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6話

 おままごとは続いている。

 ずっと、続いている。

 彼女はそれが凄く楽しそうで、人形を前にして色んなことを話している女の子はいつも笑顔だった。ただ、どうしても私にはそれが笑っているように見えなかった。

 どれだけページを捲っても終わらないおままごとと同じように、この夢もいつも同じ。見ているこっちがつまらなくなってくる。この世界のエンターテインメントは既に死滅していた。

 白と黒のモノクロ世界だったものは、次第にそれが融合し、色をなした。色、そう呼んで良いものなのかは些か疑問だが。

 私がしっかり認知出来た時、その色は『灰色』と呼ばれる色になっていた。黒でも白でもない。なんだか中途半端な色。そこで女の子は、永遠におままごとを続けている。

 そう、私はこの世界を見ていた。

 世界は灰色で、言ってしまえば壊れた人間の、壊れた世界だった。

 おままごとは続いている。

 ずっと、続いている。



  *



「全く横暴だと思いませんか先輩! 課題やってこなかったからって宿題三倍増しにされました。高校生になってまで宿題宿題って、あたしももう子どもじゃないんですから。あー、あの教師の髪の毛何かの因果で禿げないですかねぇ、思いっきり笑ってやるのに」

 あれからもう二ヶ月の時が流れようとしていた。灰田は相変わらず何かとちょっかいを出してくるものの、特別おかしな出来事があったわけでもなく、私はこうして白椿さんと放課後の談笑を楽しむだけの坦々とした毎日を送っている。

 超特急で走っていた電車が急停車してしまったような感じ。別に不満は無いが、ほんの少しだけ肩透かしを食らった気分だった。あの日々は何だったのだろう。実は夢だったんじゃないかと考えることもある。しかし、白椿さんがこうして隣で歩く度、それが夢じゃないことを思い知らされる。確かに覚えている、白椿さんの手を握った瞬間のことを。少し気に入られ過ぎたのか、白椿さんはたまに自分から手を繋いでくるときがある。嬉しくはあるが、正直恥ずかしい。男は勿論だが、女の子と手を繋いで歩いたことも無かったのだ。慣れないことはするもんじゃない。

「というわけで、ハンヴァーガー食べに行きましょう。ハンヴァーガー」

 変な発音。白椿さんは言いながら私の腕を取った。

「いや、どういうわけよ……」

「立ち話もなんですしってことです」

「何? 私に愚痴を聞かせるつもり?」

「え、あ、いやー。先輩のことももっと知りたいというかですね、いえこれでももう結構知ってるつもりなんですが、やはり会話だけでは分からない未知の部分が。ああごめんなさいなんでもないです殴らないで」

 手の平をグーにして見せ付けてやると、白椿さんは大人しく引いた。

「ん。まあ良いわよ。六時くらいには帰らせてもらうけど、それでも良い?」

「流石です先輩。感動したのでハンヴァーガー奢らせてください」

「その変な発音はもういいわよ……」

 歩いて数分のところにあるファストフード店。私たちはそこに向かうことにした。

 町並みの中を歩いていて、思い出したことがある。二ヶ月前の××区が封鎖されるまでに至ったあの事件。××区の住民は何事も無かったかのようにそこに戻っていた。殺人犯が徘徊しているということで立ち入り禁止になったあの地域に住んでいた人は、誰一人帰ってこなかった人はいなかった。警察も首をかしげたように、私も疑問に思えてしかたが無かった。あの日、白椿さんの家で見た大量の死体は何だったのか。確かな匂いと、その存在感を持っていたというのに、あれらは全て街の住民ではなかったということになる。そりゃ、死後どのくらいの死体だったのかが分かるほど私も状況に順応していなかったし、そもそもそんな知識も無い。だからあれが昔殺した奴が転がっていたと言われても否定は出来ないが、納得も出来なかった。

