31. シャルロットは、あなたよ
気がつけば、またあの森に立っていた。木漏れ日がきらめき、足元にはやわらかな苔。辺りには、小さな光の粒がふわふわと漂っている。
(ここ、あのときの……)
不思議と、驚きも不安もなかった。それより体の中でじわじわと膨らむ、ある予感。
(また……あなたに会える気がする)
チリン、と鈴の音が響いた。朝露が葉から滑り落ちるように、白い影がすっと現れる。
「シャルロットさん……!」
思わずその名を叫んだ。彼女はまっすぐ私を見つめ、ふわりと微笑む。
その瞬間、森の光の粒が淡くきらめきを増した。風が止み、世界にふたりきりになったような静けさが訪れる。互いにただ目を合わせたまま、しばらく言葉を忘れた。
やがて、彼女は小さく息をつくようにしてつぶやく。
「あなたで……よかったわ」
彼女のまつ毛が小さく揺れた。
「私が抜けたあとの体は……ただ、からっぽだった」
「笑うことも、怒ることも、誰かを好きになることも……全部、もうできなかったの」
「でもね、あなたが来てくれたから」
「からっぽの私が──大切な人たちを、もう一度想うことができたの」
ゆっくりと語られる言葉は、夕暮れに溶ける鐘の音のように、まっすぐ私の心に響いてくる。
「だから、ありがとう」
「お父様やお母様を好きになってくれて」
「ありがとう」
「リオと……仲良くしてくれて」
「あなたがいてくれて、本当に嬉しいの」
凛と穏やかだった彼女の瞳が、ふっと感情に揺れた気がした。
「これからは、あなたが私」
「私の大切な人たちを、あなたの手で、あなたの想いで──愛してあげて」
シャルロットさんの願いが、静かな森にこだまする。その瞬間、森の奥で風がざわりと木々を揺らした。光の粒が一斉に舞い上がり、まるで彼女の願いが森ごと響いているみたいだった。
その声が、瞳が、あまりにも澄んでいて。森の余韻が胸の内にさざ波のように広がっていく。喉がじわりと熱くなって、声を探しても出てこない。それでも──心のどこかが、確かに震えていた。
(言わなくちゃ……)
スカートの布を握る手に、ぎゅっと力が入る。鼓動に押し出されるみたいに、言葉が喉まで迫ってきた。
「私……ずっと、シャルロットさんのフリをしなきゃって……思ってた」
ようやく絞り出した声は、細くかすれて震えていた。
「あなたの大切な人たちを傷つけないように」
「この人たちを、好きになって……大事にしたいって……」
徐々に視界がにじみ、彼女の姿が揺れて見える。
「でも、ずっと心の中では『ごめんなさい』って思ってたの」
涙がつうっと、頬を撫でるように伝った。
「私はあなたじゃないのに。私なんかが愛されていいのかなって」
「私がみんなを想って、いいのかなって」
止められない想いが、次々と胸元を濡らしていく。
「でも、あなたに託して貰えるなら……」
見上げた先で、シャルロットさんはただ静かに微笑んでいた。
「私がシャルロットになる。シャルロットとして、この世界でみんなを愛していきたい」
その言葉は涙で震えていたけれど、偽りのない私のこれからの決意だった。
その瞬間、森の空気がふっと変わった。木々の隙間から差す光がじわじわと強まり、あたりを包み込んでいく。
その光に照らされ、シャルロットさんの輪郭が儚く揺らめいた。
「……行かなきゃ」
何かに呼ばれるように、彼女がぽつりと呟く。
森が静かにざわめき、木々の影は溶けるように消えていった。漂っていた光の粒も、一つひとつ空へ散るように薄れていき、世界そのものが夢のように遠のいていく。
(このまま……もう二度と、会えなくなる……!)
「待って!」
思わず叫ぶ私の声に、シャルロットさんは、ゆっくりとこちらへ視線を戻す。
「あなたなら、きっと、大丈夫」
「シャルロットさん!」
伸ばした手は、けれど届くことはなかった。満ちていく光の中で、彼女はそっと、優しく最後の言葉を紡ぐ。
「シャルロットは──あなたよ」
その声を残して、彼女の姿は森ごと光に溶けて消えていった。
*
目を覚ますと、ほんのりと差し込む朝の光が天蓋のカーテンをやさしく染めていた。
けれどすぐには起き上がることができず、しばらく夢の面影をたどる。まぶたの奥には、まだ彼女の姿が残っていた。天蓋を見つめながら、胸の奥に残る温かさと寂しさを抱きしめるように、ぼんやりと時を過ごす。
どれくらいそうしていただろう。深く息を吸い込み、ようやく体を起こした。
新しい朝。
新しい一日。
私は、今日からシャルロットとして生きていく。
迷わず、誇りを持って。
そして、心から愛を込めて。
窓の外には、いつもと変わらない景色が広がっている。
でも、不思議と世界が少しだけ明るくなった気がした。
*
朝食の後、私は伯爵邸の広い廊下をお母様と二人で歩いていた。
ふとお母様が立ち止まり、私の顔を見つめる。そして何も言わず私の髪にそっと手を添えると、目尻を優しく下げて微笑んだ。その何気ない仕草が嬉しくて。
(……言ってみようかな)
私はお母様を見て、はにかむように笑った。
「お母様、大好き」
一瞬だけお母様の瞳が驚きに揺れ、すぐにぱっと綻ぶ。
「まあ、急にどうしたの? でも……私もあなたが大好きよ、シャルロット」
ふたりで顔を見合わせ、思わず笑い合った。
そのまま並んで廊下を歩きながら、私は小さくつぶやく。
「……あとで、お父様にも言ってみようかな」
「まあ。それは危険だわ」
お母様はおかしそうに肩を揺らしながら、目を細めた。
「そんなこと言ったら、公爵邸に帰れなくなるかもしれないわよ?」
ふたりの笑い声が、朝の光に満ちた廊下にやわらかく溶けていった。




