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8話

 負傷した黒住と白椿さんの死体を校内に運んだ。その二回の往復作業だけですっかり体力を使い果たしてしまった気がする。人とはこんなに重いものだったのかと初めて知った。片足を打ち抜いただけの黒住を運ぶのは肩を貸すだけでよかったが、白椿さんは負ぶっていくことになった。体温が失われた肉体。それが例え偽の存在だとしても、身体に密着させれば分かる確かな死の感触。こんなものが救いになるなんて考える奴はどうかしている。改めて私はそう思う。

「拳銃は借りていくわよ」

「好きにしろ」

 玄関前の廊下に身体をぐったりと横たえた黒住。彼から渡された拳銃は、まだ使えそうだ。

 雨が窓を叩いていた。この校舎に確かに存在しているものの一つ。雑音ながらも雨音は静寂を掻き消してくれている。

 そういえば、灰田と出会ったあの日もこんな雨だった。嫌になるくらいの大雨。そこであいつは自分のことを「とある世界の神さま」と名乗った。冗談じゃなかったらしい。証拠として、私は彼の世界を歩いている。信じられない話だが、現実だからどうしようもない。

 灰田の姿を探して校内を練り歩いた。階段を上り、まず自分の教室へやってきた。並べられた椅子と机。総勢四十個のそれらには、誰の姿も無い。黒板の端には近日の予定やら、次回のテスト範囲が白いチョークで書かれている。窓際にある自分の席へ座った。変わらない。私が普段生活している風景と何も変わらない。何も無いというただ一点を除けばだが。

 思えば、灰田は学生だったのだろうか。学校で度々顔を合わせたが、そんな生徒がいるという話は聞いたことがない。灰色の髪をしていれば自然と目立つだろうし、あの美形だ。きっと女子たちの噂にもなっただろう。でもそれは無かった。誰にも気付かれなかったのか、そもそもいなかったのか。あの日、購買部の前で会った灰田は何故そこにいたのだろう。私と同じく昼食を買いに来たのか、それとも私のような人間を探していたのか。はたまた、何もすることが無かったから徘徊していただけなのか。どれも有り得そうで、想像に困った。

 一つ一つの教室をしらみ潰しに回る。そうして辿り着いたのが、図書室だった。

 学校の中で、音楽室や理科室よりも特異な雰囲気を放っているのが図書室だと思う。蔵書に埋め尽くされた世界。そこでは様々な物語が混在し、奇妙な渦を作り上げている。音楽室ならば演奏することを目的とした空間があり、理科室ならば実験を目的とした空間がある。だが図書室はどうだ。勤勉に励む生徒がいれば、寝ている生徒もいる。漫画を読んでいる生徒もいれば、哲学書を開いている生徒もいる。各々の異なった世界観が、蔵書という基盤たる世界に繋がって混沌を生み出しているように思える。だから、私はここが好きだった。

 ここには世界の扉が沢山開かれている。約二時間弱の旅を、いつでも与えてくれる。私の知らない世界、知っている世界、知ることの無い世界、それらが手を伸ばして待っている。

 そうだ。私が二年生に上がった直後、ここに訪れたのもそんなものを求めていたからだ。新学期、年齢も学年も上がったというのに何も変わり映えしない世界。変わったのは教科書と数十名のクラスメイトだけ。別に不満は無かった。だってそれは当然のことだから。ただ、だからと言って刺激も無しに過ごせるほど暇な世界に生きたくもない。

 だから私は、ついその本を手に取ってしまったんだと思う。

 図書室に入ると、だだっ広い部屋に一人、見覚えのある灰色の髪を携えた男が座っていた。その手元には一冊の本。皮肉にもどこかで見たことがある背表紙だった。

「この本に貸出記録がついたのは、これが最初で最後みたいだ」

「『これわたにんげんの、こわれたせかい』ね。作者は一体何を考えてそんな本を書いたんでしょうね。私の人生の中でもトップクラスに詰まらない本だったわ」

「へえ、最後まで読みきったのかい?」

「やり切らないと気がすまない性質なのよ。例えどんな詰まらない話だろうと、読み切るまで真相は分からないじゃない」

「君らしいね」

 灰田は立ち上がり、今度は机の上に座って私と向き合った。しかし、そこにいる灰田はまるで灰田ではないように思えるほどに衰弱している。元々おかしい人間ではあったが、まだハツラツとした青年らしき容姿は持ち合わせていたはずだ。だが、今はやつれて、傍から見れば死人のようにも見える。やっとのことで身体を起こし、ぐったりと首をうなだれている。視界が定まっていないのか、意識が無いのか、魂の無い人形かのごとく瞳には生気が感じられなかった。