 こればかりは、その手の事情に詳しい黒住に聞くしかないのだが、彼は今どこかへ仕事に行っていていない。真相は解明されていない。

「あ……」

 ファストフード店の前まで着いた時、白椿さんが間抜けな声を上げた。

「先輩、あたしんちで紅茶でも飲みましょう。今日は凄く込んでるみたいです」

「いやどう見ても込んでないわよ」

「やばいっす。二酸化炭素が席を占領し尽くしています。入ったら死ぬかもしれません」

「意味分からないこと言ってないで行くわよ」

「ああー。死ぬー」

 帰ろうとした白椿さんを引っ張って、自動ドアを潜った。店員の「いらっしゃいませー」という掛け声が続く。客が数人並んでいたので、その一番後ろについた。一つ前の奴がやたらと背が高くて、前が見えない。横で白椿さんが「あわあわ」と到底意識的に出せるものじゃないことを言っている。

「や、やっぱりどこかのファミレスにしましょう先輩! あー、ハンヴァーガーじゃなくてハンヴァーグが食べたくなってきたなー。そういえばもうご飯の時間です。因果ですね因果」

「まだ昼の四時半よ。こんな時間に夕飯を取るの貴女」

「一日六食生活のあたしには常識です。嘘じゃありません、でも、主に悪意で出来ているみたいな」

 語尾の勢いがどんどんと下がった。あいつの真似かと思った瞬間、正面から聞き覚えのある声がした。

「俺を真似るとは良い度胸だ白椿菊乃。久しぶりの顔だったからハンバーガーの一つでも奢ってやろうかと思っていたが、無しだな」

 黒住儀軋。あの日以来全く顔を合わせなかった人物が、そこにいた。

 相変わらずの黒ずくめにサングラス。ただ、ミラーサングラスだったものは、普通の黒いサングラスになっていた。元々黒かったのにもっと黒くなっていた。

「なんで帰って来てるんですか! いきなり前触れも無くこんなところに出てこないで下さいよ! っていうかなんでこんなとこにいるんですか!」

「気紛れだ。ここの味が恋しくなったから帰ってきたとも言える。無論、これに嘘は無いが主に悪意で出来ている」

「……なんか怪しいっすね」

「心外だな。俺にだって好きな食い物くらいある」

「ハンヴァーガーがですか?」

 発音を直す気は無いのだろうか。そろそろネタとしても聞き飽きてきたが。

「そうだ。何か悪いか?」

「前にゴミだのなんだの言ってたくせに。ゴミが好きな食べ物ですか」

「ゴミが好きな食べ物ですか、か。表現は的を射ているな。まるで俺が好いてゴミと相手をしているように聞こえるが、まさにそれは間違いじゃない。この世の腐りきった屑共を片っ端から片付けて行くのが俺の仕事だ。そう考えれば、俺がゴミ好きなのも頷ける」

「あーあー。もう何でも良いですよ。とりあえずハンヴァーガー奢ってください。それで許します」

「現金な奴だな」

「正直者って言ってください」

 謙虚さが無いのと正直なのは少し違う気がする。というかこのくだり、前にも見たような気が。

 少し前までは考えられない談笑の光景。黒住と白椿さんがまともに会話を成立させている姿を初めて見た気がする。あの日以来、白椿さんはなんとなくだが丸まったような気がする。私にも時折見せていた据えた目は、あれから一度も目にしていない。まあ、丸くなったと言っても黒住に対しては色々と思うところがあるみたいだが。

 そのまま口を挟まずに彼らの下らない話を聞いていると、どこからかケータイの振動音がした。どうやら白椿さんのものだったらしく、彼女は学生鞄の小さなポケットからケータイを取り出した。

「すいません。並んでおいてくれませんか?」

「良いわよ。いってらっしゃい」

 電話を取りながら彼女は店から出て行こうとした。微妙に声が聞こえる。語尾が不自然な敬語になっていることから、目上の人と会話しているようだ。その様子を見て、私は思わず頬を緩めた。以前までたったの一度たりとも鳴らなかった電話。今ではこうして、私以外の人とも話をしている。彼女が確かに変わった証拠を見せ付けられているようで、何だか嬉しくなった。

