7話
おままごとは続いている。
ずっと、続いている。
もうそろそろうざくなってきたので、女の子から人形を取り上げることにした。そうしたら女の子は大きな声で泣き出してしまった。なんというか、物凄く五月蝿かった。
仕方が無いので、私はほんの少しだけ女の子と遊んでやることにした。
遊んでみると、全然可愛くない子だった。でも、そのまま放っておいたらまたおままごとを始めそうだったので、私は我慢して付き合ってやることにした――。
*
もう何が起きても動じない自信があった。灰田純一が現れ、白椿さんの家で大量の死体を目の当たりにし、黒住から拳銃を渡されてそれを撃った。私の日常観における様々なものが壊されていってたのだ。これ以上怖いことは何も無い。そう思っていた。
灰田は消え、就寝し、思いの他良く眠れたその翌日。意識を覚醒させた私は眠気眼を擦りながらリビングへと降りた。朝八時のニュース番組がテレビで流れていて、母親がキッチンで包丁を振るっている。父親はテレビの前のソファーで新聞を読み、私は二人に「おはよう」と挨拶をする。なんてことはない日常の一ページ。洗面台で顔を洗って歯を磨く。戻ってくると、キッチンから湯気が上がっていた。御飯が出来る頃だろう。私は二人の背中を見つつ、椅子に座った。
「……」
一言も無しに、目の前に料理が置かれた。目玉焼きとベーコンが良い香りを立てている。ありがとう、と礼を言おうとしたとき、私はそれに気付いた。
なんだ、この微妙にずれた感覚は。
回っている。確かに歯車は回っている。ただし、噛みあってはいない。荒削りで無理矢理合わせたような歯車が合わさって、耳障りな音を立てながら回っている。時計の針がチクタク。フライパンの上がジュージュー。テレビの音声は聞きなれた人の声。なら、どこからこの音は聞こえてくるのか。
父親が私の正面の席に座った。そこにも同じ料理が置かれ、いただきますも言わずにそれに手を付け始めた。ギチギチと、胸の奥がざわめく。テレビは電波を受信してきちんと放映しているというのに、私の中では砂嵐が吹き荒れている。
心拍数が一気に上がっていく。瞬きが出来なくなる。突然、この空間には私一人しかいないんじゃないかと、訳の分からない錯覚に陥った。父親は私のことが見えているのだろうか。料理を目の前に置いた母親はそれが私のためだと分かって置いたのだろうか。自分でも理解不能な疑心の芽が顔を覗かせ、時間が高速回転するかのように成長していく。
「お、お父さん……?」
「……」
返事が無い。黙々と料理を食べ続け、皿の上にものが無くなったらソファーに帰っていった。
途端、私は箸をテーブルの上に投げ出してリビングから逃げるように出た。足がもつれて転びそうになったのを食い止め、玄関から続く廊下に出て息を整えた。
「……だれ?」
違う。あれは父親でありながら父親じゃない。哲学とかそういう意味じゃなくて、正真正銘、違うという意味で違う。なら母親も同じだ。私の家族は基本的に行儀が良い。いただきますも無ければ、ごちそうさまも無い。そんな家に育った覚えは無い。あそこは私が普段いた空間じゃない。扉の向こうには別世界が広がっている。
二階の自室に飛び込み、クローゼットから適当な私服を取り出して着替える。机の上にあるケータイを手にして、ついでに引き出しに入っていたものも意識せずに手に取った。駆け足で階段を降り、玄関を殴るように開けた。
人通りに人はいる。当たり前だ。言葉を考えろ。ただ、私の目に見えているのは人形の行進。魂も入っていれば、きっと感情もあるのだろう。しかし、歪に作られたそれらでは人の器に合わなかった。そんな感じにぐらぐらした人が通りを普段通りに歩いていた。
舞台だ。
訓練し、洗練された動きがそこにはある。観客から見れば芝居染みていてもそれは物語の中のキャラクター。自分の世界のものではないと知っていても、見ているのは人間。投影したのはそれらしく表情と動き。本物じゃない以上、本物と同じにはなれない。
つまり、ここには誰もいない。私以外誰もいない。世界がどうなってしまったのか、それを受け入れるのに時間を要したい。頭の中がぐるぐる回る。どこかへ逃げたい。一時一分一秒でもここにいたくない。