「世界は完成したよ。僕ら異常者の生きる世界だ。黒も白も霞む、灰色の世界だ」

 出来上がった作品を披露するように、両手を広げて世界の光景を見せた。外観を私の世界に似せたのは、彼なりの心遣いだろうか。それとも、それしか知らなかったからだろうか。私が立っている場所はやけにリアリティに満ちている。私がいつも図書室で感じていたもの、それがここにもしっかりとある。灰田の世界の再現率は高い。人間の形をした異常者が住みやすいように造られている。

 だが、殻だけが似ていて、中身はとんだパラレルワールドだ。灰田の努力は認める。彼がどれだけの苦労と苦悩を超えてこの世界を構成してきたのかは私の知りえる部分ではないだろうし、別段知ったところでどうでもいい話だ。重要なのは『そんな世界を作ってしまったこと』だ。

 私が今立っているこの場所が、空想のものなのか現実のものなのか判断する材料はどこにもない。もしかしたら地球は壊滅的なまでに温暖化が進んでいるかもしれないし、形だけ現代で氷河期に突入する前なのかもしれない。何にせよ、今までの場所と違う場所、違う世界を作ってしまったことがこいつの最大の間違いであり、私がただしてやるべき部分。

「神気取りね。胸糞悪いナルシストなんかよりもっと悪質に気持ち悪いわ。今の一言に三度『悪』って入ってたくらいに最悪にね」

「酷い言われようだなぁ。僕は真実を語っているだけだ。僕がこの世界を作り、そして人を作ったんだ」

 嘘だ。この世界に人なんてものは一人もいない。世界に順応した私や黒住のような異常者か、もしくは順応出来なかった歪な壊れ物か。どちらにせよ、まともじゃないものしか存在しない。

「頬っ面をしばいてやりたいわね」

 ため息と同時に、考えていたことが思わず口に出てしまった。灰田はそれに怪訝な表情を仕向けた。

「僕のかい? 何故? この世界は君も望んでいた世界のはず。同属のみが集まる世界。何ものも自分と異なる生物はいない。白椿なんかは飛び跳ねて喜ぶだろう」

「……待って、頭が痛くなってきたわ。何、あんたは私がこんな世界を望んでいると思ってたの?」

「そうさ。君のためというわけではないが、異常者は皆、こういう世界を望んでいる」

「有り得ない……何が有り得ないって、あんたの勘違いの仕方が有り得ない。どうしてあんたはこんな世界を創生したの?」

 すると灰田は突然自慢げに表情を綻ばせた。それは今まで見てきた灰田のものではない。まるで初めて作ったものを褒められた子どものような無垢なものだ。

「この世界は『世界初』だ。誰にも作って来れなかった完璧な世界。善にも悪にも傾かない。全ての人間は争わず、喧騒は存在せず、それでいて何もかもをさらけ出す事が出来る世界。多少急ぎ足で綻びはあるだろうけれど、そんなものは後で修繕すれば良い。そうだろう?」

 訳の分からない問いを私に投げかけてくる。そうだろう? とか聞かれても答えようが無い。

「そんな叶いもしない理想の前に、その人間とやらはどこにいるの? 残念ながら、私がここに来るまでの間、出会ったのは黒住と空っぽの白椿さん。それと話かける価値も無さそうなモブくらいよ。これらを人間と呼ぶの?」

「君の知っている人間とは違うだけさ。この世界に彼らは順応したんだ」

「異常者に、順応したってこと?」

「そうだよ」

 順応しなかったから壊れてしまった人間を、灰田はそう言った。

 馬鹿らしい。本当にこの界隈にはとんだ勘違い野郎しかいないらしい。私は図書室の床を蹴った。つま先に鈍い衝撃が伝わる。ほとんど八つ当たりだった。

「こんな、こんな詰まらない世界があんたの望んだ世界? 異常者ばかりで味気ない世界が、あんたの望みなの? 知ってるかしら。理想郷ほどつまらない世界は無いわ」

 灰田が瞠目する。私が何を言っているのか理解が出来ないようだ。私はそこで一冊の本の名前を挙げた。

「『こわれたにんげんの、こわれたせかい』。あの物語の中の女の子が求めた世界。ずっとおままごとばかりをしていた女の子。彼女が求めた理想郷こそ、ここなんじゃないの?」

