5話
××区の最寄り駅に私は来ていた。駅を出てすぐ、黄色いキープアウトのテープが目に入る。群青色の制服をきた警官が十数人うろついていた。駅が封鎖されていないのが不思議だが、それは通勤やら電車のダイヤの影響だろう。ともかく、黒住を探す必要がある。
白椿さんは家に置いてきた。彼女自身は付いていくと言い張ったが、もしかしたらのことを考えると彼女が居合わせるのはあまり得策とは言えない。黒住が相手を逮捕するだけで留まってくれるなら良いが、彼の言う『刑事』とは言葉遊びの一環であって、それ以上の意味を持たない。つまり、相手を捕まえて牢獄に叩き込むための職業的な存在ではないのだ。
最悪、殺してしまうかもしれない。そんなことを私は考えている。
昼の直射日光を浴びながら、張られたテープに沿って私は街を歩く。ここに来たことは無いが、同じ東京都の街には到底考えられない静けさ。家宅が立ち並ぶ住宅街だというのに、所々に埋められている木よりも生命を感じない。この中に残った命は、唯一植物だけかもしれない。自分の足音がここまで大きく聞こえる場所が都会にあるとは思わなかった。何台ものパトカーが本来街であったものの景観を妨げ、その空間に異常性を作り出している。まるで万里の長城並みに長く作られた黄色いテープも同じだ。こんなことは、普段有り得ない。
「実に奇妙な光景だろう。まるで違う世界に来たみたいだと思わないか」
真正面、その景観を妨げている原因の一人がどこかを見据えて立っていた。相変わらずの黒に統一した服装、そしてサングラス。きちんと着替えているのか問いただしたい。
「テレビでしか見たこと無かったけれど、実際に来てみると、なんというか、本当に奇妙ね。このテープの先に手を入れてみたら、違うところに繋がっていそうだわ」
言った通りにしてみたが、やはり何も起きない。当然だ。本当だったらむしろ反応に困る。
「貴様がここから一歩先に踏み出した瞬間、非日常の世界に足を踏み入れるとしたらどうする」
「何よ突然。異常な光景に気でも触れた?」
「……」
私の冗談は聞く耳を持たないらしい。
「どうする、と聞かれてもね。日常と非日常って、水と油みたいな関係でしょう。決して混ざり合わない、みたいな。きっと入ったら呼吸が出来なくなるわね」
「そんなことはない」
てっきり乗ってくると思ったのに否定されたので、軽く肩透かしを食らった気分になった。黒住は依然としてどこかを見つめたまま、言葉を続ける。
「日常と非日常とは、水と腐った水だ。一見してその違いは分からないが、飲んでみれば一目瞭然。混ざり合うことも出来るし、どちらもどちらに介在することが出来る。そんなに離れた関係でも無い。呼吸は恐らく出来るだろうが、貴様が今から吸う空気は実際腐っているだろうな」
黒住は服の袖を巻くって腕時計を見た。銀色に輝くそれは、妙に高級感を漂わせている。こんなんだからヤクザっぽく見えるんだと言ってやりたかったが止めておいた。
「腐った水、ね」
言われて見れば、目の前の空間が淀んでいるような気もする。きっと、それはただの気のせいなのだろうけれど。
「さて、時間も押している。そろそろ行こう」
「……待った?」
この時、きっと私は凄くいやらしい顔をしていただろう。
「いいや。今来たところだ。無論これに嘘は無いが、主に悪意で出来ている」
先ほど駅の時計で時間を見てきた。一時を回って十五分過ぎていた。ここまで少し歩いたことを考えれば、もう半は過ぎているだろう。ここに今来たことは嘘じゃないだろう。そして彼が待っていなかったというのも嘘じゃないだろう。ただし、きっと怒っている。あの仏頂面の奥で、私に文句の一つでも垂れていると面白いな、とか思ったりした。
*
世界は腐っていた。まさか消費期限が切れたわけでもあるまい、正確には腐らされていたと言うのが正しいんじゃないだろうか。外観だけやっと保って、中身はすかすか。その原因たる病原菌を探るべく、私は黒住の後を歩いていた。
立ち入り禁止の向こう側。こんなに簡単に入れるとは思っていなかった。警察から逃げるスリルでも味わうんじゃないかと期待していたが、黒住が「通るぞ」と言っただけで、警官は通してくれた。どういう繋がりがあるのか知らないが、納得出来なかったわけじゃない。今なら黒住が個人的に核を所有していても納得しそうだ。予想外だったのは、どう見たって無関係な私も通してくれたことだ。一端の高校生でしかない私を連れた黒住の姿はどう見てもまともじゃない。今この場、周りに人がいないから良いものの、これが普通の日中の街角だったら、本当の意味で警察に捕まりかねない。それでも毅然としているのが黒住だろうけれども。冗談は通じるが、どうにも面白くない奴だ。
「どこに向かってるの? まさかこの封鎖された全体から探すわけじゃないわよね?」
「当たり前だ。既に白椿は押さえている。それより、おかしいと思わなかったか。区が全域立ち入り禁止になることは決して不可能ではないが、キープアウトのテープを使うというのは些か面倒なことだと」
「言われて見ればそうね。大体殺人事件が起こったのだから、誰も普通に近づかないわよ」
「あれは所謂目印だ。ここから先に進まない方が良い、というより進むなという警告のな」
それこそ当たり前だと思ったが、どうやら私の考えている領域よりも少し先のことを黒住は考えているような気がする。
「先に確認しておくが、今回のこの連続殺人事件と、そして××区が全域封鎖されたこと。貴様はこれが『現実』だと思うか?」
「自分の頬を抓れば分かること?」
「貴様はどうにも冗談好きらしいな。調子が狂うから止めろ」
「イニシアチブを相手に渡したくない性分なのよ。諦めて」
勿論、私だって黒住がそういう夢や現実のことを語っているわけじゃないのは分かっている。
目の前の光景を改めて視界に収めてみる。私が普段見ているものと別に大きく変わったところじゃない。静寂の成分が八割ほど増されただけで、ほかは何も変わらないのだ。天井から降り注ぐ太陽の光も、かすかに香る木々の芳香も。現実から拒絶された空間だと考えるには、あまりにも普通過ぎる。
「現実かどうかと聞かれれば、現実と答えるしかないでしょう。私は実際ここにいるわけだし」
「そうだ。ここは現実だ。だが、この状況は現実か?」
「どういうことよ。回りくどいのは面倒だから止めて」
「過去、通り魔などで十人単位が殺害された殺人事件が無かったわけじゃない。その時、街の封鎖は行われたか?」
