〜ちょっと浄めたいんですけど〜
(あぁ、腹減ったなぁ。)
霜月の二の卯の日、そう今日は新嘗祭。いよいよ本番当日である。
この日はなんやかんやとやる事が多くてとても忙しい。いつも《夜更かしは文化だ》などと宣う遅刻常習犯の紬にとっては過酷な一日となる筈だったのだが今日に限っては少し違った。
今朝は余りのひもじさにいつもより早く目が覚めてしまった。それもその筈、この三日間は何も食べておらず、水だけで飢えをしのいでいるからだ。
その日暮らしの紬にとっては特段珍しい事でも無い。この前なんて食べ物を買う銭が無いので仕方なく山で採ってきた名も知らぬキノコを食べたら......。
だが、この時期はあちらこちらで行われる祭りに引っ張りだこ、猫の手も借りたいくらいだ。今は財布の中身も潤っており、余程のことがない限り飯に困る事はない。だがら今回はその余程と言うことになる。
《物忌みの儀》
神に触れる者は一定期間不浄を避けなければならない、これは神道における習わしの一つである。具体的には喪を弔う、病者を見舞う、肉を食らう、 死刑を執行する、罪人を刑罰する、音楽を奏する、それに準ずる穢れとされているが、私が気にするべきは精々最初の三つくらいか。
だからこの三日間、禁忌に触れぬようにと家に一人籠もっている。この時ばかりはあの世話焼きも顔を見せる事は無く、おかげで多少自堕落な生活をしていても小言を聞かずに済んでいる。
(キュルルル......。)
それにしてもこの腹の虫はいい加減何とかならないものだろうか?いつもの事なのだからせめて奉納が終わるまで待ってくれ。うるさくて敵わない。
そういった訳で午前中には粗方、身支度も済んでしまったので、昨日に汲んでおいた水を一口嚥下して今日の段取りをおさらいする事にした。
これからやるべき事は後二つ、禊ぎを行い身体を浄めた後、祭りのクライマックスで舞を奉納する、これだけだ。
まだ時間は十分にあるのだが、先日の高官が本当に来るとしたらいつ頃になるかも分からないし、何より空腹続きでいつ体力が尽きるやもしれない微妙な状態だ。緊張の糸が切れる前に出来ることは早めに済ましておいた方が良さそうだ。
今日は朝から濃い霧が立ち込めていたので少し心配していたが、家を出る頃にはそれも晴れ、激しく吹く朔風が紬の髪を激しくなびかせていた。色々な表情を見せる天候にこいつらも緊張しているのかな、なんて考えていたら少し気が楽になった。
まずは禊ぎを行い身を浄めなくてはならない。これには色々と制約があって流石に家で行うことが出来なない。そういう訳で山道を歩いている訳だが、お目当ての場所までは少し距離があり、道も起伏が激しく女の足では中々に骨が折れる。
そろそろ村の連中どもは酒盛りを初めている頃だろうか。だとしたら伊織たち女衆も忙しく祭りの切り盛りを行っているのだろう。そして、あの桔梗という高官は屋敷を出発したであろうか、だとしたらやはり先を急いだ方が良い。
白い水飛沫を上げる早瀬の先、猛々しい唸り声をあげる落差16尺程の直瀑の滝。ようやくたどり着いた、ここがその目的地だ。
辺りは細かな水飛沫を撒き散らし夏でも肌寒い。この時期、運が悪いと六花が咲き乱れる事もあるので更にたどり着くのに難易度が上がる。だが、そのおかげで立ち入る人は稀でこれからの儀式を行うにとても都合が良い。
紬は川のほとりに近づくと深い深呼吸を一つ、そしてつま先をゆっくりと水に浸けてみた。
「冷た!」
先程迄の日差しで火照った身体を癒すに充分な冷感。だが紬はこれが堪らなく苦手だった。普段なら少々の事では動じる事はないのだが、この時ばかりはそういう訳にもいかない。まるで理不尽な虐めを受けているかのような感覚に陥り、ふつふつと怒りが込み上げてくる。
そして今日もまた、紬の孤独な戦いが幕を開けようとしているのだった。
「ギャーッ!いや〜!」
「このバカ!変態!やめて〜!」
「もう悪いことしませんから許して下さい、お願いします。助けてぇ!」
「...... ......。」
鳴り響く罵詈雑言に阿鼻叫喚。今日は記念すべき五十戦目であったが意外とあっさり決着がつき、紬はついに五十戦全敗という不名誉な称号を手にする事となった。
ガサガサ、ガサガサ、ガサガサ
敗者となった紬に追い打ちをかけるかのように奥の茂みから微かに聞こえる枝々が揺れる音、それもかなり近い。