 孤独に生きる彼女は、何をしていたのだろうか。あのおままごとは何だったのだろうか。それを考えた時がある。

 単純だ。遊んでいたのだ彼女は。一人で死ぬことに飽きた彼女は、遊び相手を求めた。そして生まれたのが黒い人形と、白い人形。それは例えば人の善と悪を表していたのかもしれない。だとすれば、彼女は自分と違うそれらと遊んでいた。ただし、向こう側に意志こそ無かったが。

 物語には続きがある。勿論、おままごとだけをして終わる話ではない。

 おままごとを続けていると言っても、彼女は時間を追うごとにまるで人間のように成長していく。身体の肉付きは良くなり、それなりに頭で考えることも出来るようになった。その時、ようやく彼女は気付いたのだ。少し別の世界を覗けば、そこには溢れんばかりの人がいるというのに、自分はただ一人で遊んでいることに。一体何の恨みがあって自分をこのような世界に閉じ込めたのかと、毎日枕を濡らしながら神を呪ったくらいに。女の子は世界の理不尽さに気付き始めていた。

 だから、女の子は他の人が来やすい様にホームパーティの準備をした。私自身、その考え自体は否定しない。だが、女の子はホームパーティーの準備をしただけで、招待状など一通も出さなかった。それでは勿論人など集まるわけがない。人と触れ合わない女の子の知能はもはや幼児以下だ。

 しかし、そんな日々を長くは続けていられない。女の子は不特定多数の人に招待状を送りつけることに成功した。送った人物がどのような人物かも知らずに、とにかく沢山の人に来てもらおうと思ったのだ。だが、身元も分からない招待状には人々は目もくれず、ゴミ箱の中に全て消え去っていった。

 女の子は諦めない。ぞっとするような努力の量をこなし、本を読み、人の世界を知った。そうして彼女は『自分に合いそうな人物だけ』を招待することに決めた。そうすれば無下に断ることもないだろうと予想したのだ。

 集まったのは、女の子と同じ、『おままごとしか遊びを知らない人たち』だった。招待状には「一緒におままごとをしましょう」とだけ書いた。それだけの文で人が集まるとは思えないが、物語ではかなりの人数が集まったようだった。

 ただ、そのパーティでは、各々がおままごとをするだけだった。これじゃあ何のために人を集めたのか分からない。結局女の子はおままごとを楽しんだようだった。凄く、物凄く満足したようにおままごとを楽しんだ。

「ここに集まったのはあんたと同じ、どうしようもない馬鹿の異常者と、そして適当に作り上げたおままごとのための人形だけ。まるで同じね」

「何が言いたい」

 私は灰田を睨みつける。死んだ魚のような目が痛々しく私を見返してきた。

「この物語のエンディングは、それだったわ。ふざけてんじゃないわよ。なに女の子がハッピーになりました、とでも言いたげに終わらしてるのよ。全然幸せじゃないわ。何も解決してないわ。折角自己満足していたことに気付けたのに、結局自己満足して終わった」

「良いじゃないか。彼女が幸せだと思うのなら、それで」

「おままごとしかしないんだったら一人でやってなさい。呼ばれた方は傍迷惑だわ」

「彼女は寂しかったんだよ。例えおままごとしかしなくとも、彼女には仲間が必要だったのさ」

 はっ。

 あまりにも偽善めいた言葉に思わず吐き気がした。疲労しているから思考が鈍っているのか知らないが、安直めいた返答に灰田を見損ないそうになる。

「下らないわね。千差万別十人十色。差別もあれば偏見もあるように、自分と相容れない人間なんて星の数ほどいるわ。それを選別して世界を作ろうだなんて、自分勝手にもほどがあるわ」