黒住は歩くスピードが速い。私は少し駆け足になって、彼の横に並んだ。
「記憶が薄いけど、そんな大々的なことはしなかったわね。でも、その時は犯人が現行犯逮捕されていたわ。今回は犯人は捕まって無いんでしょう?」
「貴様は何を言っている。先ほど俺が言っただろう。白椿は既に押さえたと」
そういえばそうだ。なら実質上犯人は捕まっていることになる。ならどうしてこのエリアを封鎖する必要があるのか。既に殺人鬼の脅威は去っているというのに。
「まだ、この中にいるから?」
「それもある。白椿の二人はまだ警察の方には届けていない。三日ほど前から拘束しているだけだ」
「三日前? 白椿さんが貴方によって発見されたのは昨日よね? 貴方もしかして……」
「関係の無い話だ」
本当に関係の無さそうな顔で言うものだから、思わず無視しそうになった。
「ありがとう」
「何故礼を言う」
「白椿さんは、貴方にはお礼を言わなさそうだから。昨日のことも含めて、私が代わりにね」
「ふん、律儀な奴だ」
私の礼は受け取ってくれるらしい。本当に嘘をつくことはしないみたいだ
「警察に渡さずにここに拘束しているのには二つ理由がある。一つは、普通の事情徴収では全く意味を成さないから、俺が直接しなければならないこと。もう一つは、この空間が都合が良いことだ」
前者の意味は私にも分かる。彼らの業界で言う「異常者」というやつだろう。まともな人間で会話が成立するとは思えない。黒住はそういう人たちに対する態度が慣れているような気がする。実際に彼と異常者が話している姿を見たことは無いし、そもそも「異常者」というのが何なのかいまいち分かっていないから確かなことではない。ただ、『浄化』などと時代錯誤なことを言って人殺しを行う白椿さんの両親がまともとは言えない。そしてそのまともではない人物を追い続けている黒住も、きっとどこかまともじゃないんだろう。だから話が通じてしまう。そんなこじつけだ。
「この空間が都合が良いって何よ?」
「異常者にとって、普通の世界は純度の高すぎる水でな。少々腐らせないとまともに息も出来ない奴らなんだ」
「××区を封鎖したのは?」
「腐った水を瓶詰めするためだ。全く持って面倒なことだ」
魚だって海水魚から淡水魚、淡水魚から海水魚への進化を遂げてきたというのに、四十年以上の年月を生きながらまだ純水に慣れないらしい大人。確かに面倒だ。世話の焼ける老人よりだって素直に人の言うことは聞いてくれるのに、それすらしてくれないらしい。
「この、腐った水を作ったのは白椿さんの両親じゃないんでしょう?」
「ほう。何故そう思う」
「そんなことが出来るくらい、やり手には思えないからよ」
「辛辣な評価だな。だがそれは的を射ている。この空間は白椿よりもっと腐った奴が作り上げた副産物だ」
「へえ、誰?」
「……」
何故か黒住が黙ってこちらを見た。相変わらず背の高い男から見下されるのは気に食わない。ミラーサングラスがまた一層その威圧感の度合いを上げているから性質が悪い。
黒住は歩くペースをそのままにして、答える。
「――世界を作る天才だ」
その言葉の後に、出来ればいつもの口癖が欲しかった。この言葉に嘘は無いが、主に悪意で出来ていると。
「こういう話を知っているか優等生。外国の話だが、とある小学校の遠足で、数十人の子どもと先生を乗せたバスが帰ってこなかったというものだ」
「知らないわね……ただの行方不明じゃないの?」
「違う。その後、一番最初に運転手が帰ってきた。彼の証言によれば、記憶はバスがトンネルに入った瞬間からそのあと無くなっていたそうだ。ちなみに、その時のバスはそのトンネルの近くの森で発見されたそうだ」
「落下、事故とか?」
黒住はそれに横で首を振る。
「ある日、乗っていた子どもたちと先生が帰ってきた。どこに帰ってきたと思う。全く無関係な家の、庭に突然現れたらしい」
「……どういうこと?」
事故の後、自分たちで街まで歩いて帰ってきて、そこで力尽きたということだろうか。いや違うだろう。それなら、黒住の口から『突然』なんて言葉は出てこない。私はそのまま黒住の言葉に耳を傾けた。
「運転手と同じように、全員記憶を失っていた。そして、自分が何故ここにいるのかも分からないという。まるで、別の世界から帰ってきたように、そこに現れたのだ」
まるで、まともな経路を通ってきたとは思えないように、彼は私の目の前に現れたのだ。
「そして、調べによれば、子どもは一人足りなかったらしい。一人だ、たった一人だけ足りなかった。他は全員帰ってきたというのに、一人だけ」
「その子が、世界のホストだったって言いたいの?」
「真相は分からないがな。だが、真相が分からないことが、この世界にはあるということだ」
話を聞いた直後から、私の目の前の風景が本物なのか疑わしくなった。腐った水を入れて出来たアクアリウムの中のモニュメント。ここは、私が住んでいた純水の世界と同じもので構成されている。値段も同じだし、形も色も変わらない。ただ、ほんの少しだけ不気味に感じる。水の微かな濁り方が、景色の明暗を左右している。私がここから外に出たとき、私は記憶を持っているだろうか。時間は余計に経っていないだろうか。そんな有り得ないことが心配になってくる。何だか黒住に上手く乗せられた気がして悔しいが、ちょっとだけ怖くなったのは否めなかった。
「さて、着いたぞ」
黒住がその巨躯を揺らして立ち止まった。結構なペースで歩いていたから、足に疲労が溜まった。やせ我慢せずに歩くペースを緩めてくれと言えば良かった。
一件の家宅が正面に立ちはだかっていた。立ちはだかっていたと言うのは、私がその舞台に多少の震えを感じていたからに他ならない。二階建ての一軒家。新築なのか、まだ真新しさを感じる。門の傍に備えられた花壇には一輪の花も咲いていない。門の煉瓦と相成って、土色が強い。表札を見た。石の上に黒く彫られた文字は、「白椿」と書いてあった。
「自宅に拘束するなんて、中々優しいのね貴方」
「ちなみに娘はこの中で発見し、保護した」
「……そう」
つまり、家の中で気絶するほどショックなことがあったということだ。私もある程度心を決めておかないといけないかもしれない。
「貴様はこの中に入らなくて良い」
私が一歩踏み出そうとしたところを、太い腕で止められた。私は黒住を見上げて、抗議の声を上げた。
