3話
枕の下に本を入れた覚えは無かった。しかし、皮肉にも本日瞼の裏に写っているのは『これわれたにんげんの、こわれたせかい』第二章。不可解な鮮血世界から景色は一転し、モノクロが埋め尽くす白と黒の世界。昔のテレビみたいな映像が視界に広がる。やけに鮮明に見えていることから、電波は良好なようだった。
相変わらず世界には何も無い。死ぬことを繰り返していた少女だけがそこに佇み、確かな色を持っていた。肌色、ほんのりと申し訳程度にピンク、瞳の鮮やかな白黒。きっとほかにも彼女を構成する色はあるのだろうけれど、私が夢の中で持つ肉眼では、せいぜいその程度だった。
女の子はその空間から、それぞれ白色の人形と、黒色の人形を作り出した。粘土を捏ねるようにして形を整え、やがて満足したように目の前に置いた。その出来は異常とも呼べるほど精巧で、一見して普通の人間と何ら見間違いが無い。製作の工程をほぼぶっ飛ばしたようにも思える。作ったというより、生まれたという表現が正しい工程だった。
白色の人形にはドレスのようなものを着せた。何色かは分からないが、きっと白か黒だろう。花嫁のような姿に変身した人形。嬉しそうに頬を染めることこそは無いが、その姿は何だか様になっている。
黒色の人形にはタキシードを着せた。造られた肉体美の上にきっちりと着込んだタキシードが、より一層男らしさを感じさせる。さながら花嫁を守るナイトといったところか。
二つの人形、そして女の子は互いに手を取り合った。三つで円を作るように手を握り、まるでそれ以外の全てを拒絶しているようにも見える。外から見ている私には、もう彼女らの表情は窺い知ることが出来なくなった。
しかし、微かだが話し声は聞こえる。お父さんだとか、お母さんだとか。おままごとでもしているようだ。死ぬことに飽きた女の子は次いでおままごとを始めたらしい。白の人形がお母さん、黒の人形がお父さん、そして自身は娘、きっとそんな設定だろう。一見すれば微笑ましい光景だが、私から見ればただの狂気でしかない。
人形を相手に笑っている女の子。それも、本当に楽しそうに笑う。自分は目の前の人形から生まれた本当の子どもだとでも言いたいのか、その姿が実に様になっている。そんなわけないのに、やけに型に嵌っているのだ。彼女は人形の子ども。その人形は彼女が生み出したというのにだ。まるで神。神が世界を創生したくせに、人は神を想像した。そんなあってないような矛盾がそこにある。
いつまでも終わらないおままごと。何をしているのかは知ることが出来ない。料理をしているのかもしれない。ゲームをしているのかもしれない。
ただ分かることは、このおままごとには、終わりが見えない。それだけだった。
*
茜色の時間。鞄に本を詰めた私は教室に一人。窓の外からは部活動に励む生徒の声が聞こえてくる。普通授業を終えて、放課後の時間を読書で楽しんでいた私は、外からの光がオレンジ色に染まってきたところで帰る仕度を始めていた。
いついかなる時でも優等生を気取っておきたい私にとって、部活動に所属しないのは矛盾が発生してそうだと思うだろう。だが、元より何か一つのことに固執することはそれこそオールラウンダーたる優等生の意思に反する。私は常に全てのジャンルにおいて平均値以上の結果を出せれば、特別何かが長けている必要は無いのだ。部活動なんかに打ち込んでしまえば勉強は少し疎かになるだろうし、日常の時間を失うことも私にとっては痛手になりかねない。スポーツも文化系も、趣味程度で良い。
風邪も先日しっかり休養したおかげか、ほぼ完治していた。油断は出来ないが、もうぶり返すようなことはないだろう。今日はそういうわけで、先日の埋め合わせのために白椿さんと待ち合わせをしていた。一学年と二学年は授業終了時刻が微妙にずれているので、教室で時間を潰していた次第だ。別にそんなことをしなくていいと断ったのだが、何度も頼み込んでくるその姿勢に三顧の礼も脱帽、私は彼女にとってとんでもない特待生のようだった。故に無碍に断るのもどうかと、結局その場に流された私である。
鞄に教科書類を詰め込み、白椿さんを待つ。既に窓の外は夕暮れ色に染まり、見ている人を憂鬱な気分にさせてくれる。これが一種の黄昏というやつであろう。ほどよく光沢の塗られた卓上が暁光を反射させて、自分が恋愛ドラマのヒロインにでもなったような錯覚を覚えた。
「ああそうだね、夕焼けをバックにするのはいつだって感動の一シーンだ。けれどもそれは物語の中の話であって、そんなロマンチックな状況を作り出す人間なんて滅多にいやしない。暁光は常にラストに相応しいが、現状を見ればそれはまだあまりに早い」
そんな私をやけに透き通った声が迎えてくれた。
どうせそんなことだろうと、私は思っていた。
夕日をバックにして現れるのは白椿さんだったはずなのに、そこの机に腰掛けていたのは灰田純一だった。場違いな灰色の髪の毛が夕日に照らされて、妖しい色をかもしだしていた。当然のことであるが、私は彼の姿を見て激しい嫌悪感を覚える。この出所不明の感情は何なのだろうと毎度のように思う。吐き気などないのに、腐った空気が肺に溜まっているような不快感を身体の中に感じる。
「このままあんたに会えなければどれほど良い一日だったか。彼女を恨みたいわ」
思わずため息が出る。白椿さんを恨んでもどうしようもないことだが、灰田に怒りをぶつけたところでもっとどうしようもない。
「うん? 彼女とは誰のことだい?」
「後輩の子よ……って、何であんたにそんなこと言わなきゃいけないのよ」
「や、年下に少し興味があるだけさ。気にしないで詳細を話してくれ」
「意味が分からないわね……。ほら、あんたも見なかった? 先週の金曜日、購買部の前にいた子よ」
灰田がわざとらしく手を叩く。
「ああ、うん、思い出した。さらに言うならば、放課後僕らの後をつけていた子だね」
「気付いていたの? 知ってたなら教えなさいよ、相変わらずいやらしいわね」
「別に僕は気にならなかったからね。まあ、視線は良いものじゃあなかったけれど。で、その子と待ち合わせでもしているのかい?」
「そうよ。悪い?」
