◆3 今良い感じに連絡の続いてる子が居るってのにネザーが圏外だった件。
■ネザー内植生を先方の許可なく外部に持ち出す事は密輸に該当します。
雷門から連なる囲いの一部に空いた、一見なんの変哲もない通用口。
陽に晒されて色褪せた暖簾が垂れているだけのその場所に、二人の警備員が立たされている。
先ほど集まったばかりの社員一同はそこから少し離れた位置でネザー突入直前の打ち合わせをしていた。すなわち、あそこの通用口こそが例のネザーに通じるゲートなのである。
しかし暖簾の下から覗く向こうの景色にネザーの様相などは窺えない。普通に囲いの内側の景色があるだけだが、翌々注視すると見えない壁があるかのように波紋のような紫色の光が立つのが見えた。
くどくどと注意事項を聞かされて気がそぞろいだ大哉はふとしてどこかで嗅いだことのある匂いを覚え、しっかり嗅いでみようと鼻をスンスンさせる。
「何つったら良い? なんか、風呂屋みたいな匂いがするっすね」
「外壁の外の狭い一車線路。正午前の住宅密集地の傍らにも関らず、潤沢な湯の気配がする。だけど辺りに銭湯や温泉などはないよね」
困ったときに頼れるミン君。
大哉では上手く言えない事を、詩人のようにすらすらと語ってくれる。
「ネザーから流れ出てくる空気の匂いさ。ネザーは暑い場所というのは言うまでもなく知ってるだろうが、暑さを言い表すならば火気に当たったときの肌がちりつくような感じではなくて、実はとても蒸し蒸ししている」
栗原先輩の言葉に、うんうんと少しわざとらしくに相槌を示すミン君がいた。
言い終わりに一歩進み出て、話を引き継ぐように口を開いた。
「湿度は常に80~100%。ネザー特有の不気味な樹木が地中から水分をかき集め、蒸散させて循環するんだ。僕は、地上では見られないこの未知だらけの植物を研究したくてツアーガイドに志願したんだ。水に植物と来れば酸素もあるわけで、妙ちくりんなキノコだって生えてるんだよ」
ネザー豆知識かと思いきや、思いがけずミン君の事情まで知るのだった。
「ちなみにネザーウォートやネザーシュルームは特定の用途に用いる素材のように認識されているが、味も食感も恐ろしく悪いだけで決して毒性があるわけじゃない。ネザー内で唯一確保できる特産物として、遭難したときのために覚えておくといい」
「縁起が悪いんだよサバイバル厨のうんちくは! 出来上がった開拓路の往来を繰り返すばかりの単純業務として受け止めてんだ。そんな労災事案があってもらっちゃ堪ったもんじゃねえ!」
上司にも媚びずにギャオオンと嚙みついてく霊舞が割と良い性格かもしれないと思えた。
「そんじゃ俺、一番に行ってもいいっすか!?」
打ち合わせを終えた大哉はそわそわと落ち着かなった。
これから自分は、生まれて初めてネザーに足を踏み入れようとしている。
全然怖くはなくて、むしろ楽しみに感じていた。
この宇宙のどこに存在するのかも未解明の異次元空間というのは冒険心を掻き立てる浪漫の塊だった。
一説では地殻よりも下の比較的低温な場所にマントルが冷え固まった空洞が生じ、そこにワームホールを通じて出入りしているのではないか言われている。
利用客としてのツアー参加費は、観光バスよりは幾らかお手頃価格といったところ。
パスポートを所持して料金さえ支払えば一般人も問題なく利用できるネザー経路とはいえ、よほど頻繁に遠出するような事情でもなければとんと縁のない代物だ。
「どうぞ。僕は来日の際に通ったことがある」
「ファーストペンギンだと思って譲ってやる」
さっさと行けというように手振りする霊舞に「なんそれ?」と聞き返す。
「シャチなんかの捕食者が潜んでいないか確かめるために、ペンギンの群れは初めに仲間の一匹を海に突き落とすんだよ」
立ち上がりの遅いAIアプリよりも一家に一台ミン君の導入を勧めたい。
栗原先輩が握り拳を前に突き出し「受け取れ」と言ったので、思わず両手で掬うように待ち構えた。
手の中にポトリと落とされた、やや横長の小さな金属のプレート。
何かと思えば『舞倉商事(株) 所属ガイド 須智部大哉』と刻み込まれたネームバッジだった。
文字は彫刻になっているが、真っ赤な林檎を象った浮き彫りの印象もある。
