30. 月夜のベランダ、母娘の語らい
馬車の窓から見える景色が長閑に流れていく。石畳の道、なだらかな丘、遠くに見える風車の影──。
(この景色……もう、何度目かな)
初めて里帰りしたあの日から何度も足を運ぶうちに、伯爵夫妻とはもうすっかり打ち解けた。
ギルベルト伯爵は変わらず過保護すぎるほどの愛情を注いでくれるし、セシリア夫人の陽だまりのような微笑みを目にすると、不思議と肩の力が抜ける。まるで、本当の親子みたいだなって思えるくらいに。
(だからこそ……)
手を膝の上でぎゅっと握りしめたとき、不意にレオンさんが口を開いた。
「伯爵夫妻に会うのが、まだ緊張するのか?」
私は困ったように首を振ると、力なく答える。
「ううん、緊張はしないよ。……むしろ、あの家にいるとホッとするかも」
そして、すっと視線を足元に落とす。
(……それがかえって苦しいんだよね)
その心の揺れを悟られたくなくて黙り込む私。けれどレオンさんは、ほんの一瞬だけこちらを見て、それから視線を外の景色へと戻した。淡々とした声の奥に、わずかな気遣いがにじむ。
「そうか。それならいいが」
窓の外に視線を流したまま、何気なさそうに言葉を継ぐ。
「今日は俺は、挨拶だけしたらすぐに戻る。お前は、ゆっくりしてこい。……泊まってきてもいい」
「え……うん、わかった」
口調は別にいつもと変わらないのに。なんだかその声が優しい気がして、ちょっと驚いてしまう。
(これも、恋する乙女フィルターだったりするのかな……!?)
私はレオンさんにバレないようにくるりと窓の方を向き、緩んだ頬をそっと押さえた。
(……でも、いいよね。せっかくだし、今日はありがたく甘えることにしちゃおっ)
小さく息をついて、私は窓の外に広がる青空を見上げた。
*
伯爵邸に到着すると、すぐに伯爵が両手を広げて駆け寄ってくる。
「おかえりぃぃ、シャル! この日をどれほど心待ちにしていたことか! まったく、前回来てからどれだけ日数を数えたと思っているんだ!」
(うわっ、お父様相変わらずすぎる……!)
「もうっ、あなたったら。ほんの一週間ほど前にも会ったばかりじゃないですか」
夫人が、いつもの穏やかな微笑を浮かべながら、涼やかに言った。
「一週間もシャルに会えなかったんだぞ! 一日の終わりにお茶を飲みながら、『あと何日』と指折り数えるのが、ここ最近の日課だったんだ!」
「ふふ……お父様、ただいま」
最初はドン引きしてしまった伯爵の溺愛っぷりにも、最近はすっかり慣れてしまった。
(なんか、このやり取りもホッとするなぁ)
「さあ、シャル、行きましょう。今日はニックが、あなたの大好きな苺のパイを焼いたのよ」
そう言って夫人は私を室内へ促す。私の腰に添える手があまりにも自然で──すごく、すごく嬉しいのに。やっぱり心の隅がツキンと小さく痛んだ。
*
応接間のテーブルには、紅茶と一緒に焼きたての苺のパイが並んでいた。こんがりと黄金色に焼けた生地から真っ赤な果実が宝石のように覗いていて……うん、これは絶対美味しいやつ。
ギルベルト伯爵は椅子を引くやいなや、私の隣をすかさず陣取り、肘がくっつきそうな勢いで身を乗り出してくる。
「ところで最近はどうなんだい? レオン様にちゃんと大事にされているかい?」
大きな瞳をわざとらしく潤ませて、眉を八の字にゆがめるその顔に、私は思わず肩を落とす。
「お父様……毎回それを聞きますのね」
「いや、大事なことだ! レオン様のことは信頼しているがな。シャルの優しさを当然のように思っているのではないか? まったく、気が気でないよ」
拳を握りしめながら声をひそめるその姿は、まるで秘密の相談を持ちかける子どものようで。
「そ、そんなことは……」
(あ〜あ、またお父様の心配性スイッチが入っちゃった)
視線をそらして溜息をこらえたところで、夫人がピシャリと口を挟む。
「あなた! そんなこと、シャルの顔を見れば、幸せにやってることはわかるでしょう?」
呆れたような笑みを浮かべる夫人に、伯爵はぐっと言葉に詰まらせた。
「むっ……そ、それは……うむ……! ならばよいのだ!」
不器用に胸を張る夫を横目で見やりながら、夫人はゆったりと紅茶を口にした。湯気がやわらかく立ちのぼり、部屋に安らいだ気配が満ちていく。