「ふぅん。珍しいね、君が他人のために自分の時間を使うなんて。いや、これは僕が持った先入観なのかもしれないけど」
こいつは私の何を知って語っているのか。まるで私が自己中心的な人間みたいじゃないか。
「失礼ね……まあどうでもいいけど。そうね、私も会って三日足らずな後輩のために行動しているなんて信じられないけれど……なんていうのかしら、あの子はどういう風に見ても嫌な感じがしないのよ。引っ張られるというかなんというか、付き合って得があるかどうかは分からないけれど、間違いなく損はしないだろうって気になるわ。そういう損得無しにしても可愛い子だしね」
「ほう。『君が自分を蔑ろにしてまで付き合っても良い子』か。興味が出てきたよ」
「蔑ろとは何よ。まるで私があの子のために自分をダメにしてるみたいじゃない」
「決して間違いではないだろう?」
言われて考える。
確かに、白椿さんが今日の放課後に私を誘ったのはほんの少し前のことだ。私はそれが無ければ家に帰って予習でもしていたはず。この予定が狂ったことによって人生が変わったりしないが、私は現にこうして会うはずのなかった灰田と会話している。何かが変わったことは否定できない。
「些細な問題でしょう。私だって自分の立てたスケジュール通りに動かないといけない機械人間じゃないわ。人間には大切な融通ってものがあるでしょう」
「そうだね、臨機応変に行かなきゃならないね」
「そういうわけだから、あんたはさっさと出て行ってくれない? もうすぐ彼女が来るだろうし、正直あんたとあの子を会わせたくないのよ」
すると灰田は不思議そうに微笑み、居座る気満々で机に腰掛けた。灰色の髪がどこからか吹いてきた見知らぬ風に揺れていた。
「名前だけでも教えてくれても良いじゃないか。友の友は友、敵の味方は敵さ。知っておきたい」
敵の味方は敵、全くもってその通りだ。前者はどうか知らないが。
私はそれで帰ってくれるなら、とその名前を口にした。
「白椿菊乃さん。元気な子よ」
「――ほう」
瞬間、私は激しい後悔に駆られる。灰田が醜悪に表情を歪めたからだ。その事象が滑稽で滑稽で仕方が無く、面白い玩具を見つけて、更にはそれをどう悪戯に活用してやろうかと考える。クズだ。こいつは正真正銘のクズだ。
夕焼けの世界に一人の道化が降り立った。私はそれを看過することが出来ない。灰田が言葉を発するまで、私は腹の底で衝動に耐えていた。
「……君は、黒住という奴に出会わなかったかい?」
「――な」
何故、という言葉が飲み込まれる。その様子を悟ってか、灰田は今度こそ最悪の笑みを浮かべた。自然と奥歯に力が入り、鼓動が荒くなる。何故こうもこいつは簡単に私を乱してくるんだ。自分という存在をくすぐられているような気がして、酷く気色悪い。
「音楽家……」
その笑みを浮かべたまま、突然灰田はそう呟くように言った。
「ある一人の音楽家がいたとしよう。ある日、彼は音楽に対して一切の興味を失ってしまった。彼はそのことに疑問を抱いた。自分はこんなんじゃなかった、もっと出来る人間だったはずだと。でも、この疑問はあまりにおかしいことだと思わないかい?」
「また訳の分からない話を……」
「そう。彼は音楽家でありながら音楽家である自分に疑問を持ったんだ。彼が本当に音楽家なら、そんな疑問は持たないはずなのに、彼は分からなくなった。苦悩したんだ」
質問してきたはずなのに、私の答えなど聞くも毛頭も無さそうに続ける。私も諦めて黙って耳を傾けた。
「これに哲学的思考は必要ない。もっと単純な答えが用意されているんだよ」
分かる。
「――スランプ、ね」
灰田は満足そうに頷いた。
「その通り。音楽家だろうがスポーツ選手だろうが画家だろうが、スペシャリストには誰にも訪れる壁。彼はそのことを理解していたはずなのに、自分が音楽を出来ないことに疑問を持った。これは、異常だ」
その瞬間から彼は音楽家を止めた事になる。完全な自己否定だ。
「だから、彼は音楽家じゃなかった。音楽家なら分かることが彼にはわからなかったんだ。ほかの何かだったのさ。そうして嘘の自分を壊して、彼は世界の外へと飛び出す。地獄か天国かは分からない。ただ、彼にとって真の世界であることには間違いがないだろう」
何の話をしているのかは良く分からない。ただ、前よりは耳に響く。
軽い頭痛を感じながら、私は灰田に言った。
「それと……今までの話が何の関係があるのよ」
「『異常者』だよ。異常者は、みんなこういう思考を取る。何故なら彼らは自己というものが酷く薄く、そして局地的にどぎつい色で塗られている。人間の本質をパラダイムシフトする、ある種の天才だ」
「だから何なのよ……また自分が天才で、どっかの世界の神だってことを強調したいの?」
「さぁね。それくらい、自分で見つけたほうが楽しいんじゃないか?」
「殴るわよあんた」
ここまで意味の分からないことを語っておきながら、真相は私任せらしい。
「僕は君が知っての通りいやらしい人間だからね。ギャルとかが嫌いそうな遠まわしな表現しかしない。短気な女の子がいたら殴られてるかもしれないくらいにね」
「納得するわ。私が短気じゃなくて良かったわね」
「当然君がそんな人物じゃないと知っているからこんな嫌な人間に僕はなっているんだけどね。クイズは嫌いかい?」
私はそれに対して首を横に振った。否定の意であるが、クイズは嫌いじゃないという肯定の意でもある。
「なら良い。今の会話は全て問題文だとしよう。答えの指定が無い、ね」
「嫌な話ね。一足す一が問題で、イコールが無ければそれを足して二にしていいのか分からないって感じかしら」
「そうだね。まあその場合の問題文には大抵イコールの記号はついていないと思うけど」
思い出してみればそうだったかもしれない。
彼はにっこりと、今度は優しげな微笑を返して言う。
「また来るよ。君と話をするのは楽しい。僕にとって最高の時間だ」
「私にとっては惰眠の次くらいに無駄な時間だけどね」
灰田は身を翻して教室のドアへと歩を進める。そして、最後に予想通り振り返る。
