〜こころの洗濯は程々に〜
「若、村が見えて参りましたぞ。」
そう話しかけたのは篝火持ちの辛夷だった。辺りはすっかり日が落ち、普段なら月明かりを頼りにというのが定番なのだが今日は違う。
なんと今日は牛に屋形を牽引させる牛車に乗っているのだ。先程の篝火持ちに牛飼い童が一人、そして何故か屋形内に紬と桔梗という取り合わせである。
牛車の決して華美でなく実用的な作りは桔梗の実直な性格を表しているとでも言いたげな露骨な造りだが、問題なのはその大きさだ。
どうやら二人で乗ることは想定していないようで屋形が揺れるたびに二人の肩が当たってしまう。
「本当に宜しかったのでしょうか、私のような卑しい生まれの者がご一緒しても......。」
「気にするな、問題ない。それにそんな窶れた身体では立っているのも辛かろう。」
(一歩進む度に軋むふくらはぎと気を抜くと遠のく視界、確かにこの疲労は異常だ。)
物忌みも禊ぎもどちらも得意でない紬とではあったが普段はこれほど悲惨な目になった事が無かった。
いつも平常心であるように努めていたのが、知らず知らずのうちに力が入ってしまっていたのかもしれない。
(そこそこの月日を重ねてきたと自負していたが私もまだまだということか。)
「お心遣い痛み入ります。」
人の好意に対して素直になった事が無い紬にとってはこれだけでもかなりの快挙と言えるが、甘えられた当の本人はその事を知る由もない。なんせまだ出会って二週間足らず、言葉を交わしたのはたった二回しかないのだから。
「気にするな。だが、いずれそなたは私の妻となる身だ。もう少し自分の身を案じて貰わねば困るんだが。」
「はぁ......、はぃ?」
思いがけない身勝手な言葉に紬の声はついつい裏返ってしまったのだが、その反応は紬が生娘であると安易に教えているようなものだった。経験豊富な妓女ならば上手くあしらう事も可能であっただろうが、生憎そういった話にはてんで疎い紬にとっては官位の試験に合格するより難易度が高かった。
(どさくさに紛れて何を言い出すんだ、こいつ。そんな契りを交わした覚えはないぞ全く。さては断られるとは微塵も思っていないということか、大した自信だな。)
よく考えればこの傲慢で身勝手なこの坊っちゃんに逆らおうとする者などこれまで誰もいなかったのであろう。実際、性格にやや難はあるが家柄、見た目どれをとっても申し分無い、高官の夫人ともなれば将来は安泰だ。
だが今度ばかりはそうもいかない、こちらはもう既に結論を出している。覆すつもりは毛頭ない。後はどうやってそれを伝えるかなのだが、言い方一つで首をはねられても文句は言えない。
それだけ下賤の民の命は脆いのだ。
「そのぉ、桔梗様。先日のお話ですが......、」
紬は高官の機嫌を損ねぬよう様子を窺いつつ、タイミングを見計らって決行する作戦をとった。正直、人の機微に疎い紬にとっては最も苦手とする戦法と言えるがまだ出会って2回目、失敗は許されないのでこれが最善の策と言えよう。
「それ以上......、言わずとも分かっている。そなたを困らせるつもりはなかったのだが、結果そうなったとしたら本当に済まなかった。だがどうか今しばらくはこの泡沫の幸せを享受してはくれまいか?」
(はっ、読まれていた!いや、初めから分かっていたと言うべきか。)
やはりどう考えてもこの坊っちゃんのこれまでの行動は余りに不自然過ぎる。これではっきりしたが、こいつはうつけなんかじゃない。何か別の意図があり、そう演じていたのだ。
今はそれが何なのかは分からないけれど、あの凛とした横顔から察するにきっと下々の者では計り知れない何かがあるに違いない。
(計算づくということか。こいつはやはり喰えない漢だ、あの親父共より余程タヌキだ。)
「分かりました、何か言えない事情があるということですね。それではこれ以上は聞きません。」
「君が聡明で良かった。そうしてもらえると助かるよ。」
「ですが、もし私の大切なものを奪おうという事であれば見過ごす訳には参りません。そしてあなたを絶対許さない、その事を努々お忘れなきように。」
娘に先程迄の窶れた表情は無く、その向けられた鋭い視線は桔梗の先を捉えていた。