同じようなものを栗原先輩も左側の胸元に付けてるが、こちらは黄金色の林檎だった。
「社員証、兼ドッグタグだ。裏には生年月日や血液型なんか刻まれてるから、内容に間違いがないかちゃんと確認しておけ。それを胸に付けていればあそこの警備員に引き留められずにネザーに入る事ができる。そんじゃ、後で初ネザーの感想聞かせろよ」
それを送り出しの言葉と受け止めて、大哉は走り出した。
「いざっ! 突入ー!」
「あっ! 馬っ鹿野郎! そんな勢いで突っ込んだら!」
先輩が背後で何かを叫んでいたが、とっくの前から辛抱堪らなかった大哉を止めることはもう出来ない。
通用口に垂らされた暖簾の布地に鼻先が触れた感触がした途端、万感の思いが沸き上がった。
「んぶっ! ごああああ!!」
初めてネザーに足を踏み入れたその瞬間の感覚ときたら・・・そう、何か有機っぽい感触の物体に真正面から体を打ち付けるような物理的な衝撃を覚えたのだった。
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確かに此処は、とても蒸し暑い。
しかし灼熱に支配された空間と聞いた割には、こんなもんかとも思わなくもない。
果てしなく広大な溶岩の海があるものと聞いていた。
呼吸は短く浅めに心がけないと肺が焼けるものと聞いていた。
うっかり地面や壁に素肌を触れようものならアチアチダンスを踊らされるものと聞いていた。
ネザーでほんの数日過ごすだけで美容院でお金をかけずともちりちりのパンチパーマになれるのだと聞いていた。
誇張ばかりを聞かされて、迂闊にも自分はそれを信じ込んでしまっていたようだ。
今にして思うと、大人が子供をネザーに近寄らせないための嘘だったんだろう。
ネザーに入るとパンチパーマになっちゃうぞって言われて、そんなの平気だもんなんていう子はきっとあまり多くはないだろう。
なんとも言い得ない感慨に戸惑いながら伏せっていた体をのそのそと起こし、下敷きにした見ず知らずの男を見下ろす。
どう考えてもこっちの方が不味い事態というのはちゃんとわかっているのだが、なぜか薄らぼんやりにあるがままの光景を眺めるしかできなくなっていた。
長めの茶髪が少々気障な印象の男は、すっかり目を剝いたノックアウト状態で地面によだれを垂れ流していた。
つい最近にも見覚えのある赤い意匠とともに、『(株)PvP 所属ガイド 鷺鵜 忠』の表記が目に飛び込んだ。
「オーマイゴッド! ヨリニモヨッテ大手旅行会社ジャネェカ、コノヤロー!」
背後で感歎の叫びを聞き、ようやく意識が明瞭になって「やっちまったあっ!」っと悲観の声が絞り出せた。
慌てて周囲を見回すと、全方位コンクリが打ちっぱなしの質素な空間に居た。
背後には扉をつけ忘れたような綺麗な四角い穴が開いていて、申し訳のように半透明の白いシートがかけられていた。これが今しがた通ってきたゲートなのであろう。
さっきまでの観光地の喧騒がどこにもないというのが此処にきて一番の空間転移を果たした実感だった。
シートの向こうにわずかに透けて見えるのは、地面も崖肌も、何もかもが赤茶けた大地だ。
「ゲートの境界に物体が接触すると紫色の波紋が強く立つ。それは反対側からも確認できるから誰かがゲートを利用しようとしている合図になる。次からは波紋を立ててからゆっくり入れ。ついさっき打ち合わせでも言ったはずなのに、さては上の空だったな」
波立つゲートから半身を乗り出すやいなや叱責を浴びせてくる栗原先輩。
異空間同士の境界を挟んで物体の半分が見えないでいる状態は、目印を付けたガラスのコップに水を注いでなんやかんや全反射で見えなくさせる実験をふと思い起こした。
「んで、どーすんだコイツ」面倒くさがってるのを隠しもしない声色で霊舞が問う。
「気絶しているのをネザー内で放置したらほぼ確実に熱中症でお陀仏ですよ。今起こすか、外に連れ出してさっきの警備員に押し付けるか、見殺しにするかの三択です」
実はミン君、お茶目に毒を吐くことも出来ます。
「今起こす一択だろ!」
頬をぺちぺちぶって呼び戻そうと試みていると、見兼ねた栗原先輩がミネラルウォーターのボトルを逆さにして男の顔面に容赦なくぶっかけた。