「何ですって? それじゃあ私が来た意味が無いじゃない」
「それこそ何だ。貴様が中で奴らと話でもしようと言うのか? それこそ無駄なことだ。そもそも貴様はここに何をしに来たのだ。俺を止める訳でも無いのだろう?」
「私は……」
「白椿菊乃を助けたいという想いが少しでもあるならここにいろ。そして、もしも白椿菊乃がここに来た時、決して中に入れるな」
「いえ、彼女は家に置いてきて……」
「それで来ないという確証がどこにある?」
無い。そんな確証はどこにも無い。
「それどころか、俺の予想では白椿菊乃は必ずここに来る。その時、邪魔をされないように貴様を用意したのだ」
昨日私に対して挑発的なことを言ったのは、これが理由か。流石悪意の塊だ。確かに嘘は無かったが、私はまんまと騙されたようだ。白椿さんを助けるためと言われたら、従わざるを得ない。確かに黒住の言うとおり、この中で彼女の両親と話をしたところで何の解決にもならないだろう。そんなことで解決するなら、とっくにこの問題は終わっている。
でも。
「……分かったわ。ここで待つ。ただし、貴方が今から何をしようとしているのか、それだけ聞かせて」
「――奴らを殺す」
笑ってしまうくらい、予想は的中だった。黒住に宿るものは本気だろう。彼に纏わり付く空気が変わった。もう私はこいつに一歩でも近寄りたくない。私まで殺されてしまう気がするほど、黒住は本気だ。
「それが、白椿さんを助ける方法になるの?」
声だけは辛うじてはっきりと出せる。言葉で黒住に対抗することはまだ出来るようだ。
「……親に死んで欲しい子どももいる」
「貴方にそれが分かるの?」
黒住は答えられない。分かっている。そういうことじゃないっていうのは、私だって十分に承知なんだ。でも、だからこそ聞いておかなければならない。
「私は、貴方には多少のエゴを感じるわ。私が心配なのは、貴方が自分のために行動していないか否かよ。貴方がずっと追ってきた人たちがこの中にいる。でもそれは何のため? もしも貴方が自分の満足のためにそれを行うのだとしたら、私は意地でもここで貴方を食い止めるわ」
「何が言いたい?」
「貴方がここで今から行うことは、全て白椿さんのためだと誓いなさい」
「俺の事情を酌む気は無いのか?」
「無いわ。貴方が今しようとしていることは、人殺しよ。私は本来、ここで百十番に電話をかけてもいいくらい素直に犯罪なの。でもそれが、白椿さんのためだっていうのなら、私はこのまま貴方を行かせても良い」
「それは優等生的にはどうなんだ」
「優等生が信用しようって言ってるのよ。素直に頷きなさい」
主導権は決して渡さない。私は、常に人より上に立つ。
「俺が素直に貴様の言う通りにする意味が無い」
「誰かを殺すことによって救われる何かの方が、もっと意味が無いわ」
黒住が小さく舌打ちした音が聞こえた。そして続くように、上着の中に手を入れ、何かを取り出して私に差し出した。
「持っておけ」
拳銃だ。詳しくないから良く分からないが、ずっしりとした重みが手の平に伝わる。初めてこんなものを持ったが、とてつもなく物騒だった。今にも火薬と鉄の香りが鼻腔をついてきそうな重厚なフォルムをしている。
「いらないの?」
「武装で制圧するのは性に合わないことを思い出しただけだ」
「そう。なら預かっておくわね」
ズボンの後ろポケットに無理矢理詰め込んで、確かにそれを受け取った。
黒住は門を潜り、家の玄関に手をかけた。そこでピタリと止まると、振り返らずに言った。
「これからの行動は全て白椿菊乃のためだと誓おう。――無論、これに嘘は無い」
「確かに聞いたわ。行ってらっしゃい」
これで、一応は大丈夫だろう。黒住は扉の向こうへ消え、私は一人になった。
寂静。風の吹く音すら聞こえない。微かな耳鳴りと共に、ゆっくりとしたペースで心音が鳴っている。何か音を立てていないと、静寂に食いつぶされそうな気さえした。靴をアスファルトにぶつけて、気を紛らわす。首を曲げたりして、自分の実感を保つ。深呼吸を三回。これから起こることは想像に容易いのに、意外にも私は落ち着いていた。
――さあ来い。準備運動は整った。
「今君は、この状況は寂しいと思うかい?」
灰色が降り立った。僕の庭へようこそ、そんな呟きも聞こえた。胸糞悪いほどに美形の顔が、私の前で微笑んでいた。
「子どもじゃないんだから、この程度で寂しいなんて思わないわよ」
「君が寂しいかどうかなんて聞いてないよ。この状況のことを聞いているんだ」
「……まあ、物寂しいとは思うわ」
私は素直にそう感想を漏らす。物は沢山あるのに、何も無い。どこかの国のたとえ話みたいだった。
「でも、白椿の望みを叶えていくと、最終的にはこうなるんだよ」
まるで事情を知り尽くしているかのように、簡単にその名前を出してきた。意外では無かったが、やはり胸糞悪かった。
「笑える話だね。彼らは初めから孤立していたというのに、仲間を求めた結果、周りにはさらに誰もいなくなるんだ」
「仲間を、求めた?」
しっくり来ない言葉に思わず聞き返した。
「彼らが宗教人であるということは、彼らは他者を善い方に導こうとしているんだよ。ただ、その善いとは何を基準にしている? 彼らの中の善いだよ。自分たちの善いへ、導こうとしている。それはつまり、自分たちの元へ来て欲しいんだよ」
あまりにも悪性に満ちた世の中で、白椿は自分の思う『善い』へ人々を導こうとした。人に黒い部分を持たない奴はいない。つまり、世界には白椿にとっての更正対象、つまり敵しかいなかった。故に彼らは初めから孤立していた。味方のいない世界から、全ては始まった。
「孤立している人は大変だ。何せ誰もいないのだから、その考え方は常に独りよがり。独りであることはつまり、全行動権が自身に託されていることに他ならない。全部自由なんだよ。考えるのも自由だし、行動に移すのも自由だ。誰も止めない。誰も彼らを知らないのだから。すると、どうなるか」
「――歯止めが、利かない?」
灰田は満足そうにそれに頷いた。
「孤立すると行動に対して歯止めが利かなくなり、自分では何でも出来るんだと、勘違いを生む」
「ま、待って。でも、実際には孤立してる人は人に出来るだけ干渉しないような生き方とかをしてるんじゃないの? いじめられっ子とか、静かな子くらいしかいないでしょう?」