この屋敷は、どこもかしこも心地よさで満ちている。ふたりの声も、目を細めて笑う仕草も、目の前にある苺パイの艶やかな焼き色も──全部がそれを物語っていた。
(なのに、どうして……)
胸の奥が、またチクチクと痛み出す。
(私は、本物のシャルロットじゃない)
ひと口食べた苺パイの、甘酸っぱい香りに喉が詰まった。これだって「あなたの大好きなパイ」って言われて差し出されたけど、私は今日が初めて。ほんとは「何これ、すっごくおいしい!」って言いたいのに、それさえ言えない。
(私、ずっとこの人たちを騙して生きていかなきゃいけないのかな)
(大好きなのに。どんなに仲良くなっても、抱きしめてもらっても、私はこの家の本当の娘じゃない)
笑みを貼りつけたまま、紅茶を口に運ぶ。その香りは豊かで、でも味はほんの少しだけ苦かった。
*
夜も更けて屋敷の空気がしんとする頃。部屋のドアが控えめにノックされた。
「シャル、よかったら少し二人でお話ししましょう?」
現れたのは、セシリア夫人だった。艶やかな絹地のナイトドレスに身を包み、その上から肩に淡い色のショールを羽織っていた。光を受けて、ドレスの裾が月明かりのようにほのかに揺らめいて見える。
「……うん」
促されるまま、私たちはベランダへ出る。夜風は少しひんやりしているけれど、不思議とやわらかくて。
月の光がしっとりと庭を照らし、葉の影を淡く地面に落としている。カーテンが風にふわりと舞い、草花の香りがほんのり鼻先をくすぐる。
(あ……綺麗……)
その景色に見とれていると、セシリア夫人がふと私を振り返り、夜空を映したような瞳でクスッと笑った。
「なんて、素敵な夜なんでしょうね」
庭を見渡しながら、のんびりとした口調で続ける。
「綺麗な景色に……隣には、可愛い娘もいて。こんな夜は、つい胸の内を話したくなってしまうわ」
その声は、ただの世間話みたいに自然で、でもどこか深いところに届いてくるようだった。
夜風がふたりの間をすり抜け、髪をさらりと揺らしていく。
「これは、そう……私のひとりごとよ」
夫人は目を伏せ、穏やかに言葉を重ねた。
「最近のあなたは、少し変わった気がするの」
「良いとか悪いとか、そういう話じゃないの。ただ、前よりずっと……明るくなった。ぱっと光が差したような、そんな感じ」
(そんなふうに見えてるんだ……)
「でもね、もしかしたら、いま私の可愛い娘は──」
そこで夫人は言葉を濁し、夜空を仰いだ。
「何か、胸の奥で迷っているのかもしれないわね」
(っ……!)
「それが、私たちのことを想ってのことなら……そんな必要はないのに」
風に揺れる髪を払う仕草ひとつで、儚く夜の闇が流れていく。
「昔のシャルも、今のシャルも、どちらも私の大切な娘よ」
言葉が、羽のようにゆっくりと降りてくる。
「大事なのは、あなたが笑ってくれること」
その声に、視界がふっとにじんだ。涙が勝手にどんどん目の奥にたまっていく。
視線の先で涙越しに揺れる夫人は、誰に言うでもなく、まるで、ぼんやりと浮かぶ月にでも話しかけているようだった。
たぶんどんな言葉をもらっても、私の中の棘は抜けない。だから赦されたかどうかじゃなくて。
「私はね、あなたが大好きよ、シャルロット」
それでも、夫人の言葉は──棘が刺さったままの心を、そっと撫でてくれた。
「……おかあ、さま……っ」
しゃくりあげる私を、夫人はぎゅっと引き寄せ、背中をあやすようにぽんぽんと叩いた。
「あらあら。私、ひとりごとを言っていただけなのに……いったい、どうしたのかしら?」
私の髪をそっと撫でる手。その声は、子守歌のように耳元に降りてきて、じんわりと満たしていく。堪えきれず、ぽつりと問いかけた。
「お父様も……そう思ってるのかな」
夫人は僅かに目尻を下げると、親指で私の頬を拭い、いたずらっぽく首をかしげる。
「さあ、なんのことかしら?」
とぼけるような仕草なのに、その表情は──何もかも見通しているような、澄んだ母の顔だった。
「あの人は……過去も今もこれからも、いつだって百パーセントの愛で、あなたを見てるわよ。見ればわかるでしょう?」
その言葉に、胸のつっかえがほどけていく。私は、こくりとうなずいて、また新しい涙をこぼした。
ふたりで寄り添ったまま、月の光の中に身を溶かすようにゆだねる。
夜は静かに流れ、ぬくもりだけが確かにそこにあった。




