26. 乙女の気配が漏れてます
その朝、私はいつもよりずいぶん早く目が覚めた。変な夢を見たとか、騒がしかったとか、そういう理由じゃなくて、たぶん昨日のせいだ。
窓の外はまだ青を溶かしたようにぼんやりと薄暗く、邸の中はしんと静まりかえっている。それなのに、働き者の私の心臓だけは、朝から忙しなくフル稼働中だった。
(あれ、マジで夢じゃないよね!?)
ソファ前のテーブルに、ちょこんと置かれた小さな包み。中身はもう見なくてもわかってる。レオンさんがくれた、あのチャームだ。私はしばらくじいっとそれを見つめていたけど、やがておそるおそる手を伸ばして包みを手に取った。
開けた瞬間、玉手箱みたいにぽわっと煙が出てきて消えてしまうんじゃないか、なんてあり得ない想像が頭をよぎる。でも、そおっと覗いた包みの中に、チャームはちゃんとあった。昨日と変わらず、ゆらゆらキラキラしてた。
私はそれを、大事に大事に包みから取り出して、テーブルの上にコトッと置く。
「似合ってる。思った通りだ」
その瞬間、脳内再生されるレオンさんの声。
(うぎゃーーーーっ!!!!)
たまらなくて、ソファにぼふんと倒れこみ、クッションに顔を埋めて足をバタつかせた。だめだ、思春期女子に刺さりすぎ。
「は〜〜〜〜無理〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
思わず声に出ていて、私は慌てて起き上がる。静かな朝の時間に一人でこんなに騒いでるの、ちょっとヤバいでしょ。
(でも、止められないの! だって、心の中でちっちゃなハートが暴れてるから!)
そしてまた、何度も何度もチャームを手にとってはジタバタするのを繰り返した。
(はぁ……やばい。これ、完全に……)
胸がきゅうきゅう切なくて苦しい。私はまだ、どうしたらいいのかも、何を思えばいいのかも、わからないけど。
とりあえず今は──全力でニヤニヤすることだけは、許してほしい。
*
朝食の席に着くと、レオンさんはすでにテーブルについていた。相変わらず隙がなく、完璧なナイフさばきで料理を口に運んでる。
(……でもなんか、今日のレオンさん、ちょっとよそよそしい?)
目は合ったし、挨拶も声のトーンもいつも通り。でも、なんだろう。距離感? 空気感? なんとなく……スンってしてる。昨夜あんなに私の心をざわつかせた「似合ってる」発言の主とは別人のように、モードが切り替わってしまったような気がする。
私はパンをちぎりながらこっそり様子を伺う。けれどレオンさんの視線は、ずっと自分の皿に落ちたままだった。
(ま、まさか、昨日のチャームのこと後悔してるとか? あんなの渡すんじゃなかった、とか思っちゃってる!?)
ふと、そんな最悪な考えがよぎってしまって、口元がぎゅっと引き結ばれる。
(……ない、よね?)
思考が真っ暗な穴に落ち始めたところで、カイルさんが水差しを手に「失礼します」と入ってきた。
テーブルの側まで来たところで、いつもと違う私たちの空気に気づいたのだろうか、私とレオンさんを交互に一瞥して、ぴたりと手を止める。
「ほ、本日は晴天。気温も穏やかで、お散歩には最適な一日になるそうですよ」
いやいや、いつもなら絶対言わないようなお散歩情報なんか出てきちゃったし。しかも水を注ぐ手つきが、やたらゆっくりでぎこちない。
でもカイルさんの気遣いも虚しく、レオンさんは軽く頷くだけ。そこから会話が弾む気配はない。
(ああもう〜〜〜なんか気まずい〜〜〜〜!)
(誰かこの空気どうにかして〜〜っ!! ってか、昨日のちょっと優しかったレオンさんはどこ行ったの!?)
せっかくの幸せな夜の余韻が、気まずい朝の空気に飲み込まれそうで。何を話していいのかもわからず、私はジャムの瓶を手に取り、パンにこれでもかと塗りたくった。
(うん。困った脳には糖分補給!)