「まずその考えを正したほうが良い。『物理的な孤立と精神的な孤立』は大きく違えるし、いじめられっ子は単なる『逃避』でしかない。人が一般的に使う孤立は逃避なんだよ。孤立はそんな生易しいものじゃない」
今度ばかりは極論だと片付けられない。彼の言の葉はどんどん紡がれていく。
「僕は、そんな孤立のために生きる存在なんだ。類は友を呼ぶ、だが、その類が少なければ友は呼べない。だから作る。集める」
「それが、白椿家で言うところの浄化なの?」
灰田は数秒黙り込んで、静かに首を縦に振った。そして、続けてこんなことを言った。
「まあ、どうせ増えやしないけどね」
そう。今や白椿家にとって友とは死者だ。しかし死者なんて傍にいてくれるわけがない。彼らの孤立は、一生かかっても解消されない。
灰田は正面から私の横に来て、塀に背をかけた。黒住ほどではないが身長が高いために、私は自動的に見下ろされる形になる。ほんの少しだけ身を引いて、灰田との距離を開けた。
「異常者って、何なのよ」
灰田がどうしてか黙ってしまったので、私は以前から気になっていた質問をぶつけた。横目で彼を見ると、こちらを向いてニコニコと笑っていた。不覚にも悪い意味で胸がときめいてしまったので、急いで視線を外した。
「僕や、白椿のような人間を言うのさ。ある種の天才。常軌から逸してしまった思考回路。自問自答を繰り返し、『自己破壊』を行う孤独者さ」
白椿の中には殺人に対する常識が存在しない。それは、彼らが自らの中にある自分を殺してしまったからだ。世界には私のようにペルソナを被って生きる人もいれば、普通人間が持つ仮面を何一つ持たずに生まれてきた人もいる。仮面とはもう一つの自己に他ならない。それを徹底的なまでに破壊してしまう。それが異常者だった。
「黒住は……彼は異常者じゃないの?」
挙げられた名前にその名が無いことを疑問に思って、私はまた灰田に聞いた。
「立派な異常者だよ。ただ、彼は物好きなんだよ。ちょっと事情を知りすぎて、その上で僕らみたいな奴らがこの世界からいなくなればいい、そんなことを考えている純粋な悪意の塊だ」
「そう……」
ここにはいなくなった黒住は、やはりそんな存在だった。そりゃそうだ。こんな場所に来られる奴が、まともなわけがない。
私は少し落胆しながらも、それを受け入れた。
「ねえ……」
灰田を見上げる。微笑を浮かべているのは、楽しんでいるからじゃないだろう。
私は白椿さんを救いたいと思う。まるでそれは白椿家と同じ考えのようだと自分で自分を馬鹿にしたくもなってくる。人一人が人一人を救おうだなんて大それた話、どこかのヒーロー物語の中でしかない。ただ、異常者の話を聞いてやはり思う。彼女は助けを求めている。『自分を殺すこと』に躊躇を覚えているんだ。ならばそれに答え、彼女の望むようにしてやるのが優等生の仕事なんじゃないのか。
「あんた、ちょっと前に私に聞いたことがあるんじゃない?」
「何のことだい?」
知ってて聞いているのはすぐに分かった。本当にいやらしい奴だ。殴ってやりたくなる。
「私にとって、優等生とは何か、とか」
「覚えていたんだ? 予想外だね、てっきり話半分、忘れてしまっているのかと思ったよ」
「今、少しだけそれについて答えてあげても良いとか思ってるんだけど、どう思う?」
「是非拝聴したいね」
灰田は声を弾ませてそう答えた。瞬間、私は彼の舞台の上に乗った気がした。フィルムが動き始めた。まただ、今度は私が聞かせてやるって言ってるのに、私はまた彼の舞台に招待されている。でももうそれも構わない。まず、舞台役者がアドリブを利かすことが出来ることを、この馬鹿野郎に教えてやる。
「私はね、結構負けず嫌いなのよ。何事も他人に劣りたくない、自分優勢で話を進めたい、そんな欲求が強い奴なのよ」
「良く分かるよ。君はとても気丈な人だからね」
「でもね、あんたなら分かるでしょう。世界には天才がいる。どのジャンルにおいても優秀者を大きく上回る天才がいるのよ。どう足掻いたって勝てない相手がどこの舞台にも存在する。私は、それにどうやっても勝てなかった」
例えば学校の勉強。例えばスポーツ。例えば美術関連や歌。小学校の頃からそうだった。勉強は出来るのに、一番を取れない。足は速い方なのに、かけっこで一位を取れない。美術や音楽の授業では常に最高評価を取れるのに、賞は貰えない。何もかもを持っていたはずなのに、何も貰えなかった。
「悔しかったわ。でも、その頃から物分りも良かった。頑張っても追いつけない領域に手を伸ばしても無駄だってことを理解してしまった。だから私はね、全てやりきろうと思ったのよ」
「まるで、苦手科目の存在しない優等生のように、かい?」
「そうよ。だから、今ここで言ってやるわ」
私は灰田に詰め寄り、その胸倉を掴んでこちらに引寄せた。端麗な顔面が一センチ先くらいまで近づき、鼻がぶつかってしまいそうな距離。このくらい近くじゃないと、きっとこいつには届かない。
「あんたたちが異常者だろうが何だろうが私には関係ないことだわ。天才はどんなに努力をしても優等生には敵わない。それを教えてあげる」
「それは、どんな風にだい?」
「耳をかっぽじって良く聞きなさい。私は全てやり切る。黒住の好きなようにはさせないし、白椿さんも救ってみせる。――そして、こんな壊れた世界にご招待してくれたあんたを必ず殴る」
「――なら、少し急いだほうが良いんじゃないのかい?」
灰田の口元が大きく吊りあがる。あまりの不気味さに咄嗟に掴んでいた手を離して飛び退いた。灰田の黒目が私を捉える。気が狂ってしまいそうなほど歪んだ視線に、思わず拳を握り締めた。下心満載の下衆のオヤジみたいだ。その欲望に満ちた目に、私は身震いを抑えられない。
「黒住からここの門番を頼まれていたっていうのに、君ったら僕と世間話に華を咲かせちゃって。人から頼まれたことも出来ないようじゃ、優等生として失格だと思わないかい?」
「何を……」
「その話の熱中ぶりと言ったら、まるで僕と君の二人の世界を形成していたみたいだよ。ああ、恥ずかしいったらありゃしない」
「あんた、まさか……!」
急いで家の玄関に戻る。扉は開いているはず。黒住が閉めていかなかったからだ。彼の決戦の舞台へと続く廊下が、外からも見えたはずだった。
しかし、扉は固く閉ざされていた。侵入者を許さんとする本来の家の姿があった。誰が閉めた。今この場には私と灰田しかいなければ、風すらも吹いていないというのに、どうして閉まった。
