〜心臓の音が煩いんだが〜
空気が乾燥している分、遠くで鳴く寒雀の声も鮮明に聞こえる......。
一日の始まりを告げるように窓の外から日の光が差し込んではいるのだが中々布団から出る事が出来ない。
こんなにゆっくりと眠れたのはいつぶりだろうか?いつも早起きの紬にとっては本当に至福のひとときだった。
枕が変わると寝付けないという者もいるようだが、それは恵まれたごく一部の者のお話で私のような卑しい生まれの者は寝るのも命懸け。寝過ぎて凍死なんてことになったら洒落にならない。
昨晩の事は途中からあまり覚えていない。口の中に残る旨味から目も眩むような豪勢な食事に舌鼓を打ったことまでは覚えているのだがそれ以降の記憶が曖昧だ。
皆に迷惑をかけていなければ良いのだが、それを尋ねるのも憚れるような相手との宴だったのだから何とも困ったものだ。とりあえずは皆が起きる前に身支度を......。
「えっ?」
起きようと寝返りを打った瞬間、視界に入った一人の顔。このキメの細かな肌と艷やかな髪には些か見覚えがある。
(何でこいつが横に......いる。)
あまりの衝撃に言葉が出ない。そしてどうして良いかも分からない。ただ、紬の顔の表面温度だけが上昇し続けていた。
唯一救いだったのは殿下が愛称のこの漢は未だ夢の中ということだ。このまま何事も無かったかのようにこの場から離れるのが得策であろう。だが、この淡い期待は脆くも崩れ去った。
「ひぃぃぃぃぃぃっ!」
言葉にすらならない声がついつい漏れ出てしまった。
そう反応するのも無理はない、布団から出ようとしてようやく《何も着ていない》事に気がついたのだからだ。
この漢の前でこの姿となるのはこれで二回目なのだが、あの時とは心持ちがまるで違う。ついには身体全体の表面温度が上昇する羽目になった。
(くそ、このままじゃあ、まともにこいつの顔を見れやしない。まずは気づかれぬ間に......。)
「そんな格好で何処に行くつもりだ?」
《ギクッ》
その声を聞いた途端、驚きとともに全身に稲妻が走った。最悪の展開だ、振り返らなくてもこいつがどんな顔をしているのか分かる。このままじゃ無かった事にすら出来そうにない。
「あのぉ、これは......、何かの間違いでして......。」
「ほぅ、どんな間違いなのかな。」
(うぅ、心臓が煩くて何も思いつかない。)
後ろからゆっくりと近づく気配。不覚にも紬の足は硬直してしまい、その場から逃げることが出来なくなっていた。いや、もしかしたら無意識に逃げるのを拒んだのやもしれない。
頭の後ろで聞こえる息遣いは既に手の届きそうな位置にまで近づいていた。
《パサッ》
肌に触れるヒヤリとした感触、だがとても滑らかで心地良い。それが身体全体を包み込む。よく見るとそれは絹で作られた背丈程に長い領巾だった。
「全く我が姫は世話の焼ける奴だ。」
身体全体を覆うには多少物足りなさは感じられるが何よりもその気持ちが嬉しかった。
「あっ......ありがとうございます。」
動揺を悟られたくないばかり中々素直になれず、未だまともに直視する事が出来ない。頭の中はグチャグチャのままだ。
「昨日は......、」
と桔梗が言いかけたところで紬は言葉を遮った。これ以上、醜態晒したくは無かったからだ。何より何も覚えていない自分が恥ずかしかった。
「気持ちは分からぬでもないが羽目を外すのも程々にな。」
「へっ?」
「何だ、やはり何も覚えておらんのか。あの後、突然湯浴みがしたいと駄々をこねだして大変だったぞ。かなり酔っておったので皆で止めたのだが最後は服を脱ぎ出して暴れ......。」
「キャァ~、それ以上言うなぁ!」
