うわあぁぁっ!?」
重力が消失し、内臓が浮き上がる感覚。
視界がホワイトアウトし、世界が裏返るような吐き気が俺たちを襲った。
***
次に目を開けたとき、鼻を突いたのは排気ガスの臭いではなかった。
錆びた鉄と、乾いた土の匂い。
「……ここ、どこだ?」
高速道路のアスファルトは消え失せ、バスは赤黒い荒野に乗り上げていた。
空には不吉な紫色の雲が渦巻き、目の前には、天を衝くような禍々しい漆黒の城がそびえ立っている。
どう見ても、岐阜県の温泉街じゃない。
「な、なんだこれは……!? ドッキリか!?」
鬼塚課長が窓を開けて叫ぶ。
『――ようこそ、哀れな人間どもよ』
空気がビリビリと震えた。
城のテラスに、巨大な影が現れる。
ねじれた山羊の角、溶岩のように燃える双眸。
特撮映画の着ぐるみではない。
圧倒的な「死」の気配を纏った、本物の悪魔だ。
『我が名は大魔王ミーゴ。貴様らは、我が城の礎となるための生贄だ』
大魔王が指をパチンと鳴らすと、乾いた大地がボコボコと隆起した。
現れたのは、錆びた剣を持った無数の骸骨兵士。
その数、およそ数千。
カチカチと歯を鳴らす音が、大軍の行進のように響き渡る。
「ヒィィィッ! コンプライアンス違反だぁぁ!」
「総員退避ィィ! バスから出ろォォ!」
パニックになった社員たちが、我先にとバスから雪崩れ落ちる。
俺と聖奈さん、鬼塚課長、泥川主任も外に転がり出たが、遅かった。
白骨の軍勢は、すでに完全な包囲網を敷いていた。
「終わりだ……社員旅行初日で、全滅だ……」
泥川主任が腰を抜かして震えている。
骸骨が錆びた剣を振り上げ、俺の首を目掛け――。
パァァァン!!
硬質な音が響き、空間に「亀裂」が入った。
ガラスが割れるように景色が砕け散り、その裂け目から、革靴の男が静かに歩み出てきた。
埃ひとつない漆黒のスーツ。
手には、真紅のシステム手帳。
「……やれやれ。随分と辺鄙な場所まで飛ばされたものだな」
「ひ、氷室先輩!?」
俺は裏返った声で叫んだ。
そこに立っていたのは、会社にいるはずの氷室先輩だった。
先輩は手帳の「空間座標転移」のページを開いたまま、不機嫌そうに袖口を整えた。
「凡田君、借金の催促なんだが、累計、51,300円だな。返済は出来そうなのか?」
「先輩! こんな骨だらけの状況なので、借金の催促はいったん止めてください」
「骨だらけ? 確かに何やら危機的な状況のようだな」
先輩がパタンと手帳を閉じると、スケルトンたちが一斉に襲いかかった。
「邪魔だ」
先輩は指一本動かさない。
ただ、冷徹に言葉を紡ぐ。
「……『広域殲滅執行』」
先輩が軽く足を踏み鳴らした瞬間。
世界から「色」が消えた。
視界を埋め尽くしていた数千のスケルトンが、音もなく光の粒子へと分解されていく。
破壊ではない。「消去」だ。
データそのものを削除するように、軍勢が一瞬で消え去った。
『……そのふざけた魔力。その氷のような眼差し。忘れるものか』
城のテラスから、大魔王ミーゴのどす黒い声が響いた。
怒りよりも、もっと粘着質な感情を含んだ声だ。
『貴様……氷室だな?』
「ん? 誰だお前は」
先輩は興味なさそうに、手帳の埃を払った。
『貴様ァァ! 忘れたとは言わせんぞ! かつて余を封印し、屈辱を与えた人間! 余はこの数百年の間、貴様への恨みだけで地獄から這い上がったのだ!』
「ああ……」
先輩はつまらなそうに呟いた。
「そういえば昔、そんな害獣駆除の案件も処理した気がするな。……まだ生きていたのか。しつこい営業電話のようだな」
『ほざけ! だが、今の余は昔の余ではない。貴様の弱点も、全て解析済みだ!』
大魔王がニヤリと笑った。
その笑顔に、背筋が凍るような悪寒が走った。
「……面倒だな。定時までに戻りたいんだが」
先輩はため息をつくと、赤い手帳を開いた。
「総員、傾注! これより強制送還を行う!」
先輩の手帳が激しく輝く。
バスと、その周りに集まっていた社員たちが光に包まれる。
「凡田君、君たちも早くバスの有効範囲内へ……」
先輩が俺たちの方を向いた、その一瞬。
大魔王は見逃さなかった。
『今だ! 遮断せよ!』
ドォォン!