「自分勝手か。確かに君の言い分が分からないでもない。でも、それはそういう世界に生きてきた人に対する慈愛が足りて無いんじゃないかい?」

「慈愛……?」

 思わず吹き出しそうになった。

「あんた、本当に頭がおかしくなっちゃったんじゃないの? どうしたのよ?」

「完成した作品を否定されるのは、僕だって正気じゃいられないさ」

「ふぅん。まあ、私にはどうでもいいことだけどね」

 すると、灰田が心底憤慨したかのように額に青筋を立てて、私の胸倉を掴み上げた。突然のことに驚いたが、私は負けじと気概に振舞った。

「――何が、不満だ」

 こいつのこんな表情は初めて見た。なんだ、笑う以外に表情があるじゃない。

「何もかもが不満よ。狂った人間も狂った世界も、私が狂っていると思われていることも。そんなあんたも勿論ね」

「自覚が無いのか? 君は大いに狂っている。僕らと何ら変わりがないくらいにね」

 私はそれに首を横に振った。

 でも、分かっている。私がこの界隈で言うところの異常者だってことは、さっき黒住に認識させられた。でも、かといってそれを全面的に認めるわけにはいかない。加えて灰田と同類などとは、死んでも頷かない。

「私とあんたは違うわ。そりゃもう、銀河系レベルで違う」

「それはこの世界に対する皮肉っぽいダジャレかい?」

「そうとも言うわね。けれど、あんただって気付いてるでしょう? だからあんな問いを私に何度も投げかけてきた。そう認識させるためと、そう認識させないために」

 胸倉を掴まれている手を叩く。話すのには邪魔で邪魔で仕方が無い。灰田はその手を呆気なく離し、私は数秒ぶりに床の感触にありつく。

「まったく。女性の胸倉掴むなんて失礼極まりないわね」

 ゴミくずなんてついてもいないのに、払う仕草をしてそう言った。しかし、灰田からは返答は返ってこない。何かに呆然となっているようだ。

「どうしたのよ黙り込んで、気持ち悪いわね……」

「僕は、人選を誤ったようだ。どうやら僕の世界では計れない人物を引き入れてしまったらしい。まさか、そこまで聡明だとは思わなかった」

 灰田は私を憎らしいものでも見るかのように睨んできた。不快だ。なんて不快な視線なのだろうか。物欲しそうな目をする餓鬼と同じだ。もはや『天才』と呼ぶに相応しい人物はこの世界から消え去った。

「君は……本当の意味で優等生だったんだね」

「当たり前よ」

 灰田は私に認識させようとした。私が、優等生の天才であると。黒住が私に直接言葉にしたみたいにでは無く、彼は彼の言葉によって私が自覚するのを待った。私が日常を疑い、自分を疑ったのはこいつのせいだったわけだ。私が少しずつ自己を殺していくのを、こいつは笑って見ていた。胸糞悪い話だ。

 そして、灰田は私に認識させないようにした。私が優等生であることを。

「今ならあんたの問いに答えられる気がするわ。知りたい?」

「聞こうじゃないか」

 優等生とは何か。灰田が終始投げかけてきた問い。それは彼が私を壊すために用いた言葉の暴力。優等生とは辞書に並べられた言葉の意味を答える存在じゃない。それは国語の学士がやれば良いことだ。

 優等生、そして天才との違い。こういうことだ。

 私は大きく腕を振りかぶり、灰田の頬に向かって思いっきりそれを放った。一瞬、廊下に物凄い大きな破裂音が鳴り響く。手がじんじんと熱を持ってくる。この痛みが優等生の仕事であり、その痛みが天才が受けるべきものだ。

 灰田は自分が何をされたのかいまいち理解出来なかったようで、頬を押さえることもなく無為に空中を見つめて呆けている。無理もない、あれだけの強さで叩かれたことなど無かっただろうに。

「これが……答えかい?」

「ええ。私があんたと違う理由。そして、優等生である私がしなければならないことよ」

「分からないな。今ばかりは君の思考が読めないよ」

 当然だ。この程度で理解出来たなら灰田はこんなにも狂わなかったはずだ。

「外に出ましょう。お互い、頭を冷やした方が良いわ」

 踵を返し、図書室を出る。灰田の足音が私の後ろに続く。

 昇降口には黒住がいる。職員用の裏口から出て、強い雨音の世界に入った。濡れることも厭わず直進する。前髪から雫が滴り落ちる。今はその感触すらやけに気持ちが良い。雨に濡れた服がべったりと肌にくっつき、気温も低いことから身体が冷えてくる。しかし、身震いすることすら忘れてしまうほどの使命感が私を突き動かしている。自然と歩幅は大きくなった。