暁光の世界にただ一人、灰色の髪の毛を持った男がいた。名前を灰田純一。背が高くて、言動の全てが私の感情をかき乱し、全ての言語が理解不能。綺麗な彼と汚い彼と、まるで白と黒を混ぜ合わせたような色の人物。
――だが違えてはならない。たとえ定義が『白と黒の混ざった色』だとしても、だからどうしたというのだろうか。『灰色』は『灰色』でしかないということ。
「また明日、会えると良いね」
足音遠く、彼は去って行った。
*
状況は最悪を極めて極悪だった。
どうでも良い話であるが、最も悪いを超えるのが極めて悪いというのもおかしな話である。
説明をすれば、灰田純一と別れて数分もしないで白椿さんは教室に現れ、そしてそのまま二日連続のハンバーガーとしゃれ込んでいた。昨日は朝に行ったのでそれほどでもなかったが、夜中は客も多く、窓から見える夜景は闇に光が沈んでいるようで、なんとも美麗なものである。自然のものが最も美しいと日本人は間違いなく感じているのだろうけれど、人工物も馬鹿に出来たものではないと思う。実際にクリスマスツリーなどは完璧に人工物であるが、あれも金をかければ大自然に匹敵するような感嘆の声を上げさせることも可能だろう。勿論、それと今の夜景を比べるには程度が相当低いが。
そんなものもあいまって、更には異分子がここに存在していた。
女子高生二人に囲まれて、真っ黒な服を着た男が一人。場違いにもほどがある。
「いやなんだ、俺もこういうハーレム状態に興味が無いわけではない。無論これに嘘は無いが、主に行動は悪意で出来ている」
「結局嫌がらせなんじゃないですか」
「ふむ。言われてみればそうとも言うな」
「そうとしか言いませんから」
黒住に白椿さんが毒づいた。ジュースを啜りながら明らかに嫌そうな顔をしている。どう考えても黒住の思惑通りとしか言えない状況であった。
店に到着したはいいが、一体どういう縁あってか、サングラスと黒のニット帽を被った、まさに昨日とほとんど変わらない服装の黒住儀軋と出くわした。彼は偶然立ち寄ったと言っているが、彼の素性からして悪意で動いていたに違いない。つまるところ、嫌がらせに近い。
話を聞いていてわかったことがある。黒住は昨日、白椿さんのことを一方的に知っていると言ったが、それは白椿さんの両親と面識があったかららしい。それを追っていた黒住が、この店で見知った顔に声をかけてみた、という経路だった。両親の話をされると終始表情を濁す白椿さんであったが、恐らく家庭の事情の問題であまり深く関って欲しくないのだろうと思う。黒住もそれを察してか、途中からその手の話題は持ちかけていない。
時計を見た。現在時刻、七時半過ぎ。どうやら学校を出てからここに来て一時間は暇を潰したらしい。その成果は何も実っていないがたまにはこんな蛇足な時間も良いだろう。ファミリーレストランだったら途中退場を食らってもおかしくはないだが、ファストフード店というものは店員が店内をうろつかない為にそういったことが無いらしい。学生が勉強するにもってこいの場所だとは聞いていたが、そういった理由からなのかもしれない。
ジャンクフード特有のなんともいえない臭いと、黒住の注文したコーヒーの香りが混ざり合って、ここに煙草の臭さが加わったら嘔吐感を催しかねない臭いが鼻につく。その中でも依然として二人は不毛な会話を続けていた。
「大体何を血迷ったら二日連続で、しかも二度目が夕食でこんなとこに来ようと思うんですか。ていうかコーヒーしか頼んでないじゃないですか。ジャンクを食べましょうよジャンクを。ところで先輩、ジャンクって考えてみればゴミじゃないですか。こんなに手軽で美味しいハンバーガーをジャンクと呼ぶのにはあたし少し意見の相違が発生するんですけど、どう思います?」
「……私に聞かないで。栄養的にはゴミみたいなものなんだから、別に表現としては間違ってないでしょ」
ふむ、と何に納得したのか、白椿さんは視線をハンバーガーに落としてなにやら考え込む。と、そこで黒住のほうが横槍を入れてきた。
「しかし、外国のジャンクフードは本当にゴミのようだったぞ。構成こそ変わらないが、日本のものよりもカロリーが数倍以上も高い。だが、パン、つまり炭水化物、肉、つまりエネルギー、レタス、つまりビタミンや繊維、量の比率に差はあれど、バランス的にはそこまで悪くないと思うのは俺だけか」
「そういう貴方みたいな考え方をする人がいるから、そういう構成にしてるんでしょ。実際にどうかは知らないし、とりあえず私に聞かないで」
「ふん、ゴミですら気を使う時代か。下らないものになったものだ」
「下らないのはこの会話の方よ。白椿さんじゃないけれど、貴方本当に何をしに来たの?」
「問いに答える前に言うが、会話自体は下らなくは無い。日常の会話とはコミニュケーションを取るに置いて最重要な努力だ。会話の放棄は相手にも雰囲気にも悪い。無駄なことに興味を持つことは若者に必要な事だ。『死や生』について思考するのが思春期というが、それも束の間の出来事。可能性の出来事や、当面の問題でない出来事に興味を示さないのは愚人のやることだ」
随分と真っ当なことを言うものだから、思わず言葉を失ってしまった。白椿さんはもはや会話することに飽きたのか、食にかぶりついている。相変わらず食欲旺盛らしい。
「調子に乗るが、物事に興味を無くすということは、人間的な死に限りなく近い。人間の世界に娯楽というエンターテインメントが生まれたのは、まさに人が生きるための糧を供給したと言っても過言ではない。俺たちは何かを蹴落としても、楽しさを覚えるための努力をしなければならない。それを忘れた人間は、そうだな、『自我が崩壊している』と言っても良いだろう。精神論ではない、単純に自分を失っているという意味合いでだ」
「自我が崩壊している、ね。まあ随分言ってくれたようで悪いけど、私もそこまで言うほど物事に無関心な人間じゃないわ。それに私は貴方が何故ここにいるのかに興味がある、優先順位の問題よ」
「ふん、俺がここにいる理由か。下らない、それこそ本当に下らない。これは偶然だ、何ら因果の無い事象だ」
「それにしてはあまりに出来すぎているような気がするけれどね……」