こんな世界で私は生きていけるのか? 絶対に無理だ。ここじゃあ、私は私でいられない。
行く当ても無く彷徨っていると、ポケットに微振動が伝わった。ケータイ電話が鳴っている。取り出そうとしたとき、微かに自分の手が震えていることに気付いた。私としたことが、現状に恐怖を抱いているらしい。笑ってしまう。あれだけの出来事を目の前にしてきた私が、まだ未だにこんな感情を持ち合わせていたとは。
「……はい」
電話番号と送信者はあえて確認しなかった。
『……学校だ』
「黒住ね。これは一体どういうことなの」
『ここで語ることは無い』
「そう……体育館裏にでも行けばいいのかしら?」
『素直に学校の前にいる』
問答無用に電話が切れる。勝手な奴だ。
平日なので学校は普段通りなら学生に溢れているはずだった。ただ、私が到着したとき、人の気配はほとんど無かった。虚しい校舎。廃屋が何故怖いのかの理由と直結する虚しさ。本来そこは人が集まる場所だというのに、自分の身体の一部を無くしてしまって呆然としているように佇む建物。隙間だらけの空間に風が通り抜け、ひゅうひゅうと音を立てていた。
人の気配がほとんど無い。つまり、ほんの少しはある。
校門の前、まるで番犬のように立っている黒住儀軋。加えて、彼に抱えられている白椿菊乃。相変わらず、この二人との因果は尽きないらしい。
「逃げないで来ちゃったわ。何か言うことはある?」
「無い」
刻むような短文で黒住は答えた。いつもと違う雰囲気に、少しだけ気圧された。
「白椿さんはどうしたの? 寝ているみたいだけど、まさかまたあの人たちが……」
「……」
何をしている。私はそこで起こっていることに目を疑った。
黒住が言葉に答える代わり、白椿さんを私の前に放り投げた。確かな体重がアスファルトに落ちると、彼女の身体から見慣れてしまった赤い液体が流れ出していることに気付いた。そうなれば因果は繋がり、鼻腔には血生臭い香りが。私の身体は自動的に彼女へ。
「……ざけないでよ」
搾りだすような声だった。自分でも信じられないくらいの憤りを感じていた。何を、どういうふうに日常を過ごせばここまで理不尽な光景に出くわせるだろうか。
しかしそこで私は自分自身の思考のおろかさに気付いて舌打ちした。もう、ショックよりも憤慨のほうが勝っている。そんな自分が一番おろかなんじゃないかとも思う。一度深呼吸をする。こんな状況で落ち着けというほうが無理だが、目の前の男はそれを催促しているように思えた。
「……これは、流石の私も貴方に向けて殺意を覚えかねないわよ……黒住」
銃口から微かな煙が上がった拳銃を持って毅然と佇む黒住は普段と変わらない。何故黒住にはこんなにまで変化が無いのか、今更ながら気持ち悪く思えてきた。曲がりなりにもここ一ヶ月の間、行動を共にしてきた白椿さんがこんな目にあっていて、何故冷静でいられる。こいつは一体、何を考えている。
「灰田が昨日現れて、きっと私の世界は変わってしまったんだとは思ったわ。日常なんか、もうどこにも無いんじゃないかって。思えば、白椿さんと一緒にいることすら日常とは違うんだから。でも、でもね、流石にこれは無いんじゃない?」
「……貴様は、悲しんでいるのか?」
「……なんですって?」
まるで哀しんでいなさそうな奴に、そう言われた。
「貴様が白椿菊乃が死んだことによって腹を立てているのは確かだろう。だが、そこに彼女の死への悲しみはあるのか?」
「そんなの……当たり前じゃない」
苦し紛れにも聞こえただろう。だが、私自身どう答えて良いか分からなかった。悲しいのか、悲しくないのか分からなかった。でも、多分悲しいと思った。それはどういう意味での悲しいなのか、やはり分からなかったが。
黒住は見れば異常な冷静さをかもしだしている。どこか遠くを見ているような視線に、拳銃を持った手は人形のように動かない。自分の犯した行為がまるでその腕の最後の仕事のように、終わった無機物のような雰囲気が出ていた。それでも彼が拳銃を床に落とさないのは何故だろうか。彼は首だけこちらに向けて言った。
「この世界は壊れている。壊れた人間しか住めない、壊れた世界になってしまった」