 この雨は何なのだろう。灰色の世界で、唯一本物だと思えるもの。きっと、灰田が用意したものじゃない。本来灰田が持っていたものだ。今、この空に広がっている曇天が彼の中にかかった曇り空なのだとしたら、そこから降りだす大量の雨粒は……。

 校庭の真ん中。私はそこを最終戦の決闘場に選んだ。狭い都会だ。ある意味こんな場所こそが、一番世界を見渡せるのかもしれない。

 空を見上げた。晴れる予定はないようだった。手の平の中で、冷たい鉄の重みだけが私に決断を迫っている。



  ***



 神は世界を作った。星でもない。銀河でもない。世界を作った。

 では、何故神は世界を作ったのだろうか。これは、意外に知られていないことである。いや、知ることが出来ないのだから、誰も知らなくて当然だ。例えば人が植物や動物を育てるような感覚。箱庭を上から眺めて楽しむような感覚。はたまた、学者のように生物の多様性の確認。説だけ挙げていけば、それこそ人の数ほど存在してしまうかもしれない。だが、どんな理由であれ神は合理的で全知全能で無ければならない。間違っても、寂しいからなんて理由で世界は作らない。

 しかし、そんな理由で世界を作ってしまった神がここにいる。

 依然として灰田は死んだ魚のような目をしている。宿っていた子どものような瞳の輝きも瞬く間ということか。名残惜しくも無いが、囚人を引導しているようで気分は良くない。力なくぶら下がる装飾と化した腕は何も掴もうとなどしていない。雨と一緒に排水溝に流れ落ちてしまいそうだった。

「……どうしたのよ。落胆しているのか疲れてるのか知らないけど、さっきからあんた何か変よ?」

「むしろ君のほうが変だよ。こんな状況になって表情一つ変えない。流石選ばれた異常者というところか」

「別に混乱しなかったわけじゃないわ。ただ、夢か何かだと思って片付けることにしただけよ」

「楽観的なのか、冷静なのか分からないね」

「優等生だもの。冷静じゃなきゃやってられないわ」

 実際は口だけだ。夢だなんて思っていないし、夢であっては困る。この世界は間違いなく現実だ。白椿さんが死んだのも、黒住が自害しようとしたのも現実なんだ。私がこいつを救わない限り、全部現実になってしまう。そんなこと絶対に許さない。

「さて、優等生と天才の話だったかしら。あんた、何か言いたいことはある?」

 私はそう灰田に催促した。灰田の考えていることなど手に取るように分かるが、あえて聞いておくことにする。

「僕は……君が同じ人間だと思ったんだ」

「カテゴリはきっと変わらないのでしょうね。でも、はっきりと言ってやるわ。私とあんたは違う。これは何度でも声を大にして言うわ」

「はは……もう否定しないさ」

「随分ね。何、私に惚れでもしたの?」

 微笑を浮かべて、冗談めかして言ってみる。

「そこまで固執していた、という意味で言えば間違ってないだろうね。最初に言った通り、僕は君が欲しかった。僕とまともに会話が出来た人間は少ない。例え出来たとしても、それは自己を完全に殺してしまった異常者。会話することより己が天才たる理由を追う人間になってしまう。でも、君はいつまで経っても自分を見失いはしなかった」

 神は、人類を選別した。それは普通の神の話。

 しかし、実際にここで起きたことは、人が神を選別したことだ。お前の世界には生きてやれないと、灰田の誘いを頑なに断ってきた人間たち。当たり前だ。私だってこんな世界願い下げである。そんな時、私が現れたのだろう。

「あんた、もう人と話さなくなってどのくらい?」

「さぁね。忘れてしまったよそんなことは」

「白椿さんがストーカーしていた日、あんたは突然姿を消した。でも、夜に現れた。用件なんか一度に全部伝えれば良いのに、どうして戻ってきたのか。白椿さんに姿を見られたくなかった、もしくは、彼女が話しかけてくることを恐れた。そうでしょう」

「……」

「黒住が白椿さんの家に入った直後にあんたは現れた。もっと前から出てきて良かったのに、出てこなかった。それは、黒住にも姿を見られたくなかったことと、そして黒住が話しかけてくるのを恐れた。とんだヘタレね、あんた」