クラスメイトでもない人物と連日出くわすという確率は限りなく低い。それも同じ場所でだ。加えて相手が黒住なだけに、疑心を抱かざるを得ない。
と、そこに白椿さんがジュースをすする音と共に口を挟んできた。
「何ら因果の無い、ですかぁ。それは危険ですよ、おじさん」
「おじ…………ふん、どうでもいい。何が危険だというのだ」
黒住の反応に満足したのか、彼女はジュースを置いて、口元を少し吊り上げた。
「因果が適応されない物事ってのはですね、全てが『運命』なんですよ。ねぇ、この言葉って物凄い綺麗に聞こえますけど、反面かなり危ない感じがしません? 怖いじゃないですか、今まで全く関係してこなかった赤の他人が、ある瞬間を境に自分の人生の一つのピースになるんですよ。つまり、あたしたちとおじさんがここで二度目の出会いを果たしたことによって、何かが起きるんですよ。それが何なのかは知りませんけど、こうしてあたしがこんな訳の分からない話をしている時点で、当初の目的と違ってきてるんですから」
確かに、黒住が現れなければこのような会話はありえなかったし、もっと静かに、いや騒がしく過ごせていたはずである。これはある意味黒住に向けての皮肉でもあるのだろう。
「ですけどね、あたしはこう考えているんですよ。いやホントませませさんでごめんなさい。あたしだってこんな論理的人間になんかなりたくなかったんですけどね、家が家なだけに、因果ですよ因果。ま、言うなれば、『おじさんと再開したことは、一度目に出会ってしまったことが原因』なんですよ。――ねぇ、そうでしょう、『黒住』さん」
ぐっ、と私の喉が詰まった。
これは、見たことがある。昨日、私が吐き気を催した時と同じ瞳だ。相手の首を絞めるような無言の圧殺。三人称を変えたのは、もはやその二次産物でしかない。
その瞬間、私は自分の周りが果てしなく狂っていると思った。いや、気付いた。
白椿さんも……普通じゃ無い?
因果マシンガンが見せる表情は時折人間のそれとは異なる。似て非なるものだが、灰田のそれに似ている。疑心の種に水が撒かれている。
黒住においては言うことはないし、灰田など思考することすら無駄に等しい。私の目の前にいるこいつらは、一体何なのだろうか。
黒住は腕を組んだままどっしりと構え、白椿さんを見返した。
「それは俺の答えられる問いではない。俺の発言には一切の嘘は無く、故に悪意で出来ている。ここにいるのは紛れも無い偶然であるが、そうだな、貴様の言うとおり、『そう定められていたと知っていたから、ここにいる』という見解も決して外れではないのかもしれない。これは予知ではない、どこでどう動いていようが、『結局は俺と貴様は出くわす運命』だったと、そう言いたいのだろう?」
その言葉を聞いた白椿さんは、がっくりとわざとらしく肩を落としてため息を吐く。瞬間、私の肩の荷も、どさっと音を立てて落ちたように思える。
「やっぱ嫌がらせなんじゃないですか。……仕方ないですね、もう起こってしまったことはもはや水に流せないので、今日の夕食代金全部おじさんの奢りで許しますよ。因果ですよ因果」
「なら少しは自重しろ。一体いくつ目だ、そのハンバーガー」
「まだ序の口ですよ。あと十個は胃袋に入れて帰ります。や、無理だと思いますけどね、流石に」
そう言うと、完全に食べきったトレイを戻して再びカウンターへと歩いていった。
そのタイミングを見計らったように、黒住が机に開いたスペースに肘を置いて、こちらを向いた。
「白椿菊乃とはどういう経路で知り合った」
「彼女とはたまたま学校の購買部で出くわして、何か物欲しそうに右往左往していたところを奢ってあげたのよ。その恩かどうか知らないけど、なんだか気に入られたみたい」
最近は連日メールが鳴り止まない。私が予習で忙しいことなんて頭の片隅にも無いんだろう。迷惑はしていないが、メールが途切れない相手というのも珍しく感じる。
「珍しいこともあるものだ。俺も白椿の家とは長い付き合いがあるが、彼女の家はまさに天涯孤独と言えるような仕事をしているために、友人というのはただの一人たりとも見たことが無かったものでな」
「……一人も?」
私はその誇大とも言える表現の仕方に首をかしげた。
「そう、ただの一人もだ。そもそも彼女の両親が夫婦でしか動かないのでな、社会というものに順応した例がない」
「そ、そんなことってあるの? 幾らなんでも、小さい頃の、ほら小学校とかで知り合った人とか沢山いるでしょう?」
「いない。彼女は確かに他の人間と変わらず人生を送ってきてはいるが、圧倒的に『他の人物』が欠損している」
「でも待って。そうして学校に通っていたら、嫌でも他人と関りを持つようになるでしょう? そんなことは不可能じゃない?」
「何、友人の一人も作らず学校生活を過ごす程度、不可能なことでは無いだろう。それに、貴様もこの話を聞いてなんとなく勘付いているんじゃないのか。たった一人、偶然購買部で出会った、今まで接点の欠片も無かった人間に、これだけ依存している。彼女の中には、『もしかしたら』が存在しているのだろうな」
もしかしたら、私と友達になれるかもしれない、そういうことなのだろうか。
「……だとしたら、彼女は友達が欲しいんでしょう。だったらどうして今まで……」
「それは家庭の事情に絡む」
「両親ね。一体何の仕事をしているの?」
その問いに黒住は言いよどむわけでもなく口を閉ざす。それ以上はプライバシーに関るからだろうか、雰囲気から答えてくれる気は無いと私は悟った。
黒住の言うことに嘘は無い。これは彼の信条云々関係が無くそう思う。ただ、あれだけ気さくな彼女が友人の一人もいないというのは常識的に考えづらいものがある。物語の中の王女様だって、もう少し友人が多いはずだ。一体どういうことなんだろう。
ただ、そんな彼女が――友人を作ることをどうしてか許されていない彼女が――私の家に来て、一緒に食事を取らないかと誘った。一体そこにどんな想いがあったのかは分からない。ただ、それは恐ろしいほどの罪悪感と勇気に満ちていたのではないだろうか。どんな規制があったのかは察せ無いが、親の意志に反した事になるはずだ。それも、十五年も守ってきたものを。