このあたりは獣の類が多く生息している。人があまり立ち入らないこの場所はそういった類いの奴等にとっての聖域だ。その場を汚したとすれば当然只じゃ済まない。一瞬で紬の周りに緊迫した空気が流れたのだが視界には影一つ入らなかった。
この辺で熊を見かけたという話は流石に聞かないが、それに準ずる獣の噂ならごまんとある。
紬は視線を落としゆっくりと後退りし音の鳴る方から離れる事にした。徐々に近づく物音は確実にこちらに向かっている。紬が身構えた瞬間、視線の先の茂みの下が激しく揺れるとそこに現れたのは一匹の小さなリスだった。
(ふぅ......。)
紬は深く安堵した。
おそらく食用の木の実でも探しに樹木から降りてきたのだろう。これが野犬や猪だったらと思うと身の毛がよだつ、今は抗う術は何もないので本当にたまったもんじゃない。用心に越したことは無さそうだ。
ガサ......、ガサ......。
「またか、今度はなんだ?」
再び、茂みで物音がする。今日は来訪者が特に多い、落ち着く暇も無い。
(次はなんだ。ネズミかウサギか?いや、どれとも違う大きな気配、まさか......?)
ガサ......、
次の瞬間。草むらから大きな影が飛び出したかと思うとそのまま川に飛び込んできた。
激しく上がった水飛沫の先には黒く艷やかな髪にスラリと伸びた長い四肢。キメの細かな肌に浮かぶ何より印象的な大きな瞳......、こいつには確かに見覚えがある。
「ごきげんよう、桔梗様。」
紬の前に現れたのはあの尊き血筋と思わしき漢、突然求婚してきた張本人である。
「風呼びの巫女ではないか、まさかこんなところで会えるとは。ところでこんなところで何をしているのだ?」
「桔梗様こそ、何故こんなとこに?」
質問に質問で返された桔梗は少しイラッとした表情を見せたがそこは年の功、すぐに気持ちを切り替える事が出来たようである。
「今しがた凄い悲鳴が聞こえたので何事かと駆けつけてみたのだが......、まさか。」
(しまった、こんな近くに人がいるなんて思ってもいなかった、不覚。)
「それ......、私です。」
「どういう事だ?」
すっかり落ち着いたというか呆れたといか複雑な表情を見せる桔梗に合わせるかのように紬は淡々と話しだした。
「今日の神楽に合わせて今から身を浄めるところだったのですが、こいつらが思いの外冷たかったものでつい......。」
桔梗は緊張の糸が切れたのか、笑いを堪えきれず吹き出してしまった。
「そうか、冷たかったか。そうか、そうか。それは仕方ないなぁ。」
(そんなに笑わなくてもいいじゃないか、こっちだって真剣なんだ。しかし、高貴なこの御方はもっと傲慢で横柄な世間知らずのお坊ちゃんかと思っていたが、どうやら想像していたそれとは少し違うらしい。まぁ、世間知らずはこの前の件からも正当な評価だ。)
「あの〜。」
「なんだ?今度はどうした?」
「こんな貧相な身体ですが、見られず済むのであればそれに越したことは無いのですが。」
そこには凹凸が少なく陰影もない幼さの残る肢体。何より目を引いたのは透明感を失い、水滴がまとわりつく青白い肌。とても斎王と同い年には見えない。
更になで肩から伸びる華奢な腕が無気力に垂れ下がる姿はとても無防備で、とてもじゃないが羞恥心を感じているとは思えない。
「うわぁ!」
桔梗が背けた顔の先には綺麗に折り畳まれた装束と大きな風呂敷の包み。それを見てやっと事の自体を正しく認識し桔梗は顔を赤らめた。
「な、なぜ、そのような格好をしている?」
(なんでお前が狼狽えてるんだ、裸を見られたのはこっちだぞ。そんなに動揺されるとこっちまで恥ずかしくなるじゃないか。)
「だから、身を浄めるため......です。」
「禊ぎと言うやつか?」
「ええ。でも、きちんと師に付いて学んだわけではありませんので正しい作法かどうかは分かりませんが。」
「独学ということか?」
「舞いの基本的な所作はババァいや養母から学びました。後の作法は見様見真似です。元々、巫女の戒律は個人の解釈に依存する事が多いです。決して親切とは言えませんが、それがそれぞれの独自性を生んでいるのだと思います。」
「ほぅ。」
(不思議だ、こうやっていると身分云々をあまり感じない。不思議な御方だ。)
「邪魔をしたな、そろそろ戻ることにしよう。遅くなると辛夷に叱られてしまうからな。」
「...... ......。」
(ん?)