 図星か。灰田は俯いたままそれを肯定も否定もしない。あまりにも習性化しすぎたせいで、自分でも良く分かってないんだろう。可哀想だとは思わなかったが、哀れな奴だとは思った。

「世界と神、どちらが先に生まれたのか。あんたはそう聞いてきたわね」

「ああ。知っているのかい?」

「答えは、分からない、よ。ただ、推測を述べることは出来る」

「へえ、どんなのだい」

 言葉に力は無い。興味があるのか無いのかすら、私に判断を任せている。もっと狂気に満ちた奴だと思っていたが、とんだ腑抜け野郎だった。ずぶ濡れになったその姿がお似合いだ。

「――世界が寂しいから、神が生まれたのよ」

 そして、神が寂しいから、世界が生まれた。

「この世にある全てのものは一つでは存在出来ないわ。それは世界も同じ。収縮と爆発を繰り返すことに飽きた世界が神を作り、世の中を面白くしようとしたのよ。まるで、あの本の女の子と同じようにね」

 灰田純一は、その神の一人だったのかもしれない。彼の望んだ世界は自分が寂しくない世界。箱庭を上から眺める神は常に一人。その横には誰もいない。いや、誰も来てくれない。地獄の上から蜘蛛の糸を垂らすように誰かを招きいれようとしたが、そんな割に合わないことをやろうとする奴は誰もいなかった。でも、灰田と同じ感性を持つ人間ならどうだろう。物語の女の子のように、自分と共に無意味なおままごとをしてくれる友達ばかりを望んだ。

 彼は天才だ。もはや誰も否定しようの無い天災。

『創生の天才』。それが灰田純一。

 だが、その天才は世界を作ることしか与えられなかった。数式を編み出し、それを解くにおいての天才がいたとしても、その人物が日本の古語や石版に記された謎の言語を解釈する天才にはなれないように、世界を作り出すという偉業を成しえる灰田純一には、他人と関りあう才能が一切与えられなかった。それはどの天才でも同じこと。何かに長けるということは、代償として何かを失うということ。神は二物を与えずとは良く言うが、神自身すらも世界から二物を与えられなかったということだ。

「あんたが人の子だったのか、それとも何か違うところからやってきた奴なのかは知らないわ。そして、きっとあんた自身も覚えてないんでしょうね。あんたは道化のようで、いつでも本気だったようだから」

「そうだね。自分の出生なんてとうに忘れたよ。灰田純一という名前が真のものなのかすら、僕には確証が無いんだから」

「いいえ、それはあんたのもので間違いないわ」

「どうしてそう言いきれるんだい?」

「名前を覚えているってのは、そういうことだからよ」

 髪を掻き上げる。そろそろ雨が邪魔になってきた。演出としては十分だけど、灰田の言葉らしく夕焼けをバックのほうがそれらしいというものだ。

「君はいつだって自信満々だね。僕と同じ異常者のはずなのに、何故こうまで差が出たのやら」

「あんたとは違うって何度言えば……」

「茶化さないで聞けよ。君は優等生だ。常にペルソナを被り、他人との距離を測って生きる計算高い人間だ。それはつまり、君も常に孤独であったことを指すはずだ。君と対等に話せる人間なんてこの世界にはいない。そうだろう?」

 言い返そうとは思わなかった。図星でもあったからだ。

 両親にすら気を遣う人間。それが私だ。白椿さんに頼られた時のような、人と繋がっている感覚は今まで感じたことが無かった。いわば、全部敵だった。全ての人間は私の競争相手であり、私は一部の決して勝利出来ない相手を除いて対戦相手。そんな風に考えてきた人間に、対等も何も無い。

「……そうね。あんたの言うとおり、私は真の意味では孤独だったのかもしれないわ。心を許せるなんて時も相手も無かった気がする。でも、私はそれでも孤独を感じたことは無いわ」

「それはどうしてだ」

「まあ、運が良かったのかもしれないわ」

「運、だって?」

 ようやく灰田は顔を上げた。水も滴る良い男とは程遠い、酷くやつれた顔をしていた。

「そうよ。私もあんたたちみたいな世界に生まれていたら自分がどうなっていたかは分からない。例えば人殺しが当然のように行われていたり、例えば自分の価値観を育ててくれる人がいなかったり、例えば自分の周りには誰もいなかったりした、そんな世界」