諦観したような声。虚しい校舎に虚しく響く。
「結局、貴様も俺も壊れているということだ」
「どういうことよ……?」
「ここの世界の住民で、まともに『人間』をしているのは、元々この世界に順応出来る奴だけだ。それは俺や貴様であって、白椿菊乃ではない。貴様もここに来るまで、世界の有様を見てきただろう。白椿菊乃もそういう存在だ」
あの微妙に噛み合っていない存在を思い出す。白椿さんは今、その状態にあるということか。でも、だからと言って殺した理由にはならない。
「何故、彼女を殺したの」
「貴様はこいつのそんな姿を見たかったのか?」
「だからって殺すの?」
「貴様は何故そんなに憤っている。自分が助けた『結果』が壊されたからか? それとも、偽物だと分かっていても白椿菊乃の姿をしているこれが壊れているからか?」
「貴方はどうしても私が狂ってることを前提にして話したいみたいね」
「貴様こそ、いつまで自分の仮面に嘘をつき続けるつもりだ。自分がまともな奴だと思っているのか?」
嘘を一度もついたことの無い奴が、そう言ってくる。私の胸にその言葉は全く痛くない。私は虚実を述べているつもりは毛頭も無いのだ。ただ、まともかと聞かれれば、言葉を濁さずにはいられないが。
「自分がまともだと思うなら、何故今ここで、先日のように救急車を呼ぼうとしない。何故うろたえない。何故泣き出さない。何故呆然としない。……何故、順応しようとする」
彼が言った事。最後の一つを除いて全て身に覚えが無い。ショックではあった。ただ、そうなることに対して非現実的だとは思わなかった。
「曲がりなりにも人が死んだのを目の前にして、俺たちは何故こんなにも坦々と話を続けている。俺はいい。俺にはそもそもそんな感情は無い。だが貴様はどうだ。死に慣れたとでも?」
「私は……」
「――優等生だから、とでも言うつもりか? 優等生だから常に冷静であるべきだ、とでも思っているのか? そうだ。それこそが貴様の異常性。他の人間と異なった、異常者である部分だ」
撃たれていないのに、私はぐっと押される感覚を覚えた。逃げ出したい気持ちを白椿さんを強く抱えることで抑えた。黒住の黒い体が、数倍大きく見えた。
「自分でも分かっているんだろう? 貴様の優等生は、とっくに破綻している」
「……」
そうよ。そんなこと、ずっと前から分かっていたわよ。言葉を飲み込む。
分かっていた。私は私自身物分かりが良いのを分かっているように、自分が破綻していることにはとっくに気付いている。しかしそれを隠す。それを人のペルソナと言う。
世の中で言う優等生は、まるで自分の欲を抑えて人当たりのいいようにしているようなイメージがある。何枚もの仮面を使って、他人とのコミュニケーションを円滑に進める。勉強が出来るのはその一環。努力するのはその一環。優等生はそういうイメージがあるから、何だか計算高くて悪質なもののように思われる。八方美人で、それが全てみたいな。
いつからだっただろうか。それが普通、『不可能』なんだと気付いたのは。そして、なのに自分には『可能』なのだと気付いたのは。
一番を取ることが出来ない。だから取らない。
あの子とは馬が合わないと思う。だから関らない。
私の『全部』とはそうして減っていく。最終的には私の出来ることしか残らない。当たり前だ。出来ないことをやろうとして他が疎かになったらどうする。それこそ私の優等生としての破綻を指す。
しかし、その取捨選択の技術が他人に難しいことだったということに気付かず、私は常に優等生を気取った。そのうち私は、他人が真似ることの出来ない優等生になっていた。
――その幻想を抱いた。
だから私は一層優等生であろうとした。そのうち、優等生になっていた。ここだろう、灰田が私に目をつけたのは。
自分が異常者かと聞かれれば、今なら異常者だと答えるだろう。天才と世間から呼ばれる分類は例外なく異常者なのだ。他と違って桁違いの能力を持つ人間は異常者に違いないのだから。
ならば、私は何なのか。言われるまでも無い。
「貴様は、『優等生の天才』だ」
その言葉には、異様なくらいしっくり来た。
「他人と順応することを常に吉とし、そうあるべくして行動する異常者だ」