家の扉を閉めるのは誰だ。家主に決まっている。幾ら本人が意識しても、家の玄関を閉めてしまうのは習性だ。なら、誰が入った。決まっているだろう。
「白椿さん……!」
どうして彼女が来たことに気付けなかったんだ。私は家の塀の前に立っていたのに。分からないはずが無い。左右上下どこから来ようが分かる。隠れて玄関の近くから出てきたとしても、この静けさだ、音で分かる。本当に私は灰田との話に熱中していたというのか。いや、違うだろう。
「待っていてくれ。僕の世界に君を迎える日は近い。願わくば、その日まで君が君でいられますように」
灰田の声を背中にして、私は白椿さんの家へと突入した。
*
そこはまるで、『こわれたにんげんの、こわれたせかい』のようだった。延々と続く血の池地獄。足の踏み場も無いほどに赤に染められた廊下は、私が一歩進むたびに水音を立てた。壁には人の悲鳴がそのまま張り付いたような血痕。これが、日常生活で見られるものとは思わない。本の世界だ。ここは本の世界なんだ。そんな現実逃避すらしたくなるような現実。血液の生臭さが鼻腔を付く。私は涙目になりながら、リビングへの扉を開けた。
「嘘……」
飛び込んできた光景に、思わず息を呑んだ。
死体。沢山の死体。腕の折れている死体。口が裂けている死体。白目を剥いている死体。真っ赤な死体。机の上、椅子の上、床に折れるように転がったり、壁に張り付くように倒れている死体。あの世界で、殺されていった女の子と同じ、真っ赤な死体。山積みにされた大量の肉体は、白椿家の異常性をそのまま表している。その前で呆けたように突っ立っている白椿さんもまた、真っ赤だった。
白椿さんがこちらを振り返る。頬に飛んだ血液が痛々しい。瞳が色を失い、精巧に作られた人形のようだった。
「先輩……来てたんですね。いなかったからどこにいるのかと思ってました」
「黒住は、黒住はどこに……」
「おっさんですか。その辺に転がってるんじゃないんですかね」
抑揚の無い声でそう言う。左右に視線を走らせて見ると、黒い服が血で染まってしまっている黒住が倒れているのを見つけた。傍にはバットが転がっている。私は白椿さんを強く睨み付けた。
「貴女がやったの?」
「そうですよ。だって、このおっさんったら馬鹿みたいにあたしを解放してくれって親に頼み込んでるんですもん。そんなこと無駄だって分かってるのに、見ていて痛々しかったので殴っちゃいました。因果ですね因果」
「黒住……」
奥歯を噛む。ちゃんと黒住は彼女のために親を説得しようとしたというのに、その当人から邪魔されるとは思ってなかっただろう。私の失態だ。彼女を家に入れることを許してしまった私の失態だ。死体に足を取られながら、私は黒住の傍まで行く。重い身体を抱き起こしてみると、意識が無いだけで死んでいるわけではないのが分かった。息をしている。良かった、と素直に安堵した。
「先輩、想像出来ますか。自分の家に帰ったら、家族の数よりも死体に溢れているって状況に出くわしたあたしの気持ちが。気持ち悪いとか、悲しいとかじゃないんですよ。もう目の前の光景があまりにも理不尽すぎて、脳味噌が潰れちゃうくらい怒りましたよ。あたしのことなんてやってる場合じゃないでしょうマジ。黒住はここに来て、まずあたしの親を殺せばよかったのに」
真後ろに白椿さんが立った音がした。ぐちゃ、という聞きなれないものだった。
「貴女のご両親は……」
「もう殺しましたよ」
「――っ。どこ、どこにいるの!」
「その辺に転がっているんじゃないんですかね」
実の親を、まるでゴミのように扱った。私は彼女の両親の顔を知らない。こんな有象無象の死体の中から探すのは不可能だ。立ち上がって、彼女の肩をがっしりと掴んだ。彼女の目は確かにこっちを見ているのに、どこか違うところを見ているように虚ろ虚ろとしていた。
「何がしたかったんでしょうね、あの人たちは。仲間が、仲間が欲しいって叫びながら周りの人を殺しに殺しまくって、それで自己満足も出来ないで、結局何を得たんですかね」
血が流れていた。多分それは涙だった。
「遅いですよ先輩……私より先に出たのに、どうして私より後に来てるんですか」
「それは……」
灰田のせいだ、なんて言い訳みたいなことを言えるのか。言えない。これは私の責任だ。
「殺しちゃいました。あたしのお母さんも、お父さんも、黒住も死にました」
坦々と述べるような言葉なのに、やけに感情的に聞こえた。そして、
「我慢、出来るわけないじゃないですか!」
白椿さんが吼える。私は蛇に睨まれたカエルのように身を縮こまらせた。彼女のどこから今のような声が出た。あの日、私に絡んできた不良が事故にあった日のことを思い出す。あの時見せたような威圧が、今私に襲い掛かってきている。
「こ、こんな状況見てっ、まともでいられるわけないじゃないですかっ! 何ですかこれは。動く殺害スプリンクラーですか? 出会った人間がひたすらに死んじゃう因果ですか? 先輩、説明してくださいよ……」
「落ち着きなさい白椿さん……」
「こんな奴に友達なんて出来るわけ無い。そう思いますよね? 誰が許してくれるんですか、こんな状況。ははっ、笑っちゃいます」
彼女に友達がいなかったのは、彼女が作れなかったからじゃない。こんな元気で良い子が友達を作れないわけが無い。彼女は作らなかったんだ。わざわざ、有り得ないと分かっている親の言うことを聞いて。確かに自分が人殺しの子どもだから、遠慮していた節はあるだろう。でも、人間はそんな強い生き物じゃない。誰とも関らずに生きていくことなんて、絶対出来ないはずだ。
白椿さんは、おかしいと分かっていても両親を信じ続けたのかもしれない。それは、それでも彼らは家族であって、自分に正しい道を示してくれるものだと信じて、運命に身を任せていたからかもしれない。しかし今、彼女の目の前に広がる光景が、崩れ去った理想に現実を押し込んできた。そして……
「先輩、ほら見てくださいよ。何も悲しくない。人を殺したからって、何も悲しくない。あたしの中には逃れられない運命があるんですよ。ねぇ、あたし、今なら先輩のことも殺せる気がします。絶対やれます」
「……私を殺すの? 本気で? 貴女が?」
「はい」
ゆらりと身を動かすと、落ちていたバットを拾い上げた。
「先輩はあたしを助けてくれるって言いました。なら、あたしを助けてください。もうこんなことで悩むのは嫌なんです。今ここで先輩を殺せば、あたしは立派な人殺しになれるんですよ」