そう言い聞かせ、あきらかに比率がおかしい山盛りジャムのパンに齧りついた、そのとき。ふと視線を感じて顔を上げると、こちらをじっと見ているレオンさんと目が合った。
「……」
「……」
慌ててパンをもぐもぐ咀嚼して取りつくろう私に、レオンさんがぼそっとひと言。
「太るぞ」
「っ!!?(もぐもぐもぐもぐもぐ)」
文句を言いたいのに口が塞がっていてどうにもならない。レオンさんはそんな私を見てほんのわずかに目を細め、それからさっさと席を立って行ってしまった。
「……(ごくん)。ちょ、ちょっとーー! レオンさん!?」
やっと口が自由になった私は、レオンさんの背中に盛大な抗議の声を投げかけた。……まあ、届かなかったけど。
(もうっ、ほんと腹立つ!)
パタン、と静かに閉じられた扉に向かって、思いっきりイーっとしておいた。
「シャルロット様、紅茶が冷めます」
カイルさんの冷ややかな声でハッと我にかえり、私は再びパンを齧った。もぐもぐと無心に噛んでいるうちに、さっきまで胸の中でぐるぐるしていた不安が、ふわっと遠のいていく気がする。
ふいにジャムのベリーがぷちっと弾け、口の中に甘酸っぱさが広がった。
(……うん。なんか、大丈夫かも)
たったひと言。それもよりにもよって、ロマンスのかけらもない言葉なのに。どうしてかレオンさんのその声は魔法みたいに胸に沁みて、沈みかけてた気持ちをそっと引き上げてくれた。
「……あまっ。ジャムつけすぎ」
「当たり前です」
カイルさんの冷ややかな声に、私は顔をそむけて、甘ったるさに耐えながら無理やりパンを食べ続けた。
*
その日の昼前、レオンはいつものように執務机に向かい、静かに書類を捌いていた。そこへ、ノックもなくぬっと現れる影がひとつ。
「おーっす。チャーム王子、昨日は楽しめた〜?」
リオがにやにやしながら入ってきて、ドサっとソファに腰を下ろす。
「……誰に聞いた」
顔を上げ、レオンが睨む。
「いや〜まさかレオン君が、女の子とふたりでお祭りに行って、チャームまで買ってあげちゃうなんてね〜。ティナが大興奮で言い回ってたよ〜」
レオンは深くため息をつき、再び書類に視線を落としながら、どうでもいいことのように答えた。
「別に深い意味はない。気に入ってそうだったから買ってやっただけだ」
だがリオは「乗ってきた!」というように目を輝かせると、探るような含み笑いでレオンを見る。
「ふ〜ん、で? 渡す時に何か言ったの?」
「……」
無言になったレオンに、リオはガバッと身を起こし、目を丸くしながらなぜか大喜び。
「え、言ったんだ!? なになに? 何て言ったの!? 言わないと、みつきちゃんに聞きに行っちゃうからねっ?」
レオンはしばらく黙って書類に目を落としていたが、リオが椅子から腰を浮かせたのを見ると、心底呆れ顔で、ぼそっと呟いた。
「……似合ってる、とは言った」
その途端、リオは信じられないものを見たように口を押さえ、「……んふっ」と妙に嬉しそうな声を漏らす。すぐさま、レオンの鋭い睨み。リオはすとんとソファに座り直すと、口を押さえたまま、独り言のように呟いた。
「レオンくん、それ、一番効くやつ〜」
そしてまた、やたら楽しげに喉を鳴らした。リオはひとしきり親友の「無自覚イケメン発言」の余韻を楽しむと、今度はわざと大きめの声でレオンに聞かせるように言った。
「なるほどね〜。それでレオン君は恥ずかしくなって、翌朝よそよそしくなっちゃったんだ〜」
「……別によそよそしくなんてしてない」
仏頂面で吐き捨てるレオンの声に、すぐさまリオが楽しげにかぶせてくる。
「はい、嘘嘘〜! カイルが言ってたもんね。で、みつきちゃんの反応はどうだったの?」