「まるで悪口みたいに言うわね。ちょっと傷つくわ」
「そのくせ貴様はエゴの塊だ。貴様は模範であろうとするから、自分の居場所に模範以外のものがあると徹底的に矯正しようとする。だから、ここに来たのだろう? だから灰田に関ろうとするのだろう?」
「そう……そうだったわね。貴方に言われて初めて気付いたわ。どうして私が灰田に関ろうとするのか」
灰田があまりに異常だったから、私は放っておけなかったのだ。あいつがあのままでいたら、五月蝿くて眠れやしない。放っておいたら拗ねて暴れだし、周りのものを壊してしまうかもしれない。だから私は仕方なく、あいつと遊んでやるのだ。
でももう終わりだ。そんな甘ったれた教育みたいなことをするつもりはない。私はどちらかというとスパルタ気質なんだ。馬鹿は殴って矯正するタイプなんだ。それだけは、どうしよもなく変えられない『私』である。
「自分がどんなに異常だったか理解したか優等生?」
「ええ。本当の自分にデビューした感じだわ」
「そうか。なら――」
黒住は腕を上げ、今だ熱を持ってるだろうそれを私に向けた。
「ここで死ね。異常者」
発砲。左側の頬を何かが掠めて行った。私が撃たれたと認識する前に、鋭い痛みが走る。耳鳴りが治まった頃、頬に生温いものが伝わった。それを指でなぞり、悄然と確認しながら私は言った。
「そういえば初めに聞いておくべきだったわ。貴方、どうしてここにいるの?」
「異常者は俺の敵だ。殺すべき仇だ。貴様がたまたまそれだったから、こうして前に現れた。そこに因果らしきものがあるのかどうなのかは、俺には分からないがな」
「自分が異常者なのに、異常者を殺すのね。同属嫌悪って奴かしら」
「まさに言い得て妙だな」
ふん、と鼻を鳴らした。灰田と一緒くたにされるのも嫌だが、黒住と同属に扱われるのも正直良い気分じゃない。むしろ嫌だ。こんなごついおっさんと一緒にされてたまるか。
「貴方、私よりお節介なんじゃないの?」
「何だと?」
「貴方のことだから、きっと異常者を敵だと呼んでいるのには嘘は無いんでしょうし、多分その理由にも整合性があるのだと思うわ。ただ、その言動は悪意で出来ている。違う?」
黒住の台詞を丸パクリして、そう言った。
彼は目を丸くして――多分だけど――それを聞いていたが、私と同じように鼻を鳴らすと、拳銃の檄鉄を起こして再び私に照準を合わせてきた。
「……自分が認められないんでしょう、貴方」
「――」
黒住の反応が確かに変わったのを見た。とりあえず銃口から鉛球が飛び出すことは防いだみたいだ。内心ほっとため息をつき、言葉を続ける。
「私は貴方に自分を認識させられた。その報復として、ちょっと受け取りなさい」
「言ってみろ」
「自分を必要以上に殺し天才と化す。それをここの世界で『セルフディストラクション』って言うらしいのだけど、貴方はそれを間違いなく行っているわ。貴方が言う通りここでまともでいられるのだから、貴方も何らかしらの天才であるわけよね」
「……」
前に、黒住は自分は天才でも神でも無いと言っていた。それは、私から聞けば嘘だ。ただ、黒住は嘘をついたつもりは無いんだろう。彼は自身を天才だと認めていない。いや、自分が何の天才なのか分からなくて、認められなかったんだろう。
「白椿さんの両親を仮に『人殺しの天才』とするわ。他人の命を奪うことを全く厭わない。そもそもそれに悪の意識すらない。今、貴方が白椿さんを殺したようにね」
例えそれが灰田の作った人形だろうが、確かに白椿さんなのだ。黒住は、それを殺した。
「そういう意味で言えば、貴方もある意味『人殺しの天才』。でも、貴方はまたこう言った。人を殺し、人が殺される世界に悲しみが無いのは幻想だって。つまり貴方は、この世界においての人殺しの意味を知っている。知っててなお、貴方は人を殺せるのよ」
「そうだ。俺は人を殺すことが悲しみを伴うと知っている。だが俺はこうして悲しんでいない。それは何故か? この世界が幻想だからだ。俺の住んでいる場所が、幻想世界だからだ」
「違うわ」
全然違う。灰田も馬鹿だし白椿さんの両親も大概だったけど、こいつも同じだ。異常者ってやつは、やっぱり不便な存在らしい。何故、どうしてこいつらは皆して、自分のことに目を向けようとしないのか。どうして世界の方がおかしいんだと認識しようとするのか。それもまた、『自己殺害』というのかもしれない。