本気だ。思考が錯乱しているのか知らないが、白椿さんの目には迷いが見られない。黒住と両親を殴ったことで何かが外れてしまったらしい。
「……やってみなさいよ」
「え?」
「やってみなさいよ。貴女が私を殺す? 馬鹿言わないで。私は優等生よ。貴女ごときが殺せる相手じゃないわ」
「……っ!」
バットを振り上げるモーション。それが振り下ろされるより早く、私は彼女の脇下に潜り込み、一気に腕を捻り上げた。白椿さんは痛みに悲鳴をあげ、バットを簡単に手放した。
「離してっ! あたしは、あたしはもう嫌なんです! こんな世界になんか生きていたくないっ。あたしは、先輩を殺して自分を殺すんです!」
それは自己殺害。どこかの誰かが言っていた、異常者の条件。
「貴女……っ」
私が何かを言おうとした時、後ろで声がした。
「人を殺し、人が殺され、人が死んで……そんな世界に、悲しみが無いのは幻想だ。それは、ただ悲しみたくない人間が作り出した幻想世界だ」
黒住が巨躯を持ち上げて、ゆっくりと立ち上がった。血みどろになった服を軽く払い、汚れたサングラスを外した。
「俺は優等生でも天才でも神でもないから分かる。本当の人間というものは、いかに自分を殺せたとしても、結局は悲しみ、後悔し、間違いを肯定し、成長していくはずだ。違えるな白椿菊乃。貴様は天才でも何でもない、ただの人間だ」
「じゃあこの状況をどう説明するんですか! あたしは確かに親を殺して……」
「俺は死んでいない」
生に満ち満ちた目で、そう言った。初めて見る黒住の瞳は、予想よりずっと綺麗だった。それに射抜かれるように白椿さんの言葉が詰まった。
「力加減を間違えたか? 痛くも痒くも無かった。ならどうだ、そこで寝ている貴様の親は本当に死んでいるのか?」
「だ、だって、あたしはバットで頭を」
「人間を舐めるな白椿菊乃。バットで殴られたくらいで、そう死なないんだよ」
黒住がのそり、とこちらに詰め寄ってくると、白椿さんの身体がぶるりと震えたのが手に伝わった。私は決して逃がさないように強く、精一杯の握力を込めて彼女を止める。
「白椿さん」
「せ、先輩まであたしをいじめるんですか。もうこれでいいんです。もういいんですってば」
私に助けてと頼んだのは貴女でしょう。今更撤回なんてさせない。
「今すぐ救急車を呼びなさい。まだ貴女は人殺しじゃない」
「嫌っ! こんな腐った親なんかいらないんですよ! このまま死んでくれたほうがあたしは良いんです。あ、あたしを助けてくれるつもりなら、このままにしてください……!」
「――私の友達が、人殺しなのは嫌なのよ」
涙で濡れた瞳が私を見上げた。重いパンチのように、彼女の気持ちが直撃する。それが零れだす瞬間、白椿さんは私の拘束を振りほどいて逃げ出した。簡単に外されてしまった私は追おうと身体を乗り出すが、ふと気付いて足を止めた。
「黒住、救急車を……」
「その必要は無い。奴らは死んだふりをしているだけだ。たかだかバットで殴られたくらいでくたばる口か。おい、いい加減起きたらどうだ。それとも無様な姿を娘に見られて動けなくなったか?」
死体の山の中から、二つの身体が起き上がる。特徴も何も無い、ただの男と女。こんなどうでもよさそうな奴らが白椿さんを苦しめていたのだと思うと、無性に腹が立ってきた。
「まさか、菊乃が私たちを殺そうとしていたとはな。予想外だった」
男のほうが頭を軽く掻きながら言った。
予想外。自分たちのことが全く分かっていないことでしか発言出来ない言葉。何をどう勘違いすれば、自分の娘が自分たちを好いていると思うのだろうか。実際目の当たりにして分かる、彼らの異常さ。これが、灰田の言う異常者であり天才? 有り得ない。こんなのはただの馬鹿でしかない。
「黒住。娘は、お前の差し金か?」
「そんな悪趣味は持ち合わせていない。むしろ、俺が貴様らを殺す上では邪魔なくらいだ」
「ふん、娘を解放しろとやたらと頼み込んできたお前の台詞には聞こえんな。どうせ、娘を盾に使って私たちを脅すつもりだったのだろう?」
「そう思うのならそう思えば良い」
毅然として黒住は答えた。首を軽く鳴らしている。バットで殴られたのは意外に効いているようだ。
「アナタが、最近菊乃が良く話している先輩ね?」
血で穢れた女が、私のほうを今始めて気付いたというように見る。
「そうなんじゃないんですか」
「余計なことをしてくれたわね。アナタ、自分が何をしたのか分かってるの?」
私が、何をしたか、分かっているだって? まるで灰田の話を聞いているように、右から左に言葉が抜けていく。意味が分からない。こいつは何故、自分のことを棚に上げているんだ。
「あの子は今まで私たちの言い付けをしっかり守って、この世の汚らしい人間共と関らないようにしてきたのに、アナタが、アナタが誑かすからあの子はおかしくなっちゃったのよ!」
ぷっ。
私は知らないうちに笑っていた。これを笑わずに何を笑えっていうんだ。可笑しい可笑しい、腹の底から笑える。ああもう、腹が立つくらいに。
「前々から思っていたのだけれど」
ポケットから拳銃を取り出し、その銃口を女に向けた。片手で支えられそうに無かったので、両手でしっかり狙うように構えた。
「日本人ほど、同じ母国語で喋ってるのに通じない種族もいないわよね」
「なっ、何を……」
男も同時にうろたえ始め、降参するように手を挙げた。滑稽だ。自分がやられそうな立場になったら、結局こうなるのか。
「貴女たちのことをおかしい人間なんて言わないわ。貴方たちには貴方たちの常識がある。私が口を出せることじゃない。そのくらいは弁えてあげる。ただね、これだけは撤回しなさい」
「な、何よ?」
「白椿さんがおかしくなったってことよ!」
引き金を引く。直後、轟音、そして閃光。予想以上の反動が腕に響き、拳銃は私の手を離れて後方へ大きく飛んだ。痺れる腕を押さえながら着弾地を探すと、狙いとは大きく外れて部屋の天井に穴を開けていた。
白椿夫妻は怯えて腰を抜かしていた。ガクガクと身を震わせて、死体の山に尻を付いていた。自分がやられて嫌なことは人にやらない。こんなの小学校で習うような常識だっていうのに、この大人は良い歳こいてそんなことも知らなかったようだ。
「無様ね本当に。まるでこの世の汚らしい人間みたいな顔をしているわよ」
飛んで行った拳銃を拾う。初めて撃ったが、こんなものは使うもんじゃない。ポケットに戻し、黒住に向き直る。