 私は、天才とはかけ離れた世界に生まれた。どこの誰が生み出した世界なのかは知らない。ただ、平穏で、時に残酷で、日常や非日常が混ざり合ってて、時に何も無くて、ほぼ全てが揃っていた世界だ。

 その世界で、私は異常者だったらしい。喜ぶことも出来れば、悲しむことも出来る。日常を過ごすことも、狂気の世界に踏み込むことも自由だった。ただ、自分の世界は作れなかった。

「私は、あんたたちみたいに変な思想も無ければ、望みも無い。だって全部揃ってるんですもの。ただね、私があえてあんたたちみたいな欠陥を抱えているのだとすれば、私は他人がいないときっと存在出来ない」

「どういうことだい」

「私は常にどこかのコミュニティに属しているわ。時には複数属していることもある。私はそこで誰かと競い合ったり、私っていう存在を高く見せようと気張ってる。でも、この相手いなかったらどうなるのか、考えただけでも寒気がする」

 それは、今朝父親と母親がおかしくなっていたと気付いた時もそうだった。私が優等生を振舞わなければならない空間が、一つ消失していた。あそこには、優等生である私が必要ない。それが、とてつもなく恐ろしい。

「でも、私は幸いそんな世界には生まれなかった。これは、きっと幸運なのだと思うわ」

「すると、僕は不幸ということになるのかい?」

「そうね。あんたは不幸だわ。馬鹿でどうしようもない奴だけど、それだけは同情してあげる」

「ははっ、理不尽だね。そんな運の差で、僕は不幸になり、君は幸運を手に入れたのか?」

「幸せな所に生まれた私が言えることじゃないかもしれない。でも、世界はそういうものよ。それを受け入れなければ、どうしようも出来ない」

「君は何も分かってない。僕ら異常者がどんな気持ちで過ごしてきたのか、僕がどんなに苦労してこの世界を作り上げたのか。何も分かってない」

「だから、あんたたちが分からない私が、わざわざここまで来てやったんでしょう。あんたがいつまで経ってもこっちに来ようとしないから、私が出張しに来たんじゃない」

「僕らを知るために?」

「いいえ。私たちを知って貰うために」

 いまや世界は黙りこくっている。灰色の雨を降らすのみで、それ以外が死んでいた。灰田は濡れた髪を払おうともせず、そうか、と小さく呟いて俯いてしまった。

「一つ言わせてもらえば、あんたは神になんか向いてないわ。さっさと止めて人間にでもなっちゃいなさい」

「――は?」

 ふっ、と目の中に光が戻る。ようやく生き返ったか、このヘタレ野郎。

「だから、あんたには神なんて向いてないって言ったの。全知全能であらせられる神が、寂しいとかそんな下らない理由で、世界一つ作ってんじゃないわよってこと」

「馬鹿にしているのか君は?」

「馬鹿にしている? そうじゃなくて馬鹿でしょ、あんた。天才と馬鹿は紙一重……変態だったかしら。まあ、どちらにせよ同じよね。おままごとで遊んでる青年なんて変態そのものじゃない」

「君って人は……一体何をしにきたんだ」

 怒りをあらわにして灰田が吐く。実に人間らしい表情と声色だ。そっちのほうが好みだった。

 私はそれに返答する変わりに、黒住から譲り受けた鉄塊を胸の高さまで上げて、檄鉄を起こした。まだ弾はあるらしい。両手でもてないものを、あえて片手で構えて灰田に銃口を向けた。

「……僕を、殺しに来た、ということかい?」

 怖れている様子は微塵も無かった。覚悟を決めた、ということだろう。

「殺しても良い、とは思ってるわ。私が元の世界に帰れるならね」

「保障は無いよ。少なくとも、この世界からは出られるだろうけど。異次元の話なんて所詮人の形をしている僕には予想も付かないことさ」

「ま、だろうと思ったわ。だから、ここであんたに選択肢を与えることにした」

 雨脚が弱くなった。ポツポツと、誰かの涙のように私の頬に雨粒が落ちる。灰色の空は段々と青色を取り戻しつつある。日差しはまだでない。

「ここで死ぬか、扉をくぐるか。この二択よ」

 引き金を絞る。逃げはしないだろうが、私は灰田に選択を迫るために、そうせざるを得ない。

「扉をくぐるというのは、どういう未来の話だい?」

「私は、全ての世界に対して扉を作ることが出来るわ。どのコミュニティにだって属せる優等生である私が、唯一出来ること。あんたの閉鎖されたこの世界に、私が扉を作ってあげる」