跳ねた水滴が大哉の手にもかかったのだが、もう既にぬるま湯だった。
「っぷあ! あばばば! 何しやが、だっ誰!? 俺は一体!? つか痛ってええ!」
呼び水がよく効いたようで、意識を取り戻した男は情緒を忙しくさせつつも順に状況を整理しようとしていた。
やがて静まり返り、きょとんとして呆然に暮れる。
そんなにも律儀に全部のリアクションをこなさねばならないものなのだろうか。
「ってこいつ、TA・DA・SHIじゃねえのか!?」
既に乾き始めもしていたが丁寧にハンカチを差し出した栗原先輩が突如大声を上げた。
「・・・何で、オッ〇ットみたいに言うんすか? ってかパイセンの知り合いなんすか?」
額に噴き出す汗を腕で拭いながら聞き返す。
地上は最も過ごし良い残暑の過ぎた初秋だったはずだが、季節が逆戻りしたかのようだ。
夏用の通気性抜群素材カッターシャツがものの数分でジットリと肌に張り付く有り様だった。
「女性客をメインターゲットにしてネザーデートなどという名状のツアーを提供している結構有名なインフルエンサーだよ。吊り橋効果満載の状況でてめえの背中に庇われながらネザーから生還を果たした女はな・・・そりゃあもうリピートが続出なんだとか」
「なんてけしからん! たしかこっち側の法律じゃ、ブタ野郎は切り捨て御免で良いんっすよね!? 俺と相棒の初めてはこいつに捧げるんだ・・・」
愛刀の金剛輪切丸が手元にさえあればそうしていたが、霊舞に頬を引っ叩かれて「介抱の邪魔だからそこを退け汗臭野郎」と邪険に扱われる始末。
霊舞も暑さと怒りの感情の区別がつかないのやも。
だとしても、ちょっとあんまりだとは思いませんか?
この礼はいずれ必ず返してやるものと心に決めた。
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「ったく、これだから舞倉商事の連中は!」
いまひとつ何かが足りないのは顔の方だと思われるが、正気に戻った男は雑な文句を言いながら手鏡に食らいついて熱心に髪型を整えるのだった。
「あんな風に言われるほど、パイセンら評判悪いんすか?」
「いや、むしろかなり良い方だ。利用客にさほどの重症を負わせた事はないんでな。さすがに軽症は避けられんが、それも転んで擦ったぐらいのもんだ」
「イッツ ジェラシー。カヤ嬢ガ居ル限リ、腕ップシデ名ヲ上ゲルノスーパー難シイ。ダカラオカシナ企画ヲ考エ出シテ話題ヲ集メタイ」
スーパー難しいならばつい悪態もついてしまうのやも。
「聞こえてんだよ全部! 人を気絶させておいてさらに侮辱までするのか!? こっちは大手企業だぞ! 引き抜き、買収・・・お前らなんか簡単に潰せるんだ!」
「さすがに黙れ、もう一度寝かすぞ? 見習いガイド如きが泣きついたって大手上層部が動くものか」
「こいつって有名なインフルエンサーじゃないんっすか? てっきり管理者クラスかと」
「お前と同じ赤林檎だろうが。それは見習いガイドに定められた配色だ。管理者クラスは金林檎な。面接で持ち帰った書類に記載されてたはずだが?」
「さすがにあれを全部まともに覚えてるわけがねぇっすよ・・・」
「僕は覚えてるけどね」と小声でミン君が言う。
霊舞は急にそわそわしていたが、誰も触れないであげた。
「大事な顔には幸い傷もないし、服も髪もすっかり乾いてるし、転移ざまに人とぶつかるのは新米あるあるだし、今日のところはこのくらいで許してやるとしよう。駆け出し時分に心の広い先輩に出会えるだなんて君は羨ましいね。それじゃあ僕はこれから上客を迎えに行かねばならないから失礼するとしよう」
駆け出しの自分は厳しい中でやってきた風なマウントの取り方がとても気持ち悪かったが、ここは堪えて「待ってくれ!」と呼び止めた。
「俺にも上玉のお客さんを紹介してくれま・・・・あぎぃ!」
全てを言い終える前に、首根っこを掴まれて吊り上げられた。
栗原先輩の鍛え抜かれた極太の腕は決して見せかけじゃないんだろうとは思っていたが、66キロを片手で上げるとなると普通に怪物だ。
「ほら、カヤが首を長くして待ってるから俺らも行くぞ」
今のところ、その人について栗原先輩よりヤバイかのような節が出かけているのだが、きっと気のせいだと思うようにしていた。