「悪かったわ。白椿さんを入れないって頼まれたのに。私がしっかりしていればこんなことにはならなかったかもしれない」
「気にするな。俺が死ななかっただけましだ。それに、貴様が白椿菊乃を入れてしまった原因も何となくだが予想がついている」
「そうなの?」
「灰田純一だろう?」
何事も無かったかのようにその名前を出したことに驚いた。なんだあいつ、なんだかんだ言って知り合いが多いじゃない。
「まあ、今回はあいつにも感謝せねばならんがな」
「感謝? 文句は言っても感謝はしないでしょう」
「そのうち分かることだ」
黒住は私に近づいていくると、ケータイを取り出して私のほうに差し出してきた。そして端で怯えている二人を指差した。
「こいつらの安否、伝えた方が良いだろう?」
「……気が利くじゃない」
私のケータイから黒住へメアドと電話番号を赤外線で送信する。
そこでふと思う。灰田はケータイなんて持っているんだろうか。持っていてもどうせ一件も登録されてないんだろうけれど。白椿さんのケータイも、もしかしたらそうだったのかもしれない。アドレス帳を見たら私以外の名前が無い。それは嬉しいような、寂しいような。黒住はどうせ百件をゆうに越えているだろう。無駄に知り合いが多そうだし、ケータイが使い古されている感じがした。
「行って来い優等生。ここは俺が処理しておく」
それに頷く。だが、行く前に一つ聞きたいことがあった。
「ねえ黒住、貴方は何故こいつらを追っていたの?」
「そうだな……色々あった気がするが、貴様に全て取られてしまったかもしれんな」
「……なんだか悪かったわね」
「ふん。さっさと行け」
その言葉に背を押されて、私はこの狂った家を出た。真っ赤な世界。ここから白椿さんを出してやるために。
何だかんだ言って、多分黒住がいなかったら私は何も出来なかったかもしれない。白椿さんとの付き合い方を考えていた私を無理矢理こちらに持ってきた彼。それがわざとなのか、ある種の因果なのかは分からない。ただ、後悔はしていないし、むしろ彼女を助けてやりたいという想いを持たせてくれた黒住には感謝したい。あいつのでかい身体と黒い風貌、そして決して嘘をつかない言動は確かなものだった。白椿さんは嫌っているみたいだったが、私は少なくとも好きになれそうだ。
さて、私は私の仕事を全うしよう。きっと彼女は迷子になっている。手を引いてやるのも、友達の仕事だろう。
*
彼女との最終舞台は、皮肉にも彼女と出会った場所だった。森野医院だ。相当探し回った。まさか××区を出て、こんなに遠くまで来ているとは思わなかったのだ。気付けば夕刻を過ぎて、日は落ちかけていた。いつかの灰田の言葉を思い出す。暁光とは常にラストに相応しいと。何故彼女がここに来たのかは分からない。電車を乗り継いで、ここまで彼女は帰ってきた。その意味を私は考えなければならないのかもしれない。
森野医院の裏には花壇がある。サナトリウムのような場所を目指しているというのは伊達じゃない。花の名前は一つも分からないが、良い香りがする。今まで私がいた場所とはまるで対極。むしろ、私がここに血の匂いを持ってきてしまったことに申し訳なさすら覚える。それは白椿さん、彼女も同じだろう。いや、彼女はここに染み付いた匂いを消しに来たのかもしれない。まるで、浄化されるようにだ。
白椿さんの小さい背中の後ろに立つ。看護士や入院者が周りにいるのに、誰も彼女に気付かない。いや、本当は気付いているのかもしれない。ただ、誰も声をかけないし、視線を向けようとしない。白椿さんからの強い拒絶。真後ろに立つ私だからこそ良く分かる。血で汚れた服や、可愛らしいポニーテールが寂しく風に揺れる。
「運命からって、どうやって逃れれば良いんでしょうかね」
白椿さんが、自分に似合わないと言っていた運命という言葉を使った。声のトーンは沈みきっていて、目の前に咲いている深い青色の花を思わせた。
「生まれた時から普通じゃないなんて、どうしようもないじゃないですか。物事の因果には原因と結果があるんですよ。なのに、運命はそんなもの無視してくる。子どもは、生まれてくる親を選べない。あたしたちは、生まれてくる世界を選べない」
「そうね。それは、私たちにはどうしようも出来ないことだわ」
「でもそんなの納得出来るわけないじゃないですか。他の人たちは楽しそうに遊んでいて、あたしは家で一人おままごと。何が異常者ですか、何が孤立した人間ですか。あたしは普通の女の子ですよ。お買い物に行ったりとか、誰かと食事に行ったりとか、そういうことをして楽しくなる、普通の女の子なんですよ」
口数が多いのは誰とも話してこなかったから。私にこれだけ依存したのは誰とも遊んで来なかったから。あの日、白椿さんが私と接触してきた時、本当に、本当にどれほどの勇気が必要だったのか、もう私の想像出来る範囲ではないだろう。彼女は、自分の運命に喧嘩を売ったのだ。狂った親から生まれて、狂った生活をしてきた彼女は、狂った運命に唾を吐いた。
「白椿さん、貴女はちょっと考えすぎなのよ」
「考えすぎ……?」
振り返らない。それでも構わない。どうせ時間の問題だ。
「肌を切れば血が出るのは因果。血が出ればかさぶたが出来て治まるのもある意味因果。ただ、人生における人との出会いの因果は、その枠内に収まらない。百や二百に枝分かれする樹みたいに、その原因からどの枝へ伸びていくのかは誰にも分からない。例えば私と貴女がこうして出会った因果。その結果に、貴女が救われる未来があったとする。それは、因果?」
「有り得ませんよ。あたしはもう人殺しなんですから」
「いいえ。そんなことはないわ。ただ、私はこれを因果とは呼びたくない。因果はもっと閉鎖的、どうやっても変えられないある種の物理現象みたいなもの。変わってしまうことがある因果なんて、存在しない」
「じゃあなんだって言うんですか」
「運命よ。貴女と私は、出会い、そして貴女は救われる運命なの」
ひっ、と途切れ途切れの泣き声が聞こえる。微かな肩の震えが視界に映る。何故、こうなるまで誰も彼女を助けてやらなかったのだろうか、なんてことは考えない。きっとこれは私にしか出来ないことだった。彼女の世界に招待されたのは、私だけだったんだから。
「運命はね、私たちが後から決めて良いものなのよ。私たち人間の都合によって簡単に書き換えられてしまう、とても脆いもの。逃げる方法なんて、星の数ほどあるわ」