「ねえ、彼女、変わったわよね」

 喧嘩相手のいなくなった黒住に、今度は私が話しかけた。

「俺にやたらと刺々しいのは変わっていないがな」

「それは変わらなくて良かったじゃない」

「貴様、本気でそう思っているなら考え直した方が良い。正直に言って、やたらと突っかかられるのは面倒だぞ」

「私は見ていて楽しいから良いのよ」

「サドだな貴様」

「今更気付いたの?」

「……」

 表情が一変もしないから黒住は面白くない。せめてサングラスさえ外してくれれば反応がちょっとは分かり易いのに。ただ、言葉を失っているのは素直に私の勝ちということで受け取っておこう。何に勝ったのかは全く分からないが。

「その、白椿さんが帰ってくる前に聞きたいことがあるのだけど」

 少しだけ黒住に寄って、声を潜めた。

「何だ?」

「××区の人たち、誰一人とも死んでなかったじゃない。あれはどういうことなの?」

 さっきまで考えていたことを、タイミングが良かったので黒住に訊いておきたかった。黒住もそれには反応を見せ、ゆっくりとこちらに顔を向けた。真面目に話を聞いてくれるようだ。

「あの一件、どうやって事件を処理したかは聞かないわ。そっちのほうが私にも都合が良いし。ただ、死んだ人が帰ってきたなんてことはあまりに腑に落ちなさ過ぎて」

「貴様が何を言っているのか一瞬分からなかったが、そういうことか。あの場、白椿の家にあった大量の死体は××区の住民ではない。どころか、この世界の人間でもない。それは固定観念だな優等生」

「どういうことよ?」

「あの時、灰田には感謝したいと言ったのを覚えているか?」

 それに頷く。あの場は急いでいたので気にしていなかったが、今こうしてその名前が出ると、どうしても身構えてしまう。

「貴様も色々ともう知っているだろうから前提の話はしないぞ。あそこに転がっていた死体、白椿が『浄化』したと思っていた死体は全て灰田の用意した人形のようなものだ。命こそあれど、俺たちの知っている人間とは遠く離れたものだ」

「灰田が用意したって……随分と気の遠くなるような想像をしなきゃならないわね。何、あいつ人も作れるの?」

「らしいな。流石自称神と言ったところか。非日常も限度を越えるとファンタジーだな」

「いや、なんか凄く納得してるみたいだけど冷静になりなさいよ。ちょっと頭がついていかないわ」

「言葉通りに受け取らないと、混乱するだけだぞ。『そういう奴もいる』程度で考えておけ。有り得ないことなんて世の中に存在しないのだ。だったら目の前を受け入れた方が楽だぞ」

「極論ね……」

 とは言え、深く考えても答えは出なさそうだ。ここは黒住の言うとおりにした方が懸命だろう。固定観念がどうとか言われたが、誰がどう想像したらそんな答えが出てくるのやら。少しくらいは固定されて欲しい。

