69. 紫色の思い出
みんなの視線がこちらに集まっている気がして、なんだか舞台に立つ前みたいに緊張する。
(……うまくできるかな)
私はミルティーユの実を一つ掴み、目の前の台に置いた。殻は見た目以上にごつごつと硬く、これで本当に果物なのか疑ってしまうほどだった。
隣のご婦人が、木槌のような道具を手渡してくれる。
「割るときは、いきなり力を入れすぎると、果汁が飛び散っちゃうから気をつけてくださいね」
「は、はい……!」
ごくり、と喉を鳴らす。
言われたとおりに構え、木槌を持った手に力を込めた。
慎重に、優しく、正確に。
──パスン!
「うわっ!?」
手元で実がすべって弾けた。
殻の隙間から吹き出した紫色の果汁が、勢いよく私の袖口とエプロンの胸元を直撃する。
「あ〜〜〜やっちゃったぁぁぁ!!」
私が情けない声をあげた瞬間、空気が凍りついた。
隣のご婦人は目を丸くして息を呑み、周りも「しん……」と気まずく静まりかえる。
全員、明らかにどう反応していいのか分からない顔をしていた。
(あ、やば。変な空気にさせちゃったかも……?)
──と、次の瞬間。
その沈黙を吹き飛ばすように、ライナスさんが腹を抱えて爆笑する。
「ぶはっ! シャルロット様、なかなかの飛ばしっぷりっすねっ! 果実にも好かれてるっす〜〜〜!」
「ちょ、ライナスさん、笑わないでってば!」
思わず頬をふくらませて言い返すと、レオンさんが木槌を手にしたまま、小さく肩をすくめた。
「……お前、下手すぎるだろ」
「レオンさんまでっ!?」
私が抗議するやいなや、ライナスさんがさらに「ひぃ〜〜っ」と笑い転げる。
それにつられたように、ご婦人たちが顔を見合わせ、あちこちからくすくすと笑いが漏れ出す。ついには子どもたちまで「お姉ちゃん下手っぴー!」と笑い声を上げた。
気づけば小屋の中は笑いの渦。
だんだんと私も可笑しくなってきて、紫色の染みをつけたまま、一緒になって大笑いする。
そんな中、ライナスさんが腰に手を当てて胸を張った。
「お姉ちゃん下手っぴだったよね〜? よーし、お兄さんが見本を見せてあげるっすよ!」
「は? じゃあ、ライナスさんやってみてよ」
私は口を尖らせてライナスさんを見守る。
ご婦人たちが「お、お気をつけて……!」と慌てて下がると、ライナスさんは得意げに木槌を構え、勢いよく振り下ろした。
──ドゴッ!
「ぎゃっ!? な、なんすかこの殻! かっっってぇぇぇ!!」
見事に木槌がはじかれて、手元の果実が宙を舞う。
ド派手に飛び散った紫色の果汁で、ライナスさんは頭から顔からグッショリ。
「うわぁっ!? ひ、冷たっ!?」
次の瞬間、またしても子どもたちが大爆笑。
さっきよりもさらに大きな笑い声が、小屋いっぱいに響き渡る。
「……お前も大差ないな」
レオンさんの容赦ないひと言に、ライナスさんが「今のは違うっす!」「今のはたまたまっすから!」と慌てて弁解し、笑い声はますます弾けていった。
そんな中、レオンさんがすっと前に出る。
黙って手を伸ばし、近くのミルティーユをひとつ掴むと、木槌を構え──
コン。
たった一撃。
殻は見事に真っ二つに割れ、中から鮮やかな果肉がつやりと顔をのぞかせた。
「……こうやって割るんだ」
静かな声が響いた瞬間、周囲に「おお〜っ!」という歓声が広がる。
「えっ、え〜〜〜、なんでそんなに綺麗に割れるの〜〜!?」
思わず叫んでしまった。隣でライナスさんも、目をひん剥いて驚いている。
「レオン様、すっげ〜〜っ! ちょ、魔法とか使ってズルしてないっすよね!?」
「は? 使うわけないだろ」
「え〜、だってあんな簡単に割れるのおかしいっす!!」
「そうだよね! 私たちこんなんになっちゃってるのに!!」
二人でわいわい騒いでいると、ご婦人たちがくすくすと笑いながら話しかけてきた。
「でもでも、最初はみんなそうなのよ」
「そうそう、私なんか三回くらい汁ぶちまけたし!」
「お嬢さんもお兄さんも、何回でも楽しんでって!」
ご婦人たちの顔からは、いつのまにか、あの最初に感じたよそよそしさは消えていて、その笑顔は、まるで昔からのご近所さんのように親しげだった。
(え、なんか……嬉しいかも)
その言葉に背中を押されるように、私はもう一度木槌を握り直す。
隣ではライナスさんも「よ〜し、リベンジっす!」と気合十分に構えていた。
「せーのっ!」
ふたり同時に木槌を振り下ろして──
パキンッ!