「でも、でもあたしは今までっ」
「そうよ。貴女は今まで何もしてこなかった。運命という因果の鎖に縛られているだなんて変な勘違いをして、ずっとね。でも大丈夫。貴女は私に出会った。それはもしかしたら私じゃなくても良かったのかもしれない。けれど、確かに貴女は運命を上書きしたのよ」
「運命を、上書きした……?」
ついにこちらを向いてくれた。泣き腫らした顔が、柔らかな赤色でぐちゃぐちゃになっていた。私は膝を追って、白椿さんの前に座った。
「貴女は確かに、酷い親の元に生まれてきたわ。それも確かに運命よ。私たちにはどうしようも出来ない運命。ただ、それで人生一つ全部が決まってしまうわけじゃないでしょう?」
例えばその髪型。ポニーテールにするのは、親の意志とは何も関係が無い。例えばマシンガンのような口調。親の意志とは、何も関係が無い。
「酷い運命に出会ってしまったのなら、酷くない運命を手繰り寄せなさい。運命なんてものは、そこら中にごろごろ転がってるのよ」
「でもっ、あたしはその運命を殺してしまうかもしれないんです。それでも、それでも先輩はあたしにそうしろって言うんですか?」
「言うわ。実際、貴女は私をそうして手繰り寄せたのだから」
因果なんて無かった。理不尽なまでに強制力のある糸が、私を掴んだのだ。
「あたしは、その先輩を殺そうと……」
「私は死ななかったわ。それが、結果よ」
殺されるわけが無いだろう。私は優等生だ。たかだか一般人に殺されそうになるほど柔じゃない。私を殺すつもりなら、拳銃一丁くらいは持って来いってことだ。
綺麗な頬に手を寄せ、付いた血を払ってやった。
「この世界は確かに生き難いわ。誰かが苦しんでいても誰も気付かない時もあれば、どうでも良いところで誰かが助かったりもする。たまに、理不尽なまでに救いが無かったりもする。でもね、少なくともあいつらが生きてる世界よりは、可能性があるってもんよ」
「誰もいない世界、ですか?」
「そう。助けを求める相手もいない世界なんか、最初から全部狂ってる。だから、私がこっちの世界に引きずり込んでやるのよ」
「な、なんですかそれ?」
「黒住が言ってたわ。人が殺し殺される世界に、悲しみが無いのは幻想だって。貴女の両親が住んでいたのは幻想の世界よ。まぁ、もうそこにはいないかもしれないけどね」
「あたしの親は……」
「最後、酷い顔をしていたわ。あの人たちの言う、醜い人間みたいだった」
信じられないのか、白椿さんの表情は浮かない。
今納得する必要は無い。いつか彼女がもう一度両親と向き合えるとき、それまでに知っていれば良いことだ。
「自分のことは、自分にしか変えられない。私たちはそのきっかけを与えてやるとか、貴女が変わろうとするのを手助けするだけ」
それはまるで灰田の言う『自己殺害』と同じように。自分のことを生かすも殺すも、全部自分で決めなければならない。ただ、異常者と呼ばれる不幸な奴らは、他の人よりちょっとだけ手助けが少なかった。だから私はその隙間を埋めるようにちょっとだけ手を貸してやる。それだけの話だ。
「先輩、あたしは、変わったんでしょうか」
「貴女は助けを呼べた。それは、今までと違うことでしょう? 私や黒住みたいな、微妙な外れクジを引いたみたいだけどね。でも――」
白椿さんの手を取った。彼女の手はどうすればいいのか分からないように私の手の上を彷徨う。私はそれをしっかり取ってやり、きちんと手を繋いでやった。
「白椿さん」
「何ですか?」
「私を選んでくれてありがとう。貴女と友達になれて、良かったわ」
本心でそう思う。それはもしかしたら私の自己満足かもしれない。彼女を助けられたという、ある種のエゴかもしれない。ただ、私は確かに今まで感じたことの無い感情を得ていた。誰かに必要とされた。他の誰かではなく、私が彼女の一番に選ばれた。それが嬉しかった。だから私は、こんなに必死になったのかもしれない。もしかしたら、私の友達も、彼女が初めてだったかもしれなかった。
「……う、うぅぅぅぅぅぅ!」
突然、白椿さんの瞼から大粒の涙がぼろぼろ零れ落ちた。私は慌てて彼女の肩を抱く。何? 私が何かしただろうか。彼女にかける言葉を間違えたかと思って、柄にも無く頭の中がごっちゃになった。
「え、ちょっと、何で泣くのよ?」
「ううぅぅ、ふぇ、あ、あれですよ。ほんと、なんていうか」
「な、何よ……?」
「――因果ですよ、因果」
無理矢理作った笑顔。鼻水とか涙とか、色々なものでちょっと見るに耐えなかった。けれど……。
それがあまりにも綺麗で、不覚にももらい泣きしそうになったのは秘密である。
*
後日談だが、あの殺人事件は何故か闇の奥に葬り去られていた。なにやら灰田の作った世界がどうのこうのと黒住が言っていたが、良く覚えていない。ただ、白椿さんの両親が起こした事件はしっかりと裁かれ、彼らは牢獄へと移住することになった。あの規模の殺人事件だ、死刑を宣告されても文句は言えない。とりあえず勾留されているが、判決など目に見えている。白椿さんは、黒住の知り合いが預かることになったらしい。どんな知り合いかは聞かされていないが、その後の白椿さんの話によれば、とても良い人たちらしい。ただし、風貌は何とかかんとか。
黒住はあの事件の後、私に一度だけ白椿さんの両親のことを電話してきて、それ以来全く姿を見ていない。その時の電話曰く、「二ヶ月ほど音信普通になる」とのことだったが、本当に一ヶ月以上連絡が無い。電話をかけても電源が入ってないと通知されるので、何か仕事をしているのだろうと決め付けて諦めた。
初めは学校を休んでいた白椿さんも一ヶ月もすればきちんと戻ってきた。学校で彼女の元気な声を聞いたとき、なんて強い子だと思った。きっと色々と我慢しているだろう。ただ、それを全く見せない。わざわざ穿り出そうとも思わないので、私はそのままの彼女を受け入れて、学校生活を謳歌していた。
「委員長ー!」
クラスのドア側のほうから男子生徒の声がした。委員長というのは私のことだ。昼ごはんを同席していた友人たちが行ってらっしゃいと私を催促した。ドア側にいる男子生徒に用件を聞くと、廊下で誰かが私を呼んだらしい。ニヤニヤとしながらそう言う様が気持ち悪くて思わず引いた顔をしてしまったかもしれない。
「で、誰が呼んでるって?」
「ああ、灰田って奴が呼んでる」
「……そう」
どうやら、ついに彼からの出演要請が来たようだ。