「俺からも貴様に聞きたいことがある」

「何よ? スリーサイズなら教えないわよ」

「そんなもの後からどうとでも調べられる。俺が聞きたいのは、貴様は灰田にも、白椿と同じように節介を焼くのかどうかということだ」

 冗談を軽くスルーされた挙句、とてつもないカウンターが飛んできた。ただ、私はそれによろめく事は無い。初めから答えは決まっている。

「当たり前でしょう。乗りかかった船よ。私が嫌がったってどうせ向こうから来るわ」

「貴様は変な奴ばかりに好かれているな。類は友を呼んでいるのか」

「次、私と灰田を同じように扱ったら殴るわ。貴方が年上だろうが何だろうが関係なく殴るわ」

「以後、気をつけよう」

「……で、何でそんなこと聞いたのよ」

「本当にその時になったら、俺は前回のように手助けは出来んぞ。それでもやるのか」

「何度も言わせないで。私はやると言ったら全部やり切るわ。別に貴方の力を借りようとは思ってなかったら大丈夫よ」

「そうか。それならそれでいい」

 随分と簡単に引き下がられた。てっきり止めてくるのかと思った。こちらこそ、それならそれで言うことは何も無い。

「……この頃、××区に起きたようなことが世界各地で多発している」

 相変わらず全く変化を見せない表情で、ぽつりと呟くように言った。

「――逃げるなら今の内だぞ、優等生」

「貴方、まさかここに帰って来たのって……」

 そこで店の自動ドアが開き、私は口を閉ざした。白椿さんが電話を終えて帰ってきた。何やら浮かない顔をしている。

「バイトのシフト無理矢理入れられました……。しかも今すぐですよ? 意味分かりません。今日は先輩と沢山遊ぶ予定だったのにぃ!」

「無理矢理って……断れなかったの?」

「はい……なんかバイトの子が二人くらい無断欠席してるらしくて、人手が足りないらしいんです」

「最悪ねそれは。んまあ、承諾しちゃったなら早く行きなさい。次その無断欠席した子に仕事押し付ければ良いわ」

「りょーかいしました。んじゃ、また明日会いましょう!」

 風が通り過ぎるように素早く白椿さんは走り去っていた。相変わらずの構成材料十割が元気な子である。見ていて微笑ましい以外の何ものでもない。

 黒住と二人になった。さっきと同じ状況ではあるが、白椿さんはもう戻ってこないだろう。それに、注文の順番が回ってきている。黒住がレジの前に立ち、メニューを見ていた。しかも、結構長く悩んでいる。店員が注文はまだかと痺れを切らしそうな顔で待っていた。私も見ていて苛々する。図体がでかいので、後ろから蹴ってやりたくなった。

「なあ、優等生。ハンバーガーを一つ奢ってやろう」

「……どういう風の吹き回しよ」

「気紛れだ。無論、これに嘘は無いが、主に悪意で出来ている」

「良いわ。受け取ってあげる。ただし、チーズバーガーにしなさい」

「貴様、本当に優等生か?」

「そんなの私が決めることじゃないわ」

「それもそうだ」

 言いつつ、律儀にチーズバーガーを頼んでいた。

 何だか、負けた気分がして凄く嫌だった。



  *



 店から帰り、親への挨拶も適当にして私はベッドの中に飛び込んだ。ふかふかの布団が眠気を誘うが、ここで寝てしまうと夜辛くなる。ポケットのケータイ電話を放り投げ、うつ伏せになっていたのを仰向けにし、蛍光灯からの光に目を細めた。

『逃げるなら今の内だぞ、優等生』

 さっきからこの言葉が何度も頭の中でバウンドしている。どこからどこへ逃げるというのだ。この街からか。それともこの国からか。もっと言ってこの世界からか。どうやって逃げろっていうんだ。地面に穴でも掘ればいいのか。ロケットに乗って宇宙にでも行けば良いのか。どうせ逃げられないっていうのに、黒住がわざわざそう言った理由が見えなかった。

 灰田純一。略して馬鹿。

 あの粘着質ストーカーみたいな奴に、私が気をかけている理由。それこそ、もっと分からない。もはや義務感というか、自分の使命みたいに考えている節がある。個人的な感情に基づく理由じゃない。白椿さんの時は彼女を助けてやりたかったと思うのに、灰田を助けてやりたいなんてことは微塵も思わない。有り得ない。あいつを救ってやりたいと思うくらいなら、全財産をコンビニ募金にでも放り込んで偽善に酔うほうがましだ。どちらかというと嫌いなタイプだ。引っ越せるなら、あいつのいない所へ行きたいくらい嫌いだ。ぶっちゃけて言えば、無茶苦茶嫌いだ。

 だけど、何故私があいつをそんなにまで嫌っているのか、その原因が掴めない。自分のことなのに良く分からない。これがまた、恋心とかだったら良かった。流行の属性だとか、そういうのなら良かった。でも違う。会う度に嫌悪感と苛立ちを覚える相手を好きだ何て話はどこにもないだろう。長く話すつもりならエチケット袋とか必要かもしれない。物凄く酷いことを思っているような気がしたが、全部が全部ありのままだった。

「そういえば……」

 灰田と言えば、もう一つ考えるべきことがある。というか、こっちのほうが重要だ。

 黒住が最後に言っていたこと。××区で起きた出来事と同じことが、世界各地に起きている。世界というのがどういう単位なのか段々分からなくなってきたが、きっと全国単位だろう。黒住が二ヶ月姿を消していたわけがなんとなく想像出来る。