その対象となった私はどういう風にして彼女と接することが最善なのだろうか。彼女の家のことを考えてあえて突き放すのも手ではあるけど、それではあまりに不憫に思える。だからといってこのまま付き合うというのは危険な気がした。そういう意味でも、黒住の語らない彼女の両親の職業が気になって仕方が無い。
「俺は刑事をしている」
黒住が唐突に口を開いた。私は思考を一旦中断して、彼のほうを見据える。未だ半分は残っているだろうコーヒーを啜っていた。
「言うまでも無いと思うが、公務員ではない。完全に私企業の方だ。所謂『何でも屋』、『自由業』、『便利屋』といったところか。まあそうは言っても一般人から金を貰って依頼を受けるわけではない。自分が選択して色々とする、そんな感じだ」
それは一見してフリーターとか、そういうもののように思えたが、黒住の指すところは恐らく違うのだろう。
「しかし、俺は生まれてこの方、刑事以外をしたことがない。それは何故か分かるか?」
ゆっくりと思考を巡らす。そして出た答えは単純なものだった。
「ずっと……追い続けてる人がいる」
ことん、とコーヒーのカップが机に置かれる音が響く。正解のチャイムのつもりなのだろうか。
「頭の良い人間は理解が早くて助かるな。ただし、それだけでは『刑事』と名乗る必要は無い」
彼の言わんとするところは理解できる。ただ人を追うだけなら、それに順応する職を肩書きにする必要は無い。ならどうして刑事と名乗る必要があるのか。
そうだ、つまり、彼の職業には職業としての意味がある。
酷く面白い結論だった。思わず頬がゆっくりと笑みの形を作っているのが自分でも分かる。
「――貴方は、正義を振りかざす悪意なのね」
私の不可解な笑みに釣られてか、彼もサングラスに良く似合う微笑を返した。
「悪意とは常に自分以外の気に食わない人間に向かって向けられるものだ。そこには同族意識は発生しない。故に、『悪意とは悪意に向けられるもの』であるパターンが多い。つまり、俺が追っている人間がどのような人物なのか」
「そう、まるで貴方みたいな人間ということね」
間髪いれずにそう言う。が、それが的を射てなかったのか、黒住は酷く不快そうな顔をして首を横に振る。
「それは良い過ぎだ。奴らと俺はまるで違う。例えば天才というジャンルに属する人間がいたとして、スポーツの天才と文学の天才ではまるで話が違う。加えて俺は天才でも何でもないのだから、そもそも生きている世界が違う」
天才。
そのワードに敏感に反応してしまう私がいた。灰田の話をふいに思い出し、そのせいか私の意志とは無関係に、黒住にこう訊いていた。
「ねえ、天才って、どういうものだと思う?」
「――異常者の別名だ」
凍りついた。比喩じゃなく、凍りついた。
黒住は、灰田と同じ事を語ろうとしていることに気付いた。止めさせないといけない。その理論は気持ちの悪いクズだけが使うものだ。
「社会不適合者。この世界のどこにも居場所の無い、異常者の別名だ」
「それが……貴方にとっての天才?」
「そうだ。天才とは才に恵まれた人間のことを言うのではない。才を与えられたがために、人の世界で生きていくことに満足出来なくなった馬鹿のことを言う」
人間の本質をパラダイムシフトしたがために、満足出来なくなった。
途端に黒住の巨躯が酷く恐ろしいものに思えてきた。こいつは何を知っている。白椿さんの事情どころの騒ぎじゃない。私を取り巻くものの真相を知っている。私が巻き込まれている渦を作っている人物を、そのサングラスの向こう側から見極めている。
言葉を発しようとしているのに、私の口からは虚しく空気が漏れるだけだった。言いたいことは沢山あるのに、何かに威圧されてものが言えない。
「お待たせしましたーってあれ、どうしたんですか先輩、顔が青いですよ? もしかしてこのおっさんに何か言われたんですか?」
「だ、大丈夫よ。コーヒーの香りが少しきつかっただけ」
ようやく出た声は意外にもすっと出てきた。溜めていたものが吐き出されて、少しだけ楽になる。
「それは初耳だ。ならば俺はこの辺りで仕事に戻るとしよう。貴様が苦しんでいる姿を肴にしながらコーヒーを飲み続けるほど悪趣味でもないからな」
黒住が逃げる。追わなければならないのに、身体が全く言うことを聞かない。いや、正確には脳かもしれない。追おうとすら思っていない。
「白椿とせいぜい仲良くしてやれ。決して道を踏み外さない程度にな」
「おじさん、あんた、先輩と何を話していたんですか」
白椿さんが憤怒の形相で黒住の黒服を掴んだ。
「俺の仕事を語ってやっただけだ」
「ならどうしてあたしの名前が出てくるんですか。関係ないでしょう?」
「――それは、本気で言っているのか?」
「……っ」
飛び跳ねるようにして黒住から離れる。掴まれた部分を黒住は整えて、私を一瞥、特に何も伝える気も無いらしく、そのまま身を翻していった。
「先輩、あたしたちも帰りましょう。雰囲気を害しました」
「ついでに気分も害したみたいね。まあいいわ、追加注文したものはどうするの?」
「持ち帰って夜食にでも」
「太るわよ?」
「因果ですね」
その抑揚の無い声が、酷く寂しく感じた。
*
一つ足音が増えて、一つ消える。
耳を澄ませば数多に聞こえてくる足音を、そのようにロマンチックに聞くことは不可能だ。都会の夜は深い。吸い込まれるような大自然の深さとは違う、飲み込まれるような深さ、それが都会の夜の風景だ。煌びやかな装飾が絶えず闇を照らし、人の賑わう声が静寂を決定的に妨げる。私はそんな空気が嫌いではない。大勢の中にいると、自分が孤独に感じないからだ。逆に大人数いるからこそ孤独を感じる人間もいるだろうが、私にとってはそんなもの贅沢だと思う。人の中にいるんだから、もっと直接的に捉えて良いはずだ。
しかしそんな中、ただ一人だけ孤立した人間がいた。
先ほどからいつもの元気はどこへ行ったのか、仏頂面で私の隣を歩く白椿さん。その表情は無に近い。
先ほど黒住に聞いた話を思い出す。