俺たち4人――俺、聖奈さん、鬼塚課長、泥川主任の足元の地面だけが隆起し、バスから物理的に分断された。
「うわぁぁっ!?」
「凡田君!」
先輩の手が伸びる。
だが、数メートルの距離が絶望的に遠い。
光が収束し、バスと大半の社員だけが転移して消え去った。
残されたのは、荒野に取り残された俺たち4人と、氷室先輩だけ。
『ククク……そうだ。貴様の最大の弱点。それは、チートスキルの切替だ。その手帳が「ページをめくり、チートスキルを確定するまでに隙がある」こと!』
大魔王の瞳に、石のような灰色の光が集束していく。
狙いは先輩ではない。
無防備な俺たちだ。
『そして、……貴様は、「守るべき無能な足手まとい」がいる時、決して自分だけの防御スキルは選ばないっ!』
『その身で受けろっ! 神石化光線!!』
大魔王ミーゴの目から、極太の灰色の光線が放たれた。
「(……くっ、広域防御のページは……インデックスの裏……!)」
先輩の指がページにかかる。
だが、間に合わない。
俺たち全員を覆う防御を展開するには、プロセスが多すぎる。
大魔王は、この「事務手続き」の一瞬を、数百年の恨みと共に狙っていたのだ。
「先輩!?」
先輩は迷わず、俺たちの前に身を晒した。
手帳を開くのを諦め、生身で。
ズドォォォォン!!
光線が先輩を直撃した。
「ぐっ……うぅ……!」
「先輩!!」
光が晴れると、先輩は仁王立ちで俺たちを庇っていた。
だが、その足元から、急速に石化が始まっていた。
イタリア製の高級革靴が、仕立ての良いスーツの裾が、見る見るうちに冷たい石へと侵食されていく。
『ハハハハ! 見たか! これでもう手帳はめくれまい! この光線は生涯一度の秘儀だが、貴様さえ封じれば後はただの餌だ!』
大魔王が高笑いする。
先輩は苦しげに顔を歪めながら、石化していく指で、必死に懐を探った。
「凡田君……」
「先輩! 嫌だ! 死なないでください!」
「騒ぐな……。これを持っていけ……」
先輩が震える手で取り出したのは、先輩の赤い手帳と似たデザインの青い手帳だった。
「これは……私の赤い手帳とリンクしている、予備の手帳だ……」
石化が胸まで達する。
先輩の呼吸が浅くなる。
「この手帳で君が……引き出せるスキルは……君がこれまでに使ったことがあるものだけだ……」
「え……? 使ったことがあるスキル……?」
「そうだ……。それを使ってこの世界から脱出しろ。私のことは、気にするな……自分で何とかする」
石化が首まで達する。
先輩は最後に、動かなくなる腕で俺の背中をドン、と突き飛ばした。
同時に、最後の魔力で発動した風魔法が、俺たち4人を魔王城から遠く離れた岩場へと吹き飛ばす。
「いいか、生き延びろ……。努力は……怠るなよ……!」
「先輩ィィッ!」
遠のく視界の中で、完全に石像となった先輩を、大魔王ミーゴが満足げに見下ろしているのが見えた。
『フハハハ! 積年の恨み、晴らしたり! この石像は、我が城のコレクションの最上段に飾ってやろう』
雨が降り始めた。
俺の手には、ずっしりと重い青い手帳だけが残されていた。
あの無敵の氷室先輩が、俺たちごときを庇って……負けた?
冷たい雨が、俺たちの頬を打つ。
遠くで響く大魔王の咆哮。
『残りの人間どもは……後でじっくり狩ってやる』
その言葉が、死の宣告のように重くのしかかる。
だが、俺の手の中にある手帳が、微かに熱を帯びている気がした。
『努力を怠るな』
その言葉の意味を、俺はまだ理解していなかった。
ただ一つ分かるのは、俺たちの、本当の残業はここからだということだ――。
(後編へ続く)




