法治国家
法の下に平等であるならば
罪の前でも平等でなければならない
貴方の靴の中にウンコが入っていたとする。他人の靴にウンコをする奴が悪いのは当然だが、さて、如何した物か。そもそもウンコをしたのか、誰かのウンコを入れたのか。だとすれば、このウンコは私の物ではないのだから、他人の靴に入れてしまっても問題無いのではなかろうか。
貴方は「それはない」と笑い飛ばすかもしれないが、実際にそうであった場合、踏み止まれると言い切れるであろうか。私は6〜7割方は持って行かれてしまうと見ている。それだけ怨嗟の念は強い影響力を及ぼすのだ。
このままだとウンコを移動したい念がウンコを呼び、ウンコは他人の靴を転々と旅して回る事になる。それは余りに愚かしい事とは思えないのか。負の連鎖は何処かで断ち切らなければならない。そう考えて事前に準備するだけで、悪い方向へ流されてしまう危険性は2〜3割程に低下するであろう。
何故人は「我慢」をしなければならないのか。日本のボクサーが強いのは減量を行うからであるという事は御周知の通りだが、「我慢」の答えが其処にある。減量をすれば苦しい思いをする事になる。だからこそ「負けられない」と心の底から頑張れるのだ。
従って、負の連鎖を断ち切る為にも「我慢」が必要なのである。天然の罠に掛かった所で、誰の所為にも出来はしない。とは言え、人間と違って自然は裏を描いたりはしない。快楽に流れ行く者を篩に掛ける位であろう。森羅万象から鑑みても適切であるのだから、他人の所為にせずに自ら解決しようとする事が何物にも変え難く、心の底から尊いと言えよう。
だが、「我慢」の先にある物が重要なのであって、決して「我慢」が重要な訳ではない。勘違いをしていると悪い奴等に悪用されて、支配されてしまいかねないのだから、実に注意が必要だ。「欲しがりません、勝つまでは」とは、まるで侵略戦争中の戦犯国家その物であるから、洒落にならんではないか。