白椿さんの家庭事情、友人を作れない状況と、そうなった原因である両親の仕事。まだ見えていない部分は多いが、やはり彼女も普通の人間でないことは確かなようだった。しかし、そこまで白椿さんの事情を把握している黒住のことを、白椿さんが知らないのはどうにも腑に落ちない。親だけの付き合いということで納得はしているが、黒住はその娘、彼女を確実に見たことがあるはずである。それが遥か昔の出来事であって、白椿さんが忘れているというのならばそれもありなのだろうが、それならば逆もまた然り、黒住が成長した彼女を覚えているというのもおかしな話である。
横を歩く彼女を盗み見る。高校生で順当な顔立ち、薄く化粧ものっており、髪の毛は後ろにひとつに纏められている。傍から見ればどこにでもいそうな少女だ。そんな少女がこれだけの事情を抱え込んでいることに、私はどうしてか……。
――ドンッ。
誰かと私の肩がぶつかった。そのまま無視して歩こうとしたが、後ろから肩を掴まれる。
「おいおいネーチャン、人にぶつかっておいて謝りもしないで行くのは礼儀がなってねぇんじゃねぇのか?」
どこにでもいそうな不良がガンをつけてきた。うざったらしいと思いつつも、肩を掴む力が予想以上なことに動けなくなり、私はやむをえなく頭を下げる。
「すいません」
「ああ? すいませんじゃねぇだろうが、どうしてくれんだよ、今ので服の紐が解れちまったじゃねぇか?」
見てみると、確かにぶつかった部分が解れていた。嫌な造りをしている洋服であるとは思うが、恐らく自分で千切ったのだろう。乱雑にされた形跡が見るに耐えないほどはっきりと分かる。見れば、白椿さんが虚構を射殺すような視線でこちらを見ていた。
「おにーさん、どうでもいいんですけど、今あたし機嫌が超悪いんですよ。あたしの先輩にこれ以上迷惑かけたら、ただで済ましませんよ。つーかそれ自分で千切ったんでしょう? 誰が見ても一目瞭然じゃないですか。それに、謝る謝らないって問題だったら、おにーさんのほうこそ謝ってくださいよ。あんたみたいなクソ汚らしい存在が触れて良い人じゃないんですよ、先輩は」
本気で腹が立っているようだ。声に怒声がたまに混じっている。不良が私の肩を離して白椿さんに掴みかかる。
「テメー舐めてんのか? ガキがでしゃばってんじゃねぇよ」
「ガキはどっちですか。ああもう、予定がぐちゃぐちゃ。どうしてくれるんですか、あたしが先輩に嫌われたら、ねぇ、本当にどうしてくれるんですか? 今すぐ消えてくれればあたしもゲージ八十パーセントくらいで済むんですよ。でも、ホント、マジこれ以上邪魔するってのなら、怒るじゃ済まされませんよ? こんな因果クソ食らえだよったく」
「わけわからねぇこと言ってんじゃ――」
「消えろっつってんのが聞こえねぇのかよ。殺すぞ?」
…………。
思わず唾を飲み込んだ。それは私でもあり、不良でもあった。これは一般人が出して良い、違う、出せて良い殺気じゃない。視線を定められない、心臓が掴み取られたかのように自分の内部だけが停止している錯覚。それを間近で受けている不良の心情は未知。この殺気はもう、形容するならば……。
「――――嘘」
思い当たった。これを出せる人間が、他にいることを。
「う、く、くっそ、気をつけろよ、ったく!」
最後の抵抗か、白椿さんをアスファルトの上に投げつけて不良は走り去って行った。白椿さんは何事も無かったかのように立ち上がり、服を整える。
私は感じた感情を全て喉の奥に押し込んで白椿さんに近寄って言った。
「大丈夫?」
「先輩、あの不良を見ててください」
「……え?」
言われて私は去って行った不良のほうを見た。本気で恐ろしかったのか、人ごみを掻き分けながら奥に進んでいる。光景は酷く愉快なものだったが、私はそれを見て恐ろしいと思った。
何故なら、白椿さんがそこをただ一点、殺す視線で見つめていたからだ。
「因果ってのは、本当に最悪です。何が最悪って、その根源にはいつも運命が付きまとってるんですよ。運命の前には何も無い。ただの不慮の事故でしかない。あたしにも、先輩にもどうしようも出来ないことです。昨日まで元気だった人が突然病魔に倒れる。ただ遊んでいただけなのに死人が出てしまう。こんなことの前には、一体どんな因果が存在していたのか、考えることも億劫ですよね。だってただの日常の一ページでしかないんですもん」
「貴女、何を言って……」
「その中でも出会いっていう因果は最悪です。恋人とかが言うでしょう? 『どうして私たちは出会ってしまったんだろう』って。因果なんですよ。『運命』っていう最悪にして最強の鎖に縛られた因果なんですよ。だから私はそれを避けるために、人との出会いを必死に避けてきた。必要無かったんじゃないし、必要であれば作れたんです。先輩がおじさんから何を聞いたのか知りませんが、あたしはそういう状況に不満なんて一つも無いんです」
その瞬間、物凄い音がその方向からして、私は思わず耳を塞いだ。不思議なことに、視線だけは瞬きすらなくそちらを向いていた。車のクラクションが塞いだ耳の向こうから聞こえてくる。人のざわめきが増す。周りの人間の顔が一斉に、奇妙なくらいにそちらに向けられる。一瞬にして変貌した都会の夜。変わらないのは不気味に町を照らす蛍光灯と、そこには沢山の人がいるという事実。
悲鳴を上げる人、救急車と叫ぶ人、呆然とそれを眺める人、傍観に徹してまるで興味すら湧いていない人、そして当事者。
「――こんな場所で、あんな風に走ってればそりゃ交通事故も起きますよね」
白椿さんは、街灯に照らされた笑顔でそう言った。
因果。つまり、原因と結果。
あの男が足元も覚束ないくらいの焦りで走り去ったのはどうしてだろうか。白椿さんに出会ってしまったからだ。彼女の到底人間のものとは思えない威圧にやられてしまったからだ。
最強にして最悪の因果の鎖。今さっきまで、今度はどこに遊びに行こうかとでも考えていただろう男は、この少女を怒らせてしまったがために事故を起こした。前触れなんて何も無い。こんなものを因果と呼ぶのか、それとも運命と呼ぶのかも分からない。