 混ざり合い始めた腐った水が、斑模様を作るように表に出てきている。黒住はこれを隠すのに必死だったのだろう。想像の範囲を出ないが、多分間違いない。

 空の上から降りてきたのか、地底から湧き出てきたのかは知らない。しかし、確かにあの時黒住の表現した腐った水は色を持って出てきている。それももう、足どころか腰元くらいまで。視線を落として見てみるだけじゃ分からない。実際にそこに潜って、息をしてみないと分からない。

 その水の蛇口を捻っているのは誰か。自分はそこで泳げないからって、自分の住みやすい水を流しているのはどこの馬鹿か。

 腹が立つのだ。そう、あいつに対しては頭の上から足の先まで、全部が全部腹が立つ。出来の悪い子どもなんて騒ぎじゃない。空気の読めないがり勉男。そんな感じ。でしゃばって無いで黙ってれば良いのに、やたらと自己主張したがる奴。今ままでそんなこと出来なかったのに、急にやろうとして、それも他の奴の意見なんて何も聞かないで自分だけでやろうとする奴。

「むっかつくわね……」

 ベッドのスプリングを使って飛び上がる。むかむかした時には何かを食べるのが一番だ。私は部屋を出ると、リビングまで降りて行った。キッチンには誰もいない。リビングのテレビもついていない。父親と母親は何処に行ったのだろう。夕飯の買出しだろうか。とりあえず私は冷蔵庫を開いて、中にあったハムをそのまま頬張った。

 そういえばと思って、新聞紙を探した。確かリビングの端のほうに纏めて置いてあったはずだ。それを見つけて、今日の分を取り出す。机の上で開く。紙の感触が妙に懐かしい。テレビ欄を裏に向けて、見出しが一番大きい順に見ていく。政治経済から下らない話まで、マスコミは何でもネタにしたがる。これを疎ましいと思う人が多いようだが、向こうも仕事なのだと割り切るべきだと私は思う。実際にやってきたら私も嫌がるだろうが。

 ページをめくっていく。すべてのページを見終わった。無駄にテレビ欄まで見てしまった。しかし、それでも私の望んだ結果は得られなかった。

 黒住の言っていたことが本当かどうか確かめたかったのだが、新聞には何も書かれていない。まあ、××区の事件も同様にニュースにはなったものの、私たちが解決した後は何事も無かったように一切触れなかったのだ。どうせどこで起きても黒住が処理してしまっているのなら、新聞の一面に載る事は無いのだろう。

 ――なんてことが、本当に有り得るのか?

 ぶつり、と疑問の腫瘍が脳味噌に出来た。

 たかだか一人の男の力で、世界中の事件を闇に葬るだって? そんなことが可能なのか?

 常識的に考えろ。ここはどこだ。小説三百ページの中身じゃない。現実だ。固く閉ざされた因果と、気紛れな風のような運命が支配する世界だ。それ以外のことは、何も起きはしないだろう。

「何を……考えているの」

 深刻な自己嫌悪に陥りそうになり、思わず頭を抱えた。何故か歯軋りの音も聞こえる。まさか私のものなのか。それに混じった荒い呼吸が、やけに耳につく。

 ……おかしいのはどっちだ? 

 私か? 

 それとも世界か?

 一度湧き出した疑問の水は留まることを知らない。許容できる範囲をゆうに超え、頭を侵食していく。何が起きているのかまったく分からない。目の前の光景が回っているはず無いのに、ぐるぐると回転しているように見えた。

 まるで、壊れた世界のようだった。

「人はどうしても曖昧なものだ。例えば、千人の自分が目の前にいたら、君はどれが本物の自分か当てることが出来るかい? 僕には無理だ。自分の正体すらまともに分かってない。それが自己ってもんだよ」

 いつも通り、音は無かった。

「ただ、どうしたって人は自分を見極めようとする。それは自分の運命だったり、はたまた人間の質だったりする。ただ、これはある意味消去法。自分の中にある可能性という自分をひたすらに殺していく作業。普通の人はきっとこれを上手く行えたり、互いに許容し合えたり出来るんだろう。でも、僕らみたいな持って生まれた天才は、それが出来ない」