「おっ、いけたっすね!」
「やった、割れた!」
ぱかりと殻が開くと、中からつややかなミルティーユの果肉が顔をのぞかせた。さっきまでのドタバタが嘘のように、今度は見事な出来栄え。
「すごいすごい! さっきよりずっと綺麗っすよ、シャルロット様!」
「ふふん、コツ掴んじゃったかも!」
勢いづいた私たちは、それから何個も何個も夢中で殻を割り続けた。
木槌の音が小屋にリズムのように響き、ご婦人たちも笑顔で見守ってくれる。
「お嬢さん、ずいぶん上手になったねぇ」
「やっぱり若いと覚えるのが早いのね」
褒められて、思わず照れ笑いを浮かべた。
すると、それを見ていたひとりのおばさまが、ぽつりと呟く。
「もっとこう……近寄りがたいお方かと思ってたわ。なんせ、お貴族様だし」
その言葉に、周りのご婦人たちも「そうそう」「最初は声かけづらくてねぇ」と頷く。
私は一瞬言葉に詰まったけれど、すぐに微笑んで首を振った。
「私も、最初はちょっと緊張してました。でも、皆さんとこうしてお話しできて……とても嬉しいです」
「まぁ、素直で可愛らしいこと」
そこへ、ライナスさんがすかさず口を挟む。
「ですよねぇ!? シャルロット様が『近寄りがたい』とか、どこの世界線の話っすか。この方はねぇ、道具屋の偏屈じいさんまでも虜にする、超・親しみやすさの持ち主っすよ!!」
「ちょ、ライナスさん!」
思わず慌ててツッコむ私に、ご婦人たちがぷっと吹き出す。
「ふふっ、なんだか仲が良くて見てて楽しいわね」
「ほんとねぇ。どうやら、ちょっと誤解してたみたい」
「レオン様も、あなたと話してるときは、肩の力が抜けてるようだったわ」
場の空気がふんわりとほどけていく。
気づけば、ご婦人たちの口調もいつの間にか柔らかくなり、親しげな笑いがあちこちからこぼれた。
その中のひとりが、いたずらっぽく目を細めて言う。
「ところで……ご結婚は、もう間近なのかしら?」
「えっ、あの、それは……!」
思わず顔が熱くなる。
「あらまぁ、照れてる!」
「ほんと、初々しいわねぇ」
次々と笑い声が重なり、小屋の中があたたかな空気に包まれた。
やがて、年配のご婦人がふっと優しく言葉を添える。
「領主夫人になったら、またこの町にも顔を見せておくれね」
「……はい!」
ぱっと顔を上げて、勢いよく返事をした。
(やだ……まだ覚悟もできてないくせに、思わず「はい」なんて言っちゃった)
(でも、そう言ってくれるってことは……受け入れてもらえたのかな、私)
昨日はあんなに不安だったのに。
なんだか少しだけ、この町に溶け込めた気がした。
むずむずと胸の奥がくすぐったくなる。
(今日、来てよかったな……)
気を抜くと顔がにやけてしまいそうで、私は新たなミルティーユをひとつ掴むと、大きく木槌を振り上げた。
*
殻割りを終えて小屋を出る頃には、私もライナスさんも、全身これでもかと紫色。
レオンさんだけが、来たときのままひとつの染みもなくきっちりとしていて、呆れたようにこちらを見ていた。
(ふん、いいもん。これは頑張った証なんだから!)
それでも胸の中はぽかぽかして、嬉しくてたまらなかった。
「レオンさん、今日すっごく楽しかった! 誘ってくれてありがとう!」
とびきりの笑顔でそう伝えると、レオンさんはふわりと目元をやわらげる。
「……な? 大丈夫だっただろ」
まるで、最初からこうなることを知っていたみたいに。
「うん!」
思わず力いっぱい頷いた私は、そのまま上機嫌で屋敷へ帰った。
*
屋敷に戻ると、出迎えたエルバンさんが私とライナスさんを見て目を丸くした。
けれどすぐに懐かしむように目を細めると、急いでお風呂の支度を整えてくれた。
そしてあとで、こっそりと教えてくれたのだ。
「坊ちゃまも、昔はできなかったんですよ。同じようにお祭りで、ミルティーユがうまく割れないことが悔しくて……。その日はずっとそこで練習なさって、帰るころにはご自分の肌の色が見えないくらい、全身が紫色でした」
「えっ……レオンさんが……?」
思わず想像して、ぷっと吹き出してしまう。
(もうっ、なによ……あんなに『最初からできましたけど、なにか?』みたいな顔しておいて!)
(あとでそれ、ネタにしてからかっちゃおうかな!)
でも──紫色になったちびっこレオンさんを思い浮かべたら、あまりに可愛くて。
(……うん、やっぱり許してあげようっと)