「意味が分からないな、要領を得なさ過ぎる」

「あんたみたいな寂しい奴のために、私が特別に招待状を送ってやるって言ってるのよ。普遍的で、残酷で、とても楽しい世界へのね。勿論条件があって、あんたはきっと神を止めなきゃいけないわ。人間の世界に神なんて場違いな生物いらないもの」

 灰田は黙る。頭の中の細胞という細胞をフル活動させてさぞかし悩んでいることだろう。そのさまがやけに面白くて、私は不意に笑えてきた。

「こっちに来なさい。灰田純一」

 それに釣られたのか、灰田も似合わない笑みを浮かべて言った。

「どうやったら、神を止められるんだい?」

「それは、あんたの本領じゃない。自分を殺すこと。大得意でしょ?」

 セルフディストラクション。そう呼ばれていたもの。

 殺したのは自分。それは悪い自分だったり、そうでない自分だったり。人間らしい自分だったり、そうでない自分だったり。灰田に残った『自分』とは、一体どんな自分だったのだろう。

 黒住に残った自分とは、嘘つきの自分だった。

 私に残った自分とは、全てのことをやり切ろうとする優等生の自分だった。

 灰田の世界創生の理由は、馬鹿らしいけど理に適っている。寂しいから世界を作った。彼の方から歩んでこなかったことには流石としか言えないが、私はその求める気持ちを否定することは出来ない。そこに至った時の自分とは、もしかしたら一番まともな灰田だったのかもしれない。ただ単純に、理論も理屈もクソも無い純粋なもの。まるで、子どもみたいなもの。

「そうだね……これは僕が僕自身でやることだった。君に頼むことじゃなかったね」

「ええ。でも、馬鹿なあんたのために、私も少しだけ手伝ってやることにするわ。一応あんたに了承を取っておきたいんだけど、良い?」

 灰田は静かに頷いた。私もそれに返すように頷く。

 空から日差しが覗いた。雨に濡れた路地が光を反射して輝く。とても眩しい。私は思わず目を背けて、手で影を作った。灰田の姿が見える。だらしのない、びしょびしょに濡れた服で立っている。その背後には美しい世界があった。

 握ったものに力を込める。

「私は自分を殺しはしなかった。でも、例えばあんたたちみたいに『自己殺害セルフディストラクション』と呼ばれるようなものが私にもあったとしたら、こう呼ばれていたかもしれないわ」

 灰色の空を切裂くように、銃弾が飛び出す。

「――『世界破壊セルフディストラクション』、とかね」

 世界に亀裂が入る。灰色の空はどんどん青空へと変わっていく。

 孤独に餓え死にしそうになっていた神。

 血みどろの世界で一人、自分を殺すことだけをしていた女の子。

 彼らが住んでいた世界は、私たちの住んでいる世界と違って刺激と狂気に満ち溢れている。ただ、びっくりするくらい何も無くて、詰まらない。

 そんな世界に縛られるように生きているなんて、可哀想だと思わない?

 だから私は架け橋を作る。私に出来ないことは無い。何故なら私は優等生だからだ。

 まとめて全員に招待状を送ってやる。狂った世界も狂った人間も、白椿も黒住も。そうしてまた一つ、私たちの世界は面白くなっていくのかもしれない。

 灰田がこちらに歩み寄ってくる。相変わらずの綺麗な顔に、紅葉模様が一つ。滑稽な様だった。

「君に、聞きたいことがあったんだ」

「何? スリーサイズなんて教えてやんないわよ」

「安心してくれ。そんなもの後から何度でも調べてやるさ」

「変態ね……で、何?」

「ずっと前に、君に聞かずにおいたことがあるだろう。僕はそれに意味を持たないと考えていたけれど、君たちの世界に行くのならば話は別かもしれない。だから……」

 彼は手を差し出した。私は迷わずその手を取った。

 それで、世界は繋がった。

「――君の名前を、聞かせてくれないか?」

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