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目覚めたら魔法の国で、令嬢の中の人でした  作者: エス
PartⅡ

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70. 小さな染み、小さな記憶

「シャルロット様。もしご予定がなければ、今日は邸内をご覧になってはいかがでしょう」


 朝食を終えたところで、エルバンさんが声をかけてきた。


「せっかくの機会でございますし、レオン様の幼き頃のお話などにも触れていただければと思いまして。よろしければ私がご案内いたします」


「えっ、いいんですか? ぜひお願いします!」


 私が思わず身を乗り出すと、エルバンさんは満足そうに微笑んだ──が、その直後。


「いや、俺が案内する」


 向かいの席にいたレオンさんが、カップを置きながらさらりと口を挟んだ。


「どうせ今日は外に出る予定もない。お前は忙しいだろ」


「坊ちゃま、ですが……」


 エルバンさんが少し驚いたように眉を上げる。

 だがレオンさんはその反応を気にも留めず、私に同意を求めるよう続けた。


「久しぶりに見て回るのも悪くない。いいだろ?」


「う、うん!」


 何か言いたげに口を開きかけていたエルバンさんだったが、レオンさんと私を交互に見比べると、穏やかに微笑む。


「……では、お二人でゆっくりご覧くださいませ」


 そう言って一礼したエルバンさんの背を見送りながら、私は心の中で小さく浮かれていた。


(レオンさんと屋敷の中を散策……? やだ、なんかちょっと見学ツアーみたいで楽しそう……!)


「食べ終わってるなら、行くぞ」


「えっ、い、今から!?」


 私の浮かれた内心に気づく様子もなく、レオンさんは静かに立ち上がると、さっさと歩き出す。


「あ、待ってよ〜!」


 私はその背中を慌てて追いかけた。


 まず連れて行かれたのは、中庭だった。

 朝露の残る芝が陽にきらめき、手入れの行き届いた庭の奥には、大きな一本の木が立っている。その下に、木製のベンチがぽつんと置かれていた。


「ここ……綺麗だね」


 私はふと足を止めて、枝を広げる大木を見上げた。


「昔は、このベンチでよく本を読んでた」


 隣に立つレオンさんが、懐かしそうに呟く。


「ふふ、レオンさんらしいね」


「いや、母さんに連れて来られて仕方なしに、だ」


「え?」


「『この木の下は風が気持ちいいのよ!』とか言って、よく無理やり引っ張ってこられて。読書の時間って言ってたくせに、たいてい自分は先に寝てた」


「ええ〜!? お母様が?」


 思わず吹き出すと、レオンさんは少しだけ顔をしかめた。


「俺はちゃんと本を読んでたぞ」


「でもなんか、かわいい。そうやって本読んでる、ちびレオンさん、見てみたかったなあ」


 くすくすと笑いながらそう言うと、レオンさんはふっと照れ臭そうに目をそらした。


「……昔の話だ」


(そっか、レオンさんにも、そんな子ども時代があったんだぁ)


 木陰に視線を戻しながら、私は風に揺れる若葉の音に耳を澄ませた。


 次に案内されたのは、屋敷の裏手にある小さな物置小屋だった。石造りの母屋の脇に、木陰に紛れるようにひっそりと建っている。


「……ここも、よく来てた場所だ」


「えっ、物置? ここに?」


 私が首をかしげると、レオンさんは扉の前で立ち止まり、少しだけ笑った。


「クラウスに……よく叱られてた」


「うそ、レオンさんが?」


「ああ。だから叱られたあとは、よくここに隠れてた」


 その口ぶりは淡々としているのに、目元はどこか楽しそうで。ふっと目が合うと、彼は小さく視線をそらした。


「泣きながら……ってのは、さすがに覚えてないが」


「ふふっ、絶対泣いてたでしょ、それ」


 私は思わず笑ってしまった。

 あのクラウス先生が、それはもう容赦なく、ちびレオンさんを怒っていた光景が、目に浮かぶようだった。


 レオンさんも苦笑を漏らし、肩をすくめる。


「クラウスは、厳しかったが……嫌いじゃなかった」


 ぽつりと落とされたその一言が、妙に胸に響いた。

 きっと少年だった彼は、先生の言葉をまっすぐに受け止めて、悔しさを噛みしめながらここで頑張っていたのだろう。


 私はそっと、小屋の木壁に手を添えた。


「ここにもレオンさんの思い出が詰まってるんだね」


「……まあな」


 その後もレオンさんは、思い出話を交えながら屋敷の色々な場所を案内してくれた。


 最後に私たちがやって来たのは、屋敷の東側にある、小さな石畳のテラス。

 壁に蔦が這い、丸いテーブルと椅子が無造作に置かれたその空間は、広い屋敷の中でもいちばん見晴らしのよい場所にあった。

 椅子に座って視線を上げると、森の端から遠くの山並みまで、驚くほどくっきりと見渡せる。


「ここにはどんな思い出があるの?」


「そこは……リオがよく居座っていた場所だ」


「え、リオさんが?」


「学院の休暇中、泊まりに来るたびに『この景色が最高〜』だの『創作意欲が湧いて来た!』だの騒いで……。机を運んでやったら、勝手に詩とか書いてたな。でもすぐに飽きて昼寝してた」


「ふふっ……リオさん、想像つく」


「その時、リオが落としたインク瓶の染みが、まだその辺に残ってるはずだ」


 レオンさんが指差した先、石畳の一角には、わずかに黒ずんだ跡が残っていた。


「あっ、本当だ。消えないんだね、こういうのって」


「ふざけたやつだが……昔からあいつといると、退屈はしなかったな」


 少しだけ柔らかくなったレオンさんの横顔を、私はそっと見つめる。


(レオンさんの話……どれも素敵だったなぁ)


 それは、この足元の小さな染みのように、この屋敷のあちこちに残されたレオンさんの記憶の断片。ひとつひとつが確かにここに、レオンさんが生きてきた証。


「……いいな」


 私はインクの染みをじっと見つめながら、ぽつりと呟いた。

 レオンさんが、わずかに視線をこちらに向ける。


「ここには、レオンさんの思い出がたくさん詰まってるんだもんね」


 指先でテーブルの縁をゆっくりとなぞる。


「私の過去は……この世界には、ないから」


 口にすると、胸の奥がきゅっと締めつけられた。


 過ぎた日々は、もう遠く手の届かない場所にあって。

 この世界には、思い出す風景も懐かしさも──何もない。


 レオンさんは何も言わなかった。


 ただ穏やかな陽だまりの中で、黙ってその場に立っていた。

 その沈黙はやさしくて、言葉よりもずっと温かい。

 私はそっと顔を上げて、淡く光る山並みを見つめた。

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