「……普通だった」
レオンが涼しい顔で即答すると、リオは「うわ〜〜」と大げさに嘆き、額をぺちんと叩く。すくっと立ち上がると、つかつかとレオンに歩み寄り、机に片手をついてレオンを見下ろした。
「お前ってほんと、そういうのに鈍いね〜。みつきちゃん今ごろ『レオンさん、渡したこと後悔してるんじゃ』な〜んて、悩んじゃってるんじゃない?」
「……」
ほんの一瞬、レオンの視線が泳いだのを、リオは逃さなかった。にやりと笑うと、くるりと身を返して両手を机にどんっと置き、ここぞとばかりに畳み掛ける。
「うわ、完全に動揺してる〜! あ〜あ、みつきちゃん可哀想〜」
「いいから、用がないなら出ていけ。今忙しい」
レオンが話を切ろうとするのを見て、リオはパッと両手を机から離し、からかうように肩をすくめた。
「はいはい、照れてるレオンさんをからかうのが俺の唯一の娯楽だからね〜。じゃ、ご希望通り帰りますよ〜」
そう言って、ひらひらと手を振り扉へ向かう。
「でもさ、いいんじゃないの〜」
少し離れたリオの声に、「まだいたのか」とでも言いたげにレオンが顔を上げると、妙に真面目な顔でこちらを振り返っているリオと目が合った。
「大事にしなよ。ちゃんと気持ちを言葉にすることってさ、逃すと二度とできなくなるかもしれないから」
それだけを言い残すと、リオは今度こそ静かに部屋を出て行った。
*
その日の夜、私は自室の棚にそっとチャームを飾った。音を立てないように指先で優しく棚板に置いた瞬間、チャームの中のきらめきはふっと動きを止め、またすぐにゆらりと揺れ始める。夜灯のやわらかな光を受けて、壁に映った淡い影が幻想的に揺れたのを見つけて、思わず「わあ……」っと、小さく声がもれた。
(結局、今日一日ほとんどレオンさんと会話らしい会話、してないなぁ)
気持ちを自覚した途端、レオンさんと話せないのがやけに寂しく感じられた。でも、あの朝の「太るぞ」発言を思い出すと、胸の奥がほんの少しゆるむ。
きっとレオンさんも昨日のことを後悔してたわけじゃない。むしろ、ちょっと気まずくて話しかけづらかっただけなのかなって。何となくだけど。
(最後にもう一回だけ癒されよ……)
私はまたチャームに視線を移し、まるで水の中を泳ぐみたいにさらさら揺れ動くキラキラを、ぼんやりと眺めていた。
「まぁまぁ、そちらが、レオン様からいただいたチャームですか?」
突然ドアの隙間からひょこっと顔をのぞかせたのは、マーサさんだった。
「うわっ、マーサさん。びっくりするじゃん、ノックしてよー!」
マーサさんは、ふふっと笑いながら入ってくる。
「だってシャルロット様のお部屋から、なんだか乙女の気配がしていましたからね。ちょっと覗いてしまいました」
「もう〜〜乙女の気配って何よ〜〜」
私がぷくっと頬をふくらませると、マーサさんは何も言わずに私の隣まで来て、並んで棚を見つめた。静かな部屋に、チャームの中のキラキラがふわふわと揺れて──ふたりしてしばらく黙って見入ってしまう。
やがてマーサさんは小さく息をつき、ふんわりと優しい笑みを浮かべた。
「よかったですねぇ、シャルロット様」
「え?」
「いえ、べつに。さ、明日もクラウス様とお勉強でしょう? おやすみなさいませ」
「……うん、おやすみなさい」
やさしく閉まる扉の音を聞きながら、私はチャームにもう一度視線を落とした。
(もうっ、ほんとマーサさんってば。乙女の気配って何なのよ!)
苦笑しつつランプを落とし、ベッドに潜り込む。枕に顔を埋めると、なんだか胸の奥がそわそわしてくすぐったい。
(……出てるのかな? 乙女の気配)