 だから、自分が満足するまで徹底的に殺しつくした。

 それを――。

「それを、僕の灰色の世界では、『セルフディストラクション』、つまり『自己殺害』と呼ぶんだ」

「あんたは、私がそういう人間だって、思っているのね?」

「まだ気付いていないのかい? 君は立派な異常者だ。もう変えられない事実だよ」

「まさか。私はただの優等生よ」

「これでもまだ自分を優等生と呼ぶのか。まあ、君がそういう人だってのは分かってたことだけどね」

 傍から聞いたらこいつらは何を話しているんだと馬鹿にされそうだ。そんな誰にも伝わらない会話が、こいつと話していたら永遠と続く。

「ホームラン三十本は打てたかい?」

「随分と昔の話を持ち出すのね。どう答えたら良いのか全く分からないわ」

「いや答えなくても良いさ。君は立派に打てただろう。三十本ジャスト、きっとやり切ったさ」

 喜ばれてはいても、褒められてはいない。

 灰田は図々しくリビングのソファー、つまり私の横に腰掛けた。尻の下に灰田の体重で沈んだ分の隙間が開く。なんだこいつ、幽霊とかじゃなかったのかと本気で思ったりした。

「今一度問おう。君にとって優等生とは何だい?」

 その問いは、いつもと同じく唐突で意味不明で、ほんの少しの違いがあった。

「そうね……」

 だから、私も今ばかりは少し違った。まるで、自分が優等生で無くなったみたいだった。

「例えば、あんたの言う天才と比べるならば、勇者と魔王、世界と神、そして何より私とあんたのことよ」

 案の定彼は笑った。大きく、顎が外れるんじゃないかと思うほどにその整った顔をゆがめた。嘲笑しているんじゃないとすぐに分かる。彼は、喜んでいる。

 いつだっただろうか、私は彼といる時間にたまに映画の舞台に巻き込まれたような感覚がすると思ったことがある。それは、彼に感じる比喩でもあったのだが、今分かった。これは紛れも無く、彼の世界に巻き込まれていたのだと。比喩じゃない。ここは今、ちょっとしたファンタジーなのだ。

「たまごとにわとりという話があるだろう」

 またも唐突に話を切り出してきた。もう慣れっこである。私はそれに静かに頷いた。

「たまごが先なのか、にわとりが先なのか……。その問いは簡単だ、にわとりが先だ。何故なら神がその前に存在し、神は生物を創造したからだ。それはたまごではなかった。

 ――では、問題だ。『世界と神はどちらが先に生まれたのか』」

 私はその問いに答えることを延期する。

「それは私への挑戦状と受け取って置くわ。次会うときの手土産にしておいてあげる。覚悟しておきなさい」

「どうせ僕の望む結果になる。君こそ引越しの準備を済ませておいたほうが良いよ」

「言ってなさい」

 彼の望む結果とは一体どのようなものだろうか。彼の表情からは全く察せ無い。何か物寂しげな笑顔を浮かべるだけで、まるでほかの顔を知らないかのように一切崩れる気配が無い。

 ――物寂しげ。

 そんな感想を抱いたのは初めてだったから、少し驚いた。でも、どうしてなのかは分かっている。私はようやくこいつと同じ檀上に立ったのだ。今まで操り人形のように上から操作されるだけだった私は、彼の前まで来てようやく話をすることが出来るようになったのだ。

 準備はもう終わったのだろう。待たせ過ぎだ。待ちくたびれて、こちらから出向くところだった。

「灰田純一。答えなさい」

「良いだろう。何だい?」

「この物語は、一体どういう話なの?」

 脈絡の無い、自分で言っていてわけの分からない問いだった。しかし、勿論彼には通じた。何故なら彼は――。

「世界の始まりの話だよ」

 ――神だから。

 だからこそ、彼は忘れている。その言葉には、一言足りない。仕方が無いので、私が付け加えてやるとする。

「世界の終わりの話が、抜けてるわよ」


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