「貴方はね……『嘘つきの天才』なのよ。それも、自分に対して、異常なまでに徹底的にね」
確かに黒住は嘘をつかない。そう、他人に対しては。
だから黒住が人を殺しても悲しくないというのならば悲しくないのだろう。ただし、本当に悲しくないのかと言えば、きっとそれは違う。黒住は確かに悲しんでいる。自分がどう足掻いても気付けないくらい綺麗な嘘に纏められいるが。
「貴方の中身が幻想なのよ。こうも考えられてくるわ。貴方は実は天才じゃない。貴方は自分が一般人であることに対して自分で嘘をついている。実は普通なのに、普通じゃないと嘘をついている。そんなこと普通は出来ないのだから、やっぱり天才なのでしょうけどね」
「俺が、嘘つきだと貴様は言うか」
「そうよ。何が『死ね』よ。どうせ殺すつもりなんか無いくせに」
黒住は言葉を吟味している。それでも銃口がこちらから外れないのは、まだ彼が嘘を続けている証拠だろう。
「お節介なのよ。自分に正直になれない奴が、他人に正直でいてどうするのよ」
はっ、と鼻で笑ってやった。
その瞬間。二発目の発砲音。今度は予想外過ぎて、心臓が口から飛び出すんじゃないかってくらい跳ね上がった。キーンという耳鳴りがしただけで、弾は彼方へと飛んで行ったみたいだ。ただ、銃弾は当たっていなくとも、心臓発作で死ぬかと思った。まだ心拍数は治まらない。
「俺は貴様を殺したい。無論これに嘘は無いが、主に悪意で出来ている」
「つまり、ただの脅しなんでしょ」
精一杯の虚勢。力の無い私は、言葉で対抗するほか無いのだ。口を失ったら負けだろう。
「教えて。何故貴方がここに私を呼んだのか。どうせ白椿さんの死体を見せ付けるためだけじゃないんでしょ。そして、貴方はこれ以上私に踏み込んで欲しくないと思っている。違う?」
「聡明な奴は探偵小説には必要ないと、これほどまでに強く思ったことは無い」
黒住が拳銃をついに下げた。グリップを握りこんでいるのは意地だろうか。どちらにせよ、私は死への緊張感からようやく開放されたことになる。知らずの間に肩に力を入れていたせいか、やけに凝っていた。
「これは、ほんのちょっとした嫉妬心の話だ」
「へえ、貴方が」
黒住にそんな可愛らしい感情があったなんて意外だった。黒住はそのまま坦々と語る。
「異常者を殺す。それが俺の全てだった。そもそういう世界で生きてきたのだ。俺は嫌気が差すほど異常者を見てきた。時に同情心も芽生えたが、何よりも目障りだったというのが一番だ。誰かを殺すことしか脳に無かった俺のようで、激しい嫌悪感を持っていた」
黒住にどんな過去があったのかは分からない。ただ、彼もまた、『そういう場所』で生きてきた人間なのだと知った。
「自分が死んでも誰も気付かないし、誰も悲しまない。それなら、俺と同じあいつらも死んで構わない存在なのだと俺は気付いた。だから俺は奴らを殺した。それが奴等に対する救いであり、何より『自分を殺している』ようで俺の満足をも得られたのだ。だが……」
黒住は空を仰いだ。
「俺の前で泣いた奴がいた。信じられなかった。俺と同属の人間が泣くことが信じられなかった。あまりに混乱した挙句、やはりそいつを殺したんだ。そうしたらどうだ、何故か俺が泣いていたんだ」
黒住のサングラスは嘘をついた。俺は泣いてなんかいないぞと、嘘をついていた。
「知ったのだ。まだ、救いようはあるのだと。だが、俺がそれを実践できたことはただの一度も無い。そう、嘘だったのだ、俺が泣いたのは」
初めての嘘。誰につくのでもない、自分自身への嘘だった。
「結局救えない。異常者は異常者で、どうやっても変わることが出来ない。そう、思っていたのに……貴様が現れた」
「私……?」
「貴様が、俺が白椿を殺すのを、止めてしまった」
黒住があの日、置いて行った拳銃。私の手に渡ったことによって、黒住は白椿さんの両親を殺すことが出来なかった。いや、この巨体にこのキャラだ。殺そうと思えば殺せただろう。
だが――。
「一縷の望みを、持った」
「それが、私?」
「そうだ。そして結果として、貴様は白椿を救った。俺に出来ないことを、貴様はやってのけた」
「嫉妬をしているっていうのは、そういうことなの?」
「ああ。だからこそ、貴様をこれ以上先に行かせたくない」
虚しい校舎。黒住が塞いでいるその先には、誰もいない校舎がある。そうか、ここにいるのか。あいつが、あの男が。
「優等生、今一度聞こう。本気で行く気なのか」
「行くわ。誓ったもの。必ず殴るってね」
「俺がここを通さないと言ったらどうする」
「その時は……」
今朝、何気なく持ってきたそれを、後ろ手に取り出した。
「無理矢理通らせてもらうわ」
今度は私の番。銃口は私から黒住へと移る。
白椿さんの家の前で渡された拳銃。すっかり返しそびれていたもの。人の手には余る重量と、破壊力を備えた人殺しの道具だ。
なんとか威圧したつもりだったが、何かが足りない。何だろうと考えていたら、そうだ、重要なものを忘れていた。ごほんっ、と一度咳払いをして、私は言ってやった。
「無論、これに嘘は無いが――主に悪意で出来ている」
「ふん。何だ、ただの脅しか」
「そうよ。だからそこを退きなさい」
黒住は動かない。ただ、逆転した立場上、彼には言葉があった。
「誓え」
それは、ある意味銃弾よりも重い一言だった。
「灰田を救うと誓え」
あの馬鹿野郎を救えと、黒住は言った。
「この先にいるのは自称神だ。貴様に奴が救えるか。俺に出来なかった全てのことを、貴様はやり切れるのか? ――逃げるなら今の内だぞ、優等生」
彼の中にどんな本心があって口にした言葉なのかは計り知れない。ただ、今更になってそんなことを言い出す辺り、彼も心配性らしい。そんなこと、言われなくても分かっている。私は、優等生だから。
「任せなさい。やり切ってみせるわ」
「そうか。それなら良い」
ドンッ――。
「え……?」
再三の銃声。ただ、今度ばかりは私も唖然とした。
いや、嘘だ。私は引き金を引いていない。じゃあ誰が……。
言うまでも無い。黒住だ。証拠に、黒住は膝を折ってその巨躯をアスファルトの上に打ちつけた。
「何をして……っ!」
駆け寄ると、太股の部分から大量の血が流れ出しているのが見えた。足を自分で撃ったらしい。苦しそうな呻き声を上げながらも、決してその傷口を押さえようとはせず、私の方をサングラス越しに見た。
「嘘つきは泥棒になる前に殺したいくらい嫌いなんだ」
「だからって、自害をしようとするなんて……」
「だが出来なかった。いや、全くもって情けない話だが、やはり死ぬのは怖いな。胸や頭を撃とうと考えていたのに、妥協してしまった」
「貴方、もしかして……」
黒住はそれ以上先を否定するように、首を横に振った。
「貴様はどうして、俺に銃口を向けられて怖気づかなかった。俺は撃つぞ」
「私よりも貴方のほうが優れた人間に見えなかったからよ」
「くっ、ははっ。言ってくれる……」
冗談だったのだけど、黒住はそれを笑い飛ばした。
「俺はもう動けない。行きたいのなら行け。貴様にしか出来ないことを貴様がやるんだ、優等生」
「……分かったわ。ただ、止血だけはさせて。このまま放置してたら本気で死ぬわよ」
「それも無しではないな」
「無しよ」
私は自分のハンカチを出して、黒住の太股に巻きつけようとする。が、その図太い足を一周するだけの面積がハンカチ一枚には無い。
「何か布を持ってない?」
「人殺しの道具以外は持たない主義だったんだ」
「仕方ないわね。上着借りるわよ」
「……おい」
無理矢理上着を脱がして、その袖の部分で黒住の太股を強く縛った。応急処置にもならないだろうが、無いよりはましだろう。
ぽつり。
空から一滴の雫が落ちてきた。それに続くようにして水滴が落ち、次第に雨になっていった。黒住のように仰いで見れば、そこには無限の曇天が広がっていた。本来あったはずの青い空が、灰色に満たされていた。閉じてしまったはずなのに、私には開いたように見えた。
「黒住……」
どさり、と音がして視線を落とすと、黒住が仰向けで倒れていた。それで格好つけたつもりなのか。私は彼の横で中腰になると、そのサングラスの奥に向かってこう言ってやった。
「貴方、泣いてるわよ」
「馬鹿か。これは雨だ」