ただ、白椿さんの言葉によって固定された私の視線。彼女は事故が起きることを予知していた。意味が分からない。目の前の出来事が事実なのか虚実なのか、日常なのか非日常なのか区別が付かない。それとも、その間、水と油の混ざり合った場所にでも私は迷い込んでしまったのか。
「ごめんなさい先輩。気持ち、悪いですよね。いえ、最初から分かってたんですけどね、やっぱり、人にはどうしても隠せない部分があったりするんですよ」
「私は……」
「良いんです。大丈夫です。やっぱ、あたしにはこっちが合ってるんです」
えっへっへ、と茶化すように言った。今のざわめきの中で、彼女の表情は酷く場違いだ。
白椿さんは私の手を取った。夜の空気に当てられたせいか、痛いくらいに冷たく感じた。
「帰りましょう先輩。明日も学校ですし、風邪は治った直後が一番危ないらしいですからね」
繋がれた手が因果の鎖だというのならば、彼女は私に何を求めているのだろうか。孤独が嫌いじゃない彼女に、孤独は良くないものだということを伝えるなど無意味にもほどがある。せめて私が彼女の傍に居てやれば良いのだろうか。
お節介にもほどがある。これじゃあただの偽善者だ。悪意を名乗る黒住よりもよほどに悪質で無力な存在。優等生たる私が、たかだか『悪意』ごときに劣るとでもいうのか。
これ以上深入りするべきなのか、私は選択を迫られていた。人に話せばあまりに荒唐無稽な目の前の現実に、少なくとも私は驚愕している。まるで他人事のように思っていた殺人事件に出くわしてしまったような不幸。私はその犯人と、笑いあう未来を選択しようとしている。
――嘘だ。
本当は分かっているはずなのに。
これがただの偶然だって、本当は分かっているはずなのに。
*
目の前で人が事故にあった。生死は分からない。ただ、人生で中々出会えない稀有なことだ。普通だったら人の価値観一つ、簡単にぶち壊しかねない出来事。しかし、私はそれに感情を揺さぶられたりある種の絶望感に苛まれたりはしなかった。淡白だとかそういうもの以前の問題で、赤の他人が死んだところで同情するような精神を持ち合わせていないだけの話である。
どちらかというと問題は白椿さん。
正直わけが分からなかった。あの予言めいた言葉はどこから出たのか、そしてその通りになってしまった現実。これが困惑せずに何をしろというのだろう。まるで放っておいただけの紐が絡まってしまったように嫌らしい複雑難解な思考の乱れが脳内を埋め尽くしていた。
結局その後は終始不気味なほどに笑顔を絶やさなかった白椿さんと帰宅し、自室に篭もっている。母親が干したばかりであろう太陽の臭いがする。下の階からは両親が話す声が聞こえる。おかえりとただいまを言う仲。それはいくら親不孝な子供でも知っていることだ。
しかし白椿さんはどうであろうか。
彼女は他人を拒絶しているわけじゃない。ただ、拒絶しなければならない理由があるだけだ。まさか自分と関った人物が死ぬからだとか、そんな理由じゃないだろう。そうだったら私は今頃天国のパラダイスでくつろいでいるはずだ。両親が原因であんなことになってしまっているというのならば、勝手なことでありながらあまり睦まじい仲とは想像しがたい。本当の意味で、彼女は孤独かもしれなかった。
『出会いは最悪の因果』。
彼女はそう言った。だから自分は今の状況に不満など無いのだと。
ならば、その鋼で出来たキープアウトのテープをいとも簡単に潜ってしまった私は、彼女に何を求められているというのか。
「…………面倒くさい」
枕に顔を押し付けた。途中で息が出来なくなって、顔を上げた。視線の先には滅多に使わないテレビがあった。十四インチほどしかない小さなテレビは、何故か清掃が行き届いている。恐らくたまに母親が掃除をしてくれるからだろう。銀色の型に、埃一つ被っていないことに今更気付いて驚いた。
私はおもむろにテレビのスイッチを机の上から取った。そして、ヴーンとブラウン管に電力が通る音がし、映像が出てくる。十二チャンネル、バラエティ番組がやっていた。そこでは見たことも無い芸人が芸を披露して、いるのかもわからない観客からの笑い声が飛んでいた。
そこで私は黒住の言葉を思い出した。
『人間の世界に娯楽というエンターテインメントが生まれたのは、まさに人が生きるための糧を供給したと言っても過言ではない』
それに間違いは無いと思うのだが、私はこういう番組を見ていても面白いと感じられないことが多い。昔はお笑いブームというものに乗っていた時期もあったが、いつの日からか、そういった娯楽に興味がなくなってしまったのは事実であった。そういった意味合いで見れば、私は黒住から見て『崩壊した人間』なのだろう。認められない事実であるが、認めるしかない事実だ。
チャンネルを変える。娯楽が好きではないからと言って、別段ニュースなどの堅物が好みのわけでもない。NHKをつけて、ニュースアナウンサーがちょうど記事を読んでいるところに出くわした。
「今日未明、東京都××区で連続殺人事件がありました。犯人は家宅に侵入し一家を殺害、その後その家宅の周辺住民までもを巻き込んだ、かなり猟奇的殺人だと思われます。被害者は既に百名を越え、周辺住民には避難勧告が出ております。警察は厳重警戒態勢を取っており、××区は今日夕方五時を境に完全立ち入り禁止となりました。まるでゴーストタウンのような不気味な雰囲気に包まれており……」
カメラで取られているのか、警官が三人一組辺りでその区をうろついている映像が流れていた。ニュースキャスターの比喩は的を射ていて、本当にゴーストタウンのような不気味な静けさがそこを包んでいるように思える。人がいるというのに、この虚無感は些か異常過ぎる。住人がいなくなるだけで、家というものはこれまでに空虚なものになるのかと私は目を見張った。
××区はここから近くは無い。ただ、連続殺人犯ならばその行動範囲を増すということは容易に想定できる事態だ。私は自分がこんなところで暢気にテレビなんて見ていて良いのか心配に眉をひそめた。下には親がいる。それを失ったことを考えれば、これは区内だけでなく、東京都全域に避難勧告を出すべきだ。