らしくないのは分かっていた。だがこいつと出会って自分の中で何かが変わっているのも自覚している。
このままじゃ本当にあの日を迎える頃まで整理なんて難しい。寧ろ逆に期待してしまう、こいつが言う何の根拠もないただの願望に......。
(何より良からぬ事を想像してしまった自分が恥ずかしい。)
身体のほてりは幾分とマシになったが、それでも頬の赤みまでは未だ取れない。それを察した桔梗が笑いを堪えているのは何とも憎らしい。
「蘭が最後まで看病してくれたのだから後で礼を言っておくのだぞ。」
「わぁい、分かりました。」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
都までは割と早く着きそうだ。桔梗が用意していた馬を利用したからなのだが、勿論馬に乗ったことなどない紬は桔梗の馬で移動することになった。馬の速さと高さに最初は戸惑ったのだが意外と広いこいつの背中に掴まると少し不安が和らぐ気がする。
「桔梗様、あれは何ですか?」
「あれは樹氷だな。昨日はよく冷えたからな。ここら辺ではそれ程珍しくないんだ。」
「へぇ~、そうなんですね。初めて見ました、綺麗なものですね。」
「わぁ〜、湖まで凍ってますよ。」
「あぁ、年が明ける頃には人が乗れるくらい氷が厚くなるんだ。」
「へぇ~、そうなんですね。じゃあ、あれは?」
「あぁ、あれは行商の列だな。おおかた後宮に住まう妃たちが新年の準備とかで使いをよこしておるのであろう。」
「妃たち?現大皇の妃である《后妃》はお一人だけではありませんでしたか?」
「その通りだ、后妃は我が母君である菖蒲だけだ。」
「では妃たちとは?」
「それは我と我が弟の妃だが。」
そうだった、大皇は代々皇子を持つ親王が継承する事となっている。
そのために成人を迎えた親王は複数の妃を迎え入れる事となっている。確か現大皇が親王だった頃は二十人以上の妃が後宮に招かれたとも聞いた事がある。
皇子をもうける為、血筋を絶さぬ為に取られた実に単純な方法だ。
そして皇位継承第一位は桔梗様、そして第二位は弟君。桔梗様に皇子が生まれなければ当然第二位の弟君に皇位は継承される事になる。
后妃の座を狙う妃たちと大皇を巡っての兄弟の骨肉の争い......。
(これでは余計な争い生む事もまた必然なのだが......。)
「それじゃ桔梗様には他にも妃が?」
「......三人、そなたを入れたら四人となる。」
「へぇ~。」
「親父がどうしてもと言うので仕方無くだ。だが薔薇は成人前だと言うのに候補が十人はいると聞くぞ。」
(何だ、弁解しているつもりなのか?だとしたら何とも子供っぽい。)
「良いではないですか、貴方様はそういうご身分なのですから。」
(そうだ、こいつはいずれ国の頂に立とうとする御方。私などがどうこう言う話じゃない。)
「何か良くない事を考えている顔をしているな。」
「別に何でもありません、それよりそろそろ見えてきたのではありませんか?」
遥か前方、進む街道の先に聳える羅生門。そしてその先には後宮を囲む塀と朱雀門がある。
「よし、馬で行けるのは羅生門までだ。一旦厩舎へと向かうぞ。」
桔梗は手綱を引いて徐々にその速度を落としていく。非力な紬では慣性の法則には逆らえず、図らずも桔梗の方へと体重がかかってしまった。
「すいません、均衡を保つのも中々大変なものでして......。」
「気にするな、それより振り落とされぬようしっかりと掴まれておけ。」
「分かりました、気をつけます。」
紬は大きな背中に寄りかかった。先程までの向かい風が幾分ましになり、身体への負担が楽になった気がした。
それと同時に桔梗の鼓動を直に感じるようになったのだが、不思議と先程迄の動揺は感じなくなっていた。