返事がない、先程まで互いに饒舌だったのに突然ピタリと会話が止んでしまった。気配はこれまでと同じく背中に感じるまま、特別変わった物音もしなかったのでその場から離れたとは考えにくい。
振り返って確認するのは流石に憚られたが、桔梗が何度呼びかけてもやはり紬からの返事はなかった。
元々、華奢で痩せぎすの体躯はとてもじゃないが丈夫そうには見えず、加えて今日はいつになく青白い肌に痩せこけた頬は明らかに体調が優れないと見える。
(この寒さで気を失うか、そこまででなくても気分が悪く動けなくなっているのでは......。)
次第に募る不安に抗うことが出来なくなった桔梗は意を決して振り返り紬の安否を確認する事にした。
「おい、どうした?何かあっ......た......、」
周囲は浅い霧が立ち込めていたが天より垂れる直瀑の滝に指す一筋の光、そしてその先に立つ一人の人影。その神秘的な光景に桔梗は目を奪われ、一瞬たりとも目を逸らすことが出来なかった。
「掛かけまくも畏かしこき伊邪那岐大神......、」
その人影は滝の前で二回拝すとまるで鳳笙のような澄んだ声音が辺りを包み込んだ。
桔梗にも幾ばくかの知識はあり、これまでにも何度か神主が祝詞を奏上する場にも出向いたこともあった。だがこれほどまでに心を動かされた儀は他に無く、桔梗はこの天から差し込む光の声を暫し聞き入った。
「......恐かしこみ恐かしこみ白まをす。」
終焉とともに訪れる静寂と同時に視界は晴れて、先程迄の光芒は何も無かったかのように消え去っていった。だが桔梗はその余韻に浸りその場から離れられずにいた。
「何をなさっているのです?まさか桔梗様はとんでもない悪食ですか?」
桔梗がふと我に返ると目の前にあの小柄な少女が立っていた。一片も隠す素振りを見せないところを見るに《漢として見られていないな》と思わずにはいられない。
「相変わらず容赦ないな。本当に面白い娘だ。」
(こいつ、さっき迄あんなに狼狽えていたのに今はなんて涼しい顔をしてるんだ。どうせ此奴にしたら私なんかは見るに値しない貧相な身体だろう。)
「桔梗様、私は終わりましたので村に向かおうと思いますが如何なさいますか?」
「あぁ、そ、そうだな。それでは私も行こう。」
「それでは先に行ってくださいませ。高貴な方のお供をする訳には参りませんし、何よりこのままではここから上がれません。」
「あ、あぁ、そうだったな。済まない、それではそうすることにしよう。」
(全く、気の利かないやつだ。これだからお坊ちゃんは困る。いや、よく考えたら最初に騒いだのは私でこの御方は身を投げ打って助けようとしてくれたのだった。このまま返すのは......、余りに失礼かもしれない。)
「桔梗様、先程は助けに来て頂いてありがとうございました。」
「あぁ、気にするな。大事無くて本当に良かった。」
桔梗の背中が先程より幾分大きく見える。この一言で失いかけた自信を取り戻せたという事であろうか、だとしたらいやはや何とも単純である。
(やっぱり子供っぽい、そうかこいつはガキなんだ。)
その後、辛夷と合流した二人は案の定こっ酷く叱られた。この従者の気持ちは分からなくもないが紬にしてみれば完全にとばっちりである。
そうこうしているうちにあっという間に時間は過ぎ、三人は急いで約束の場所に向かうことになった。