「許さないか......。私に凄む娘など初めてだ、そなたは本当に面白い。分かった、善処しよう。」
(やはりか......、これから起こる事は私にとっても皆にとっても少なからず良くない事。それもこの高官が動いているとなれば、それなりの大事、国家レベルの話であっても何らおかしくない。そうなれば私個人でどうにかなる話でもないのかもしれないが。)
「んっ!あれっ?」
「どうかしたか?」
「ちょっとお待ち下さいませ。このままあなたの話に受け入れてしまえば、暫しでも互いに想い人になるということになってしまいませんか?」
「あぁ、それが何か問題でも?」
ニヤリと笑みを浮かべる高官の顔には明らかに良くない事を企んでいるそれだった。
「 ...... ......。」
「こうやって肩が触れても嫌という訳ではないのであろう?」
「......そうですね。何故かは分かりませんが余り気にはなりませでした。何をお考えになられているか分かりかねるところはありますが、端から嫌いという訳でないようです。」
「そうか、それは良かった。嫌でなければそれで良いではないか。」
(何だ?この問答は。こいつの理屈は人の斜め上を行っている。そもそも理解しようというのが間違いなのかもしれない。)
流石の紬もこれには白旗を揚げるしか他無く、先程までの激情も今や遠い昔のことのように感じ、深く悩むのが馬鹿らしくなってしまった。
「ところで宮中の新嘗祭は宜しかったのですか?」
「あぁ、それなら代わりに蘇防を向かわせているから心配ない。どうもああいう堅苦しい祭祀は性に合わん。寡黙なあやつなら適任であろう。適材適所、一石二鳥と言うやつだ。」
(何を嬉しそうに話してやがる。要は面倒事を押し付けたってことだろ。こいつの下はやっぱり苦労が絶えないなぁ。)
「おっ、そろそろだな。」
これまで小気味よいリズムを奏でた牛車のリズムも徐々に間延びし始めて、最初で最後の貴婦人気分もいよいよ終演を迎えようとしていた。
御簾を巻き上げたその先は鬼が出るか蛇が出るか、どちらにしたって紬にとっては困難な道を指し示すものでしかないのだが、降りかかる火の粉の行く先が分からない今はこやつの《善処》という何の根拠も無い自信にすがる他ない。
完全に停車した牛車の中で一呼吸、疲弊した身体に気合を入れ直し、一先ず桔梗の背中を追う事にした。
「うわぁ、どうりで寒い訳だ。」
眼前に広がる細雪。
浚いの風に運ばれてふわふわと舞い遊び、六花の花弁は月明かりを帯びて瞬く様子まるで玻璃のよう。
これ程の情景は滅多にお目にかかれる代物でなく、如何に高名な絵師をもってしても再現する事などかなわぬだろうと思われた。
降り始めて間無しであろうか、一面雪化粧とまではいかなかったが、それでも幼き日の雪ぶつけを思い出さずにはいられない。
その幻想的な情景に気持ちの高ぶりが抑えられなくなった紬は牛飼い童への労いもそこそこに駆け出し、そのまま牛車から飛び降りてしまった。
月影の下、これまで見せた事のない無垢な笑顔と白衣の袖から覗く華奢な腕を一杯に広げたその姿は正に天から舞い降りたる天女そのもの。
薄っすらと芽吹く六花の上に降り立ったその天女はまるでかつての旧友との再会を懐かしむように雪の精と無邪気に戯れていた。
その姿は見る者全ての庇護欲を掻き立てる破壊力を秘めていたと同時に羨望や嫉妬も感じさせるものだった。
この瞬間、半径三メートル一帯は総じてこの娘の物となった。
「 ...... ......。」
「わ、若。どうなされました?」
「あぁ......、いや!なんでもない。」
ほんの数秒、いやもっと短い時間だったのかもしれない。それも今となっては知る術は無い。でも、確かに桔梗の時間はあの変わり者の娘に奪われてしまっていた。
主人の様子を見た従者の慌てっぷりがそれを如実に物語っていた。
「あのぉ、失礼しました。余りに久しぶりだったものでつい......。では参りましょうか?」
「あぁ。」
暫し時間を彷徨っていた桔梗であったが直ぐ側で見上げる紬の表情は記憶通りの無表情で猜疑心の強い眼差しも普段と何ら変わらない。
ここでようやく我に返った桔梗は自分の感情に戸惑いつつも従者の差し出した踏み台に足をかけたのだった。