――そう、思え。
「…………」
私の心情はそれとは裏腹に、酷く冷めたもので、映像に流れてくるゴーストタウンとは私の心の中ではないだろうかと思ってしまうくらいだった。死に対して恐怖が無いわけではないが、危険に直面しているわけではない現状に対しては人間はあまりに鈍感と思えるほどに興味を示さないものだ。
ならば、私が今こんなにも冷めているのは何故だろうと自分で自分に問いを投げかける。ただ、返答は帰ってこない。あまりに抽象的過ぎる自己分析に、脳がついていっていないのかもしれない。
「連続殺人事件、ね」
口に出してみたが、やはり実感は湧かない。こういうのは実際に身近な人間が被害に合わなければ危機に気付かないところが性質が悪い。私はスイッチを押して、テレビを消した。
『殺すぞ?』
静寂が訪れた瞬間、酷く重い声が頭の中で再生される。私の先ほどの感情など比べるのもおこがましいほど冷たい脅し。
あの白椿菊乃は、一体誰だったのだろうか。あれこそまさに殺人者のような、それも刑事物に登場するような殺人者じゃなく、もっと狂気の世界とファンタジーに溢れたような世界に登場する人のものさしでしか計れない存在だった。それで人が一人死んだのだというのだから、あながち馬鹿に出来たものではない。
テレビの画像を思い出した。ゴーストタウン、人が蔓延る無の空間。それは何故そのような感想を私にもたらしたのだろうか。
答えは簡単だった。
その街はとても孤独だった。温かな団欒も街角の会話も消え去り、その街にとっての仲間はどこにもいなかった。警察が包囲し、外部者を許さず、そもそも中身が何も無いっていうのに、あえて何も仕入れようとしない。必要ならばすぐに中身を作ることが出来るのに、作らない。それは、意識しなくてもあるものを髣髴させる。
あそこに似合う人間がいたとしたら、私の記憶の中には一人しかいない。
同類。類は友を呼ぶ。あの街には彼女が、彼女にはあの街が互いに許容できるだろう。
――そうだ、あそこで殺人を犯すとしたら、私は彼女以外に有り得ないと思う。
その瞬間猛烈な吐き気が私を襲った。
「う、おぇ……」
突如やってきた胃袋の反感に抑えるタイミングすら与えられず、私はゴミ箱に向かって勢いよく吐しゃ物をぶちまけた。
(私は今、何を考えた?)
口の中に広がる不快な酸っぱさ。意図と反して出る涙。荒くなる息。その全てを殺したくなるくらいに自分の愚考に吐き気を催した。氾濫した川のように襲い来る吐き気をかみ殺し、拳が砕けん勢いで壁を殴った。骨に衝撃が響き、肩まで痛みが走った。今だけ、その痛みが心地の良いものに思え、次の瞬間にはその程度で自分を許そうとしていることに再び怒りを覚えた。
「ふざけないで……。何が、何が優等生よ」
他人を連続殺人犯として想像することのどこがまともだ。全てにおいて模範、オールラウンダー。決して常識の範疇から外れず、絶対的な普通を守る。それが私のやり方であり、絶対に崩れない『持論』だったはずだ。
「その私が、何も、何もしてない白椿さんを『殺人者』ですって? おかしくなるのも大概にしないさいよ私……」
何の証拠がある。何の理論がある。クラスで騒ぎがあったら、真っ先に不良を疑ってかかるようなものと何ら変わらない。馬鹿らしさを超越して愚かしさすら感じる。
「おかしい、おかしい。こんなの、私じゃない。何を考えてるの……」
ゴミ箱の中を見る。そこには吐いたものなど何も無く、自分がその気でいただけなことに気付く。それを見た直後、やりようのない腹立たしさが湧いてきてゴミ箱を思わず横に殴り飛ばした。捨てられていたゴミが床にぶちまけられる。
その中の一つ、紙くずがころころと床を転がっていく。
音も立てず、その紙くずが拾われた。
「ああ、始まってしまったよ。異常という名の変化が、形を持って、姿を持って現れてしまった。前に言ったから分かっているだろう、君も。『自分がおかしいと気付いたその事こそがおかしい』ことがあるということが」
「なっ…………」
男は音も無く私のテリトリーに足を踏み入れた。背後には扉があった。まるで、そこに彼が誘うような形で。顔を上げられない。無駄に長い髪の毛だけが視界に写る。
「おかしいと思うことはおかしいと思えば良い。そうであると思えばそうであると思えば良い。自分の思考を一般常識と単純な概念に置き換えてみれば良い。それが出来ない人間が、天才であり、そして異端者なんだよ」
「あんた、一体どこから……」
「自己崩壊――」
言霊は暴力だった。意識を直接殴られ、一瞬にして平伏す。
「天才とは……異常者とは、自分自身にすら見放された完全な孤独者だと、そう思うだろう?」
――そうか。
そうだったのか。
灰田純一はとてもおかしい。人の家にはどういう方法でか勝手に上がりこんで来るし、一度会話を始めれば混沌に満ちた内容の霧散した戯言しか吐かないし、そのくせ人の話なんてちっとも聞きやしない。けど、こいつと話すと毎回吐き気を催すのに、そのくせ私は彼とまともに会話をしようとしている。
なんて、笑える話。
「……あんた、今まで友達一人も出来たことないでしょう?」
「おや、良く分かったね。外見には自信があるのに、どうしてか僕には友達が出来ないんだ」
「そうだと、思ったわよ……」
自虐しているわけじゃない。こいつは本音で、そう喋っている。馬鹿だ。私が人生を謳歌してきた中で、一番馬鹿な奴だ。馬鹿が度を過ぎてしまったせいで、むしろ気持ち悪い。私の本能が自己防衛を果たしていたくらいに嫌悪感を与えてくる馬鹿だ。
「……あんた、名前はなんて言ったかしら」
「僕は灰田純一。とある世界の神さまだ」
彼の名前は灰田純一といった。それは彼以外には有り得ないし、彼以外認めるわけにはいかない。
訳も分からないまま、私は身体を床に倒した。もはや立ち上がる力も、瞼を開く力も残っていない。不思議とそれに疑問は無かった。腑に落ちないだけで、それはそれで良いんじゃないかと思った。
「最後に、眠ってしまう前に問おう。――君にとって、優等生とは何だい?」
その声に答えられるわけも無く、私の意識は闇の奥へと落